001 朝から狙われる唇
「……ーちゃん、……ーちゃんってば」
未だ深く、心地好いまどろみの中で誰かが俺を呼んでいる。
内耳を撫でるように流れ込むのは甘えの効いた蜜のような声……。
「起きてよ、朝だよ」
意識の覚醒を促すには程遠く、それはまるで睡魔の奏でる子守唄のように、俺を更に深い眠りの森へと誘っていく。
「起きない。…………じゃあ、いいよね?」
ぎしぃ……と軋むベッドのスプリングの音。腹部に感じる柔らかな重み。
「おにーちゃん……」
腹部から胸部へと波のように重みが押し寄せてくる。
その吐息は甘く……それでいて禁忌の興奮を抑えきれない色香を乗せた聞き慣れた声……。
……? 聞き慣れた声?
警告っ! 警告っ! 非常事態宣言発令っ! 総員直ちに起床体勢に入れっ!
脳内がけたたましい音とともに真っ赤に染まり、その点滅がより俺の危機感を煽るっ!
俺の意識は急激に覚醒っ! しかし体はそう簡単にはいかない。
動け、動け、動け、動いてよっ! 今動かないと何にもならないんだ! とか往年のアニパロやってる場合じゃないっ! やばいやばいやばい、リアルにやばいっ!
肉体の覚醒は精神のそれに比べ格段に遅い。即席のノンフライ麺ができるのをただたた待つようなもどかしさが余計に俺を焦らせる。金縛りを気合いで無理やり解くように意識を前面に押し出す。
いち早く起きるにはまぶたを開けて眼に陽の光を入れるのが最善だ。それができれば肉体は一気に覚醒へ向かうはずだ。錆びついた重いシャッターを押し上げるが如く、ところどころ引っ掛かりを憶えながら、ようやく開いた視界には誰かの鼻が眼前に近付いて来ていた。その下には丸くすぼめられた艶々テカテカの唇がある。
コ、コイツ、チューしようとしてやがるっ! 冗談じゃねぇっ!
しかし、唇が見えてるって事はまだ間に合うって事だ。あきらめるな、俺っ!
俺の覚醒に気付いたのか、唇の接近がその加速度を増す。弾丸を紙一重で避ける漫画の1コマよろしく強引に首を横へスライドさせた。
その唇は勢いそのままに俺の枕へ着弾。俺は自身に掛けてあった布団を跳ね上げると唇の主を簀巻きにしてベッドの下へ蹴り落とす。
「痛っ、痛たたっ!」
簀巻きは悲鳴を上げ床を転がっていく。
俺は肩で息をしながらも壁に背を預け、簀巻きから距離を取る。強引に覚醒したせいか、えらく体力を消耗していた。寝汗なのか冷や汗なのか、はたまた普通の汗なのか分かりはしないがとにかく汗でパジャマはびっしょりになっていた。
「ひどいなぁ~、もう……」
簀巻きは布団を剥がし起き上がってくる。その姿はさながら成虫へと脱皮する蝶を連想させた。その大きく潤んだ瞳が甘えるように責めるように俺を見つめる。
「おはよ、おにーちゃん」
あどけない笑顔で朝の挨拶をするコイツは十祭 海斗。この俺、十祭 司の弟だ。
大事な事なのでもう一度言おう、『弟』だ。『男』なのだ。あえて言うならイケメンなのだっ! 腹立つ事にっ!
さらに大前提として言っておかねばならない。俺は断然ノーマルなのだっ! ボーイズラブなんぞ、クソ喰らえじゃいっ!
つまり先ほどまでの状況がいかに緊迫した危機的状況であったかが理解いただけたかと思う。
「おはよじゃねぇ。朝っぱらから何しようとしやがった?」
「モーニングチュー♪」
海斗は悪びれもせずに人差し指を、尖らせた唇に当てウインクをしてみせる。
ナメとんな、コイツ。血が繋がっているにもかかわらず顔のスペックが段違い。その整った顔立ちは見ていて腹立たしい。実に腹立たしい。
「あれほど部屋に勝手に……」
言いかけて気付く、俺はこの事態に備えて部屋のセキュリティレベルはレッドに設定したはずだ。
部屋のドアを振り返ると、さも当然のようにドアが開いている。
「鍵掛けてたよな?」
「テレレテッテレ~♪ 海斗はピッキングを覚えた」
海斗は無邪気な笑顔でピッキング機材一式を自慢げに広げた。
「いらんスキルを習得すんなっ!」
俺の言葉に海斗が頬を膨らませてむくれる。
「だいたいさぁ、弟が兄の部屋に入るのにピッキングが必要なんて異常だよ」
「ピッキングの発想自体が異常だ」
「もともと一緒の部屋だったのにおかしいよ」
不思議そうな顔で首をかしげる海斗。
「おかしいのはお前だ。そもそもお前が俺と一緒なのを嫌がって部屋を分けたんだろうがっ!」
「あの頃の僕はどうかしてたんだよ、ホント……」
「どうかしてるのは今のお前だっ! そもそもお前の一人称は『俺』で『僕』じゃない。さらに俺の事を『おにーちゃん』なんて、そんな可愛い呼び方もしやしないっ!」
「そうだっけ?」
とぼけた顔で可愛げに首を傾げる。そんな仕草も考えられんっつーの。
「いつも女子を連れて歩いて、すれ違いざまにゴミを見るような眼で俺を見下げてたろっ!」
「今はおにーちゃん一筋だよ♪」
ぞわわ……っと蟻の大群が一斉に足元から駆け上がって来るかのような鳥肌が猛烈な寒気を伴って俺の肉体を蝕む。思わず自身の二の腕を抱きしめてしまう。
「そんなん要らんねんっ! 出て行け、もうっ!」
言いながら、汗に濡れたパジャマを脱ごうとボタンに手を掛けるが、気配が動いてないの気付き目を向けると、ちょこんと正座した海斗が目を爛々と輝かせこちらを見つめている。
「何をしている?」
「お構いなく~」
躊躇なくその顔を踏み付ける。イケメンだろうが知った事かっ! シッシッと犬を追いやるように部屋から追い出した。
「やれやれ朝から疲れる」
溜め息まじりに上着を脱ぎ捨てると、肌に刺さる視線が悪寒を全身に走らせる。視線を辿るとドアがかすかに開いており、その隙間から海斗の顔が見えた。
「覗くなっ!」
脱いだ上着をドアへ投げつけてやると、海斗はあろう事かそれをかっぱらって行きやがった。
「俺の上着をどうする気だーっ!?」
俺の恐怖に駆られた問い掛けもむなしく足音は遠ざかっていく。
疲労による深い深い溜め息が自然と出た。
別に男ですから裸を見られてどうこうは無いけど、ああも露骨に性的興奮に突き動かされた視線を浴びるのはさすがに不快極まりない。女って大変だよな。そんな事も思慮してしまう。
ふと姿見の鏡に映る自分を見る。
そこには何の特別感も無い、ただただ冴えない顔がそこに映っている。出涸らしのような印象しか残せないであろう薄い顔だ。
わかりやすい表現を使えば、『へのへのもへじ』だ。
……泣いていいかな? いいよね?
本来、海斗との兄弟仲は良い方ではなかった。前述にあるようにアイツは俺を毛嫌いし、会話なんてものはろくに無く、その雰囲気すらも今の可愛い系ではなく何やら尖った感じで近寄りがたかった程だ。
それがあの様だ。ツンがデレに裏返ったとはこの事か? 男が男にツンデレて……、考えただけで気持ちの悪い、悪夢のようなワードじゃないか……。