そして
気が付けば、何もなくなっていた。
いつも視界にあった檻も、店主も、何もかも。いつの間に、自分は移動させられたのだろうか。もう、記憶すらできないほど、自分は弱っているのだろうか。
華の周りを、黒い靄のような、霞のようなそれが揺蕩っている。きっと昔の華であれば、恐怖を抱いているだろうが今の華にそれはない。
むしろ、これは自分と近いものだと本能でそう思った。
これは、自分を傷つけない。それに安心した華は、ゆっくりと目を閉じた。
―――どのくらい、たったのだろうか。
華は動く気にもなれず同じ場所で座り込んでいた。何が起こったのか分からないが、少なくとも檻の中ではないことだけはわかった。今なら、逃げられるかもしれない。だが、正直、もう動けるような気力は華にはなかった。度重なる暴力に、満足に食事も摂っていない。棒切れのような手足は、数分ですら歩けそうになかった。
そして檻がなくなったとして、自分はいったいどうすればいいのだろうか。色合いからして誰も助けてくれないのは分かっている。町を歩き回れば、また別の奴隷小屋に見つかって見世物にされるだけだろう。
いずれくるであろう終わりに、華はなんの感情も動かさずに待つほかなかった。
浅くなる息に、華はようやく終わると安堵すらした。だって、もう、辛いから。こんなにも辛い人生なら、もう終わりにしてしまいたかった。自分がいた世界ではないということは、痛いほど理解している。これは、ドッキリでもなんでもない。
全てが現実だ。
夢であってほしいという願いは否定され続け、結果吐きそうになるほどの現実だけが華を襲った。だが、それもすべて、どうでもいいことだ。
華は、諦めた。
全てを。
だって、そうしないと、つらいから
気づけば月が空に出てきて、華を優しく照らし始めた。青白い光は、世界を優しく照らす。
そういえば、この世界に来て、月なんてものの存在を意識したのは、今日が初めてだと華は思った。ここに来てからは毎日が絶望と憎悪の気持ちばかりで、景色に気を配る余裕なんてかけらもなかった。
だからよく見ておこうと思った。
もう、二度と見ることはないだろうと思ったから。
その光は優しく、ニンゲンなんて自分を傷つけるものからは程遠いそれは、傷つき摩耗した華の心を僅かではあったが癒した。微かな体力を何とか使って、空を見上げる。自分を傷つけないものの一つである月は、華に何かを語り掛けることはない。
それは当然だ。
だが、その当然を理解できないほど華の精神は蝕まれていた。
もう、生きていることを諦めようと。
もう、これ以上頑張れないと思いながら月を見ていた。
はっきりとは見えないが、まん丸いことからきっと満月なのだろうと思う。最後に見るものが、優しいものでよかったと考えていると。
月に一つの影が浮かび上がってきた。それはどんどんと大きる。その影からして、羽のような何かをもったナニかだとわかる。
―――思考能力の失った華には、だただた事実としてしか捉えられなかったが。
その影は、どんどん大きくなり、華に近づいているのは何となく理解できた。バサリ、と羽音を響かせながら、それは華の目の前に降りたった。その機械的ではなく動物的な動きに、それは生きた何かだということを華は知る。
華は興味がないままにも、ゆっくりとその影を見上げる様に顔を上げた。
もう死にゆく自分には、誰が何をしたとして意味を成さないだろう。優しい月以外を最後の視界に収めたいとは思えなかったが、自分の目の前にいるナニかを無視することはしなかった。
もしそれが、華にとって少しでも優しいナニかであればいいなと、僅かながらの希望もあったのかもしれない。
月明かりの逆光で良く見えないが、羽を生やしたニンゲンのような容姿をしていているのだけはわかった。
頭に、二本ずつある腕と足。だが、羽を生やしたニンゲンがいるなんて聞いたことはない。だから、華を傷つけたニンゲンではないだろうと考える。とりあえずニンゲンでないことに安心した華は、視線を下に向けた。
もう、頭を上げている事すらも、今の華にはきつかった。あと、どれくらい残されているのだろうか。疲れたから、早く終わらせてほしい。
そんなことを考えていると、ソレは跪いて華に話しかけた。華は栄養失調のため、視界すらも覚束ない状態だった。だからソレが男とは、はじめ分からなかった。それでもわかったのは、その声をかける存在の声の低さゆえだった。
「魔王様」
華は、マオウサマとはなんだろうとぼんやりと考えた。
どこかで、聞いたことがあるような気がする。
だが、それの記憶すらも、思い出す前にすぐに霧散する。
そんな華を前に、男は重ねて言う。
「魔王様、我らが魔王様。あなた様をお待ちしておりました」
その言葉に、華は目を見開く。それだけでも、華の体力は奪われる。だが、華はそうせざるを得なかった。その言葉に似たような言葉を、かつて送られていた少女がいた。
魔王ではなかったけれど。
「・・・・・・ま、おう・・・?」
そうして華は初めて男をはっきりと見た。
霞む視界、それでも何とか見る。月明かりだけではよくわからないが、美しい顔をしているのだろうと、思った。朧げな視界でもわかるほどの、はっきりしとした顔立ち。黒く長い髪に、深紅に輝く瞳の奥には、縦長の瞳孔が見え耳はとがっていた。
それは、華が知るニンゲンではあり得ない相貌だった。
「はい、私たちの魔王様、どうかお名前を伺っても」
「・・・か、ん、ちが、ぃ」
だと思うと、華は続けようとした。掠れた声のせいで続きは紡げなかったが。
まおう、とはなんだろうか。その言葉のまま、魔王、でいいのだろうか。
一応ではあるが、華は人間だし、そもそも聖女というふざけた儀式によってこの世界にいるらしい。だが、ファンタジーのような力なんぞ、何一つとしてもっていない。持っていたら、このように棄てられなかっただろうと思ってる。だからその男が言う、まおうという望まれた存在だとは到底思えなかった。
しかし華の否定に、男は否定した。
「いいえ、あなた様こそが、我らが魔王様であらせられます」
男は、確証でもあるのか、そう断言した。
そして再度問うた。
「我らが魔王様、どうか、お名前を」
まるで懇願するかのように言われて、それを拒絶することは難しかった。この世界で一度として問われたことのない、自身の名。そうだ、と華は自身の名を思い出す。そう、私には、両親がつけてくれた名がある、と。もう顔も思い出せない両親。だが、それでも華は愛していると断言出来た。
本当であれば、こんな場所で愛された名を口になんてしたくない。
名を覚えてもらいたいと思う人もいるだろうが、華は違った。
しかし、どうせもう長くはないし、と華は思い自分の名を口にすることにする。ニンゲンであれば絶対に言わなかったが、目の前の男はニンゲンではなさそうだ。その彼に言うくらいなら、いいだろう。
この、ふざけた世界に拉致された自分の名くらい、教えてもいいだろうと華は思った。
「――――華」
その言葉を聞いた男は、とろけるように微笑みを浮かべた。まるで、この世の幸せがここにあるのだと言わんばかりの笑顔で。その絶世とも言える笑みのまま、華の名前を口にする。
「ハナ様、ハナ様、なんと素晴らしい響きを持つお名前でしょうか・・・。お迎えが遅くなりました、どうぞ我らの領地に帰りましょう」
「・・・かえ、る・・・?」
「さようです、どうぞお疲れのようですので、ゆっくりとお休みくださいませ、ハナ様」
そう言って、男は華の額に優しく指を当てた。すると華の意識はゆっくりとまどろんでいき、そのまま落ちていった。そうすると、華の体は青白い仄かな光を帯び始める。後の華が知ることになるが、それは上位魔法である癒しの術だった。
男は華を、大切に大切に抱き上げると、空に向かってその羽を羽ばたかせた。