割れる音
奴隷小屋での生活は、信じられないくらいに酷いものであった。自分がいた世界が、いかに恵まれていたのかを肌身を持って、華は知る。
まさしく凄惨、その言葉に尽きた。
右も左も分からない華に、店主らしき男はじろじろと無遠慮に視線を走らせた。そのいやらしい視線に、華の体は縮こまる。逃げようと視線を扉に向けるが、そこには屈強な男達がいて逃げられそうにはない。
自分がこの先どうなるのか。考えるだけで身体が勝手に震えた。怖くて怖くて、いっそ発狂してしまいたい。どうして、そんな目で見られなければならないのだろうか。
「おい、黒目黒髪だぞ。珍しいからな。とりあえず見せもんにしてみるか」
奥から出てきた女は豊満な体を持ってはいるものの、若くは見えなかった。婀娜っぽい雰囲気のそれは、色気を通り越してただ単に汚らしい。
「あら、ほんと。純粋な?」
「そうらしい。まるで魔王みたいな色だな」
「アハハ、昔話の?確かにねぇ。でも大丈夫なのかい?」
「あぁ、騎士様曰く、ただの人間だそうだ」
「そう、ならとりあえず見た目からどうにかしないとねぇ、そんな変な恰好じゃ、見せもんにもなんないよ」
そう女は言って、また奥へと引っ込んでいった。華はその二人の会話に、驚きを隠せなかった。
魔王?
騎士様?
そんな、ファンタジーの世界のような言葉を、大人が使うものなのだろうか。何かの隠語なのだろうか。だが、あの赤毛の男は殿下と呼ばれていた。華とは一生縁のなさそうな人たちだった。
そう、絶対に華と出会うことのない人種に、華は最初出会った。
そう、元居た世界では海外にしかいないような人物ばかりだ。
そういった人たちと出会うはずなんで、華の人生ではあり得なかった。だからこそ、華は自分がいた世界でないと突きつけられたような気すらした。だって、絶対に会いそうな人たちではない。
知らない人、知らない場所、これで言葉も分からなかったら、華はきっと発狂していただろう。だが、通じたことによって日本だと、そう思ってしまった。これが演技だとしたら、なんて悪質なのだろうと。
でも、演技なら、まだいい。
しかしそうではない事を、華は薄っすらと本能ながら気付いてしまっていた。だって、いつまでたっても、看板を持っている人は現れない。いつまでたっても、抓る腕は痛いままだ。
そして華は、人形のように飾りあげられ、さらなる悪夢へと身を落とした。
黒目黒髪は珍しいらしく、常に檻に入れられた。漆黒の粗悪なドレスで着飾られて、手足に鉄の手錠を付けられた。それは、華の柔い肌を傷つけ、気がつけば血すら滲んでいた。今までいた世界ですら、今使ったら社会的に叩かれるであろう太く重いそれに、華は絶望を感じる。
檻は冷たく、逃げ出すことすら諦めざるを得ないものだった。
華は元の世界でただの社会人、本であるような力なんて何一つ持っているはずもなかった。
檻に入れられて幾日、いや数か月経ったのか。無遠慮に投げつけられる視線に言葉。まるで魔族だと言われながら、しかし檻にいると怖くねぇなと嘲笑される。
魔族なんかじゃない、同じ人間だといくら言っても、それを嗤われた。
屈辱と惨めさが、胸の内を焦がした。
同じ、人間の筈なのに。
―――――パキリ
碌な食事を与えられることはなかった。水のようなスープ、固くて歯の立たないカビたパン。華の元の世界で甘やかされた胃は、それらを受け付けることはなかった。
八つ当たりで殴られることもあった。女としての尊厳は守られていたが、それでも華には耐えられるものではなかった。腹を殴られ、腕を抓られ、足を踏まれ。
顔だけは殴られることはなかったが、それがマシなほうなのだとは華には思えなかった。
しかし他の売られた女達は、華の待遇をそれでも良いほうだと思っていたようで、ネチネチと暴言を吐いては、華に対して小さな嫌がらせをした。
元の世界で社会に出て、多少の嫌がらせはあるだろうと思っていた。だが、ここまでは想像なんて、していなかった。
ここまで、自分の人間性、生きてきた全てを否定されるなんて、思ってもみなかった。不意に、昔見た映画を思い出す。
人体実験をされた彼は、復讐の為に全てを破壊することを目論んだ。
その結果、彼は死んだ。
なんて、退廃的な映画なのだろうとあの当時は思ったが、今なら理解できる。自分が死んでもいいから、一矢報いたいというその気持ち。あれは、海外の映画だった、特徴的な仮面をつけていたのを、覚えている。
―――今は、まだ。
店主の男曰く、黒目黒髪のまるで魔の象徴のような華は、女としての魅力が全くないらしい。そっちの方面で期待できないと、面と向かって言われた。しかし、見世物として儲けるから、今は生かしておいてやると。
だから精々見世物として生きてくれよ、と。
華は、自分の心が死んでいくような気がした。
人間としての尊厳を踏み躙られ、女としての誇りすら否定される。
もちろん、こんなところで女として扱われたいなんて、思っていない。
だが、言葉に出来ない思いもあるのだ。
そして、不意に思い出す。
佐々木という少女を。
殿下と呼ばれた男を。
―――――パキリ
―――帰して
華はうわ言のように呟いた。帰りたかった。もう、こんな世界に一秒だって、居たくなかった。
―――私の世界に、帰して
枯れたと思ったはずの涙が、溢れてくる。華は、切実に帰りたいと思った。その為なら何でもするとすら、思えた。
それくらい、この世界には存在したくなかった。
―――おねがい、わたしを、かえして
今ならわかる。
私のあの世界が、いかに優しかったのかを。あの世界が、どれだけ愛おしむべきものだったのかと。離れてからわかるものがあるというが、こんな形で知りたくはなかった。
嗚咽を漏らすほどの体力もなく、ただただ涙を流した。
―――――パキリ
何の為に生きているか分からないまま、華は一日を過ごす。感情という感情が磨耗し、考えることすら億劫になっていた。見た目は綺麗にされているが、手足はやせ細り肋骨は浮いていた。ドレスに隠されている場所は、たくさんの痣が肌を染めていた。
痛くて痛くて、栄養が足りていないせいで治りもひどく遅くて。泣きたくとも、泣けるほどの水分を摂取できていないせいで、涙を流すことすらできなくなっていた。
でも、どうしようもないのだ。
逃げたくても、逃げられない。逃げようにも、宛も何もなにもない。
ただただ、終わりがくる日を待つしかないのだ。
それ以外華に出来ることはないのだ。
そんなある日、奴隷小屋の店主がにたにたと下卑た笑いを浮かべながら、華の檻にやってきた。そのころの華はすでに、息をすることしかできないほど弱っていた。そんな虫の息の華を前に、でっぷりとした腹をした店主がやってきた。みっともないというべきでっぷりとした腹を揺らしながら、意気揚々とやってくるその姿はひたすらに醜い。
そして男は言った。
喜べ、お前を買いたいという奇特な御仁が現れたぞ、と。華は、良く回らない頭で何とか理解しようとした。男は、何を言っただろうか、と。そして移ろう意識を一生懸命にかき集める。
か、う。
わたし、を。
なんの、ため、に。
「お前のような奴は、貴族様の慰み者にでもなって剥製にされるのがオチだろうがな」
―――――パキリ
「もしかしたら実験台かもなぁ、まぁ、買ってくれる変人がいるだけ、ありがたく思え」
―――――パキリ
――――――パキリ
華は、なんてこの世界は理不尽なのだろうと思った。自分は、何もしていないのに。何一つとして、この世界に対して酷いことなんてしていない。
むしろ被害者だ。
そう、自分は被害者なのだ。
自分の住んでいた世界から連れ出され、そして棄てられた。それを被害者と言って、なにが悪いというのだろうか。
そして霧散しそうになる意識を必死にかき集める。
私が一体、なにをしたというのだろうか。
私が一体、どれだけの悪徳を積んだというのだろうか。
ただ、一生懸命生きていただけだというのに。
明日の為に、自分の為に、他人の為に、生きていただけだというのに。
ただただ、あの世界で、生きたかっただけなのに。
何が、いけなかったのだろうか
誰が、いけなかったのだろうか
私が、そこまで悪いことをしたのだろうか
私が、そこまで罪深いことをしたのだろうか
薄れそうになる意識の中で、それは違うと誰かがいう。生きているうえで、何かしらの業は背負うだろう。それでも、ここまでの業ではないと信じたい。
華は朦朧とする意識の中で、それだけは絶対に違うという。少なくとも、今世ではただただ一生懸命に生きていただけだ。前世は知らなくとも、人様に迷惑をかけないように生きていくのが信条だったのだ。
そして考える。
何が、私から、あの世界を奪った―――?
誰が、私から、私を奪った―――?
「――――そうか、ニンゲンか」
―――パキン