フツウ
今更、私はもどれない
戻りたいとも思わない
あんなに、帰りたかったのに
あんなに、大切だったはずなのに
今はその記憶すらも朧気だ
もう、大切な人たちの顔すら、思い出せない
帰りたいと、思っていた
あそここそが、私の世界だと思っていた
―――でも、もう無理なのだろう
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五将の他の四人と面会し、その後。華は夕食を終えると一人テラスに出ていた。
外は少しだけ肌寒く、空気は透き通っていた。あの日見たような月が、華の肌を青白く染めている。その優しき光はあの時と変わらず、華にとって優しいものの一つとして認識されていた。
短時間であれば問題ないが、薄手のネグリジェのみではやはり寒い。この世界に四季があるのかは知らないが、少なくとも今の華にとってこの場は寒かった。
しかし、それを感じられることにすらも今の華にとっては感動できるものだった。少し前までいたあの場では、寒いとか暑いとかすらも、気にすることはできなかった。
手足を見れば、相変わらず棒のような細さではあるものの痣はなくなり、以前に比べて肌色はいいように感じられる。しかし未だ全快には程遠い。長時間歩くと息切れは起こすし、食事だって少ししか食べられない。
それでも、以前に比べれば大分マシになったとは思う。
そう、あの奴隷小屋にいたころに比べれば。あそこと比べること自体、間違えているのかもしれないが。
華は悩んでいた。これからどうするのかを。一時の感情に身を任せて、降伏はしないと言い放ったものの、実際にどうすればいいのか皆目見当もつかない。
魔族たちは華を魔王として受けれている。だが、実際に何をするのかは確認していない。そもそも華は元の世界ではただのOLだった。帝王学なんてものは言葉でしか知らないし、国を治めるなんて今まで想像したことが無かった。
しかし国を治めるというのであれば、今間のままではいかないだろう。学校の生徒会長なんてものでは話にならない。
―――そもそも生徒会長なんてものを務めたことなどないが。
魔王というものになると決めたのであれば、そのままではいけないだろう。王と名の付くものであれば、自分の治める国が発展をすることに尽力するのが普通だ。
華は、少しずつではあったが魔族の国というものに愛着を持ち始めていた。自分を傷つけないというものも、もちろんある。だって、この国のものは皆、華に好意的なのだ。いきなり降って沸いた華という魔王に対して、あまりにも。もしこれが内戦のさなかやらクーデターを行っていたのだとすれば、華の存在に縋りつく思いも理解できた。
だが、魔族の国はそれもない。教えてもらった限りでしかないが、少なくとも貧困の差が激しいとか内戦を行っているというのは聞いていない。
それが本当かどうかまでかはわからないが、見る人の表情を見ればそれも嘘ではないのだろうと思える。
それにあの地獄のような場所から連れ出してくれたギルと言う存在もある。吊り橋効果、とでもいうのだろうか、ある種の好意すら、華はギルに対して持っていた。彼だけは、自分を裏切ることはないと。心の内でそう思ってはいても、表に出すことはなかったが。
だからこそ、華は迷っていた。
―――本当は、自分の望みなど分かっている。
今までの世界を考えれば、それはいけないことだと、そう感じていた。
―――それでも、できることなら。
駄目だ、それは、あくまでも私の望みだ。
―――だが。
「――――ふくしゅうしたい」
ぽつりと漏らした声は、本来であれば誰も拾うはずはなかった。
「―――ハナ様、その様な恰好ではお風邪を召されてしまいますよ」
「!」
慌てて背後を見ると、そこにはギルが厚手のストールをもっていつの間にかたたずんでいた。足音も何もしなかった。華は若干居心地の悪い思いをする。
「…いるなら、声を掛けて」
飛び跳ねる心臓を抑えようとしながら、華はむっとした表情でギルに言った。
ギルは悪びれた様子もなく申し訳ございませんと、軽い謝罪をしながら華の肩にストールを掛けた。華ははぁ、とため息を吐きながギルを見上げる。
「それで、何かあったの」
「そうでした、ですがその前にハナ様、どうぞこちらへ」
ギルはそういって華をテラスに用意してあったテーブルへと手を引いた。そこには、いつの間にかほのかに湯気をあげる紅茶が用意されており、華は椅子へと腰を下ろすよう促された。華の世界でも、ここまでのレディーファーストを受けたことはない。若干の恥ずかしさを覚えながら、華はギルのエスコートに身を任せる。
「あぁ、ハナ様、こんなにお手を冷やされて…。どうぞ、紅茶を用意いたしましたので少しでもお身体を温めて下さい」
「ありがとう…」
わざわざ用意してもらったのだから、一口飲んでから来訪の理由を尋ねてもいいだろう。華はそう判断し、淹れられた紅茶を口に含む。ちょうどいい温度のそれは、華の口腔から熱を与える。鼻を抜ける香りは優しく、これからの眠りを妨げることはないだろう。
「――――ハナ様」
そんな華を、ギルは微笑ましそうに見つめている。
そのあまりの優しさに、華のほうが居心地の悪くなる思いをするほどだった。ギルはそんな華の心を知らないまま、ゆっくりと華の足元に膝をついた。
いくら今日一日で沢山の膝付きを見たとはいえ、居心地の悪いようなむずむずとした感覚が華の胸中にわく。
「ハナ様、復讐を、成されたいのですか」
その瞬間、華の呼吸が止まり、思考が停止する。
どうして、それを、と。
そして彼の登場から考えれば、聞いていて当然だ、とも。
だが、思わず言葉が漏れた。
「……聞いて、いたの」
呆然とする華に、ギルは頷いて続けた。
「なぜ、そう望まれないのでしょうか」
あまりにも真摯に問うギルに、華は言葉がつまる。どうして、望まないのか。―――望めるわけがない。
統治者というものは、自分の欲に駆られてはならないのだ。
そんなことをしてしまえば、国が終わる。そう、あの世界の歴史は物語っていた。その時点で、華は魔王になる気があったのだと気づくのは、もっと後のことだった。
「…だめ、でしょう、普通に、考えて…」
「普通とは、何でしょう?」
「……え?」
華は、ギルが知らない国の言葉を発したかのように感じた。
普通とはなにかと。あの世界の、普通。それは――――。
そう、華にとっての普通。
あの世界では、目には目を、歯には歯をは社会的に許されていなかった。だが、ここはあの世界ではないのだ。この世界にはニンゲンがいて、魔族がいる。
それとあの世界を、なぜ同じように考えていたのだろうか。
「ハナ様、ここは、あなた様の国です。あなた様がそれを普通と仰られるのであればそれに従いましょう。しかし、それは、あなた様の元の世界の普通です。ここでは、そのようなものはありません。…ニンゲンの国ですら、ないのですから」
「―――――」
華は目から鱗が落ちた気分だった。
そうだ。ここは、あの世界ではない。ニンゲンのだけが世界を支配している世界でもない。あの世界と、この世界の法は違う。この世界のニンゲンの作った法律など、華には知ったことではない。
だって、華はニンゲンを心の底から憎んでいるのだから。なぜ、私はそんなものを持ち出して自分を戒めていたのだろうか。ギルの言う通りだ。
「―――ははっ」
乾いた笑いが込み上げてきた。二十年以上生きた世界の常識は、思った以上に華を形成していたらしい。当たり前と言えば当たり前だろう。華にとって、あの世界は本来華が生きて死ぬべき世界だったのだから。だが、もうあの世界には帰れない。もし帰れたとしても、もう今までの華ではいられない。
「そうか、ここは、違ったんだ…」
思わず零した呟きは、地に足を付けたような安心感と共に吐き出された。




