こんなんでましたけど~占い師、裁判員をやるの記1~
宝くじは、買わなければ当らないが、裁判員というものは法曹関係者でない選挙権がある人間ならば、何かを買うか買わないかといったことは問題とならず、当ることがあるものである。
筆者ことオレこと遥夏は、ごく一般的なフリーターよりも収入がなく、かといって、ごく一般的なひきこもり状態にあるひとたちや、いわゆるニートのひとたちほど徹底して仕事を放棄するという勇気ある行動もしておらず、これ以上もなく中途半端である。
また、極めて傲慢な性格を有している自覚があり、安請け合いに裁判員になったことを喜んだ。
日当などの現金収入が魅力的であったのだ。
そして、単なる運によって、裁きを行う権利の一端を担うという傲慢さを満足させてくれる仕事にありつけるのは、これほどラッキーな話はないというべきものであった。
単なる運。
実は、オレが日常的に食い扶持を稼ぐために、生きる手段としているのが占いである。
すでに述べたように、これだけアンポンタンな人間が、さてもさても、妖しくもますますイイカゲン極まりない職業をよすがにしているのであるから、裁判員になって本当に大丈夫であるかどうか。
おそらく、ちっとも大丈夫ではない、と、同じ裁判を行った裁判官や裁判員は思ったことであろう。
が、最終的にくじびきで選ばれるわけで、じゃんけんやくじびきにはそれなりに自信のあるオレは、他の人がどう思おうと、それで選ばれてしまったのだ。
本来「裁判員選任手続き」という、実際の裁判にはいるまえの手続きの中で、裁判員をくじ引きで選ぶ直前の段階に「検察あるいは弁護人が理由を開示することなく選任対象から外すことができる」というものがあるため、それにふるい落とされていないのだから、したり顔で選ばれてラッキーと思うしかない。
むしろ、どれほどチャランポランな人間であろうとも、司法を分かりやすく、身近に感じさせるための制度が「裁判員制度」であって、あるいは、社会的にそうとうな不良品らしい人間だとしても、それでも市民感覚の意見が採れる「裁判員」には違いなく、評議での発言は裁判官と価値がかわることがない。
そもそも、生活に困窮したら飢えて過ごしたり、あるいは女友達に匿ってもらったり、男友達とヒモ契約をして養ってもらったり、なんとかかんとか生き延びているくらいの人間だが、間違いなく、法曹関係者にはこんなオレのような生き方に培われた意見などあるはずがないのだから、むしろ、大手をふって「オレは裁判員」なのである。
もちろん、裁判員が重責であることは頭では理解している。
目の前にいる被告人から、権利をもぎとる発言ができるわけである。具体的には、被告人の自由を奪うことができるわけである。他人の人生を狂わせる可能性があるわけである。
が、オレは、占い師としてもそうでないとしても、大いに他人の人生を狂わせる能力に長けていると自負している。自慢にならないので、ある意味では自戒している。
裁判は、オレが考えるに、占いに似ている気がする。
目の前に迷える者がいて、なんとか、もとの歩くべき道へと返らせようとする。
人間の運における不幸とは、ある意味、その人間にとって間違った道を選択しているときにことのほか多く発生する。
社会的人間の犯す罪とは、ある意味、社会そのものが壊れないように作り上げた道を考えずに行動しようとしたときに、罪となるものである。
やることは、同じなのだ。
相手の話を聞き、ただ、不幸を清める方法を伝授するか、罪を償う禊ぎをさせるかの違いだ。
ただ、占いでは、相手のことだけを考えれば何とかなる部分が多いのにたいして、裁判では、社会的公平感とか処罰感情とか、規模を広く視野に含めるだけのこと。
オレにとっては、やることはあまり変わっていないような気がする。占いにだって、クライアントがこういう行動をしたら関係者がどう感じてどう行動するか、視野を広げて考えることだってままあるのだ。
そして、これもやはり、占いでも裁判でもそうかもしれない。
自分なりに考え、色々な人の思惑を鑑みて、それなりの結論を出さなければならないけれども、果たして、本当にそれでよかったのか、思い返し、しくじっていることに気づいたりしたときは、すでに、クライアントの運命は動き出してしまっているし、被告人は刑の執行をされてしまっている、かもしれないのだ。
後悔は、あとになってからするもので、どれだけ悔やんでも取り返せない。
だからこそ、全身全霊をこめなくてはならない。
自分の人生はどれだけ棒にふろうとも、適当なことをやらかしてひょうひょうと生きようとも、誰かの迷惑になっていなければ辛うじて黙認される。
だが、他人の人生を、勝手に時間の浪費をさせ、あるいは強制的に起床や就寝を定め、無賃にて労働するための人生だ、と決め付けることは、本来自由な権利を持つ者同士ではやるべきことではないように思われる。
罪を憎んで、人を憎まず、という。
少し昔であれば、小学生や中学生などでも、教師に普通にひっぱたかれた。オレが知る事例では、授業中に学校を抜け出そうとした生徒に竹刀を持って追い回し、竹刀が90度近くまでしなるほど頭をぶたれたなどということもあった。
悪いことをしたら、そういうことが当然であり、教師は怖い存在であるものだったし、親はそれをこそ信頼して子どもを預けたものである。
が、時代をみれば、こんな教師は、化石でしかない。
悪いことをしても、対等程度の人権をもっているのが相手なのだ。
裁判員の制度は、ごく一般的な法律の専門家でない意見を聞くことも目的のひとつであるが、裁判員を導入することは、情状と呼ばれる部分が大きく影響すると考えられる。
法的に相手の文言をとらえたものではなく、血の通った一般的価値観で、被告人の反省の程度や今後の決意や犯罪をしなければならなかった理由などを、丁寧に詳細に見ろということだろう。
事件によるだろうが、問答無用で竹刀を振り下ろすのではなしに、まず、被告人という権利を持つものの事情を加味し、おおむね、それは被告人の権利をとにかく優先して守るところから発端があるのであると考えられる。
裁判は、最終的には、間違った判断をしてはいけない。
なんらの罪を犯さないひとが、必要のない勾留や懲役を受けてしまわないために、だからこそ一般的な良識が判断に要されているといえるのだろう。
間もなく、裁判員制度もまる三年が経とうとしており、本当に一般人が裁判に血を通わせることになったかどうか、ある程度の実績がでることとなる。
さて、そんななか、オレが裁判員になったわけである。
これを書き始めたのは、判決後で、守秘義務の内側にある情報は書くことができないが、ある程度、公判でのことや自分の感慨について書くことは許されていると愚考する。
どれほど腑抜けで社会的に不良品であろうオレだとしても、本気を出せば、結構「やるもんだ」と思う。
そうした、ちょっとの自慢、ちょっとの不安、あるいは、これから先、選ばれるかもしれないあなたのために、極めて自己満足に記録を残そうと思うしだいである。
~つづく~
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