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保留

作者: 七篠 未明
掲載日:2026/10/31

 死のうと思った。


 味噌汁の火を止めたところだった。鍋の縁に飛んだ汁を布巾で拭く。冷めると落ちにくくなるからだ。


 別に、嫌なことがあったわけではない。いや、嫌なことならいくらでもあった。ただ、そのどれかを死ぬ理由にするのは、どうにも違う気がする。


 仕事が嫌なのかと聞かれれば、そうでもない。誰かと揉めたわけでもなければ、特別な不幸に見舞われたわけでもない。


 ただ、死にたかった。


 いつからそう思っていたのかは覚えていない。ある日突然というより、以前からそこにあったものを、ようやく見つけたような感覚だった。


 何をするにも、その先がある。


 飯を食えば食器を洗わなければならない。洗えば乾かし、乾けばしまう。しまった食器は、また次の食事で使う。


 仕事も同じだ。今日の仕事を終えれば、明日の仕事が待っている。


 楽しいことがないわけではない。美味いものを食べれば美味いと思うし、面白いものを見れば笑う。それでも、明日を迎えたいとは思わなかった。


 私は味噌汁を椀によそい、一口飲んだ。


 少し塩辛い。煮詰まったらしい。


 それでも残さず食べ、鍋に残った分は小さな容器に移して冷蔵庫にしまった。



 死ぬことについて調べてみた。


 いくつかの方法が思い浮かんだものの、どれも想像していたほど単純ではない。苦痛があるかもしれない。思いどおりにならないかもしれない。命が助かっても、元の生活に戻れるとは限らない。


 どうせ死ぬのなら、綺麗に死にたいものだ。


 白い百合に囲まれて死ぬ自分を想像した。床が見えなくなるほど花を敷き詰め、その中央に横たわる。なかなか美しい光景ではないか。


 昔、百合には毒があると聞いたことがある。あの強い香りで、人間が死ぬこともあるのではないか。


 調べてみれば、そんなことはないらしい。


 それでも、白い百合のことが頭から離れなかった。



 翌日、近所の花屋へ行った。


 店先の百合は、想像していたよりもずっと大きい。厚みのある花びらに細い筋が走り、雄しべの先には茶色い花粉がついている。


 値札を見て、少し迷った。


 高い。


 部屋いっぱいに敷き詰めるとなれば、相当な金額になるだろう。


 結局、一本だけ買った。


「まだつぼみが二つありますから、長く楽しめますよ」


 店員はそう言い、茎を紙で包んでくれた。礼を言って店を出る。


 帰宅してから、花瓶がないことに気づいた。花を買う習慣などないのだから、当然である。


 台所を探すと、透明な計量カップがあった。


 水を入れて百合を挿してみる。どうも収まりが悪い。茎が長すぎるらしい。


 下の方を少し切って挿し直すと、ようやく落ち着いた。


 花の向きを変えようとしたとき、袖に黄色い花粉がついた。


 指で払ったところ、かえって広がる。洗面所で水を含ませてみても落ちない。


 諦めて袖をまくった。


 計量カップの側面には、二百、四百、六百と目盛りが振ってある。その向こうで、百合が白い花びらを広げていた。


 花を少し回してみる。


 どの角度から見ても、目盛りは消えない。


 仕方なく、そのまま机に置いた。



 死ぬのなら、遺書くらいは残しておこうと思った。


 大した財産もない。誰かに伝えておかなければならない秘密もない。それでも、何も残さないのは落ち着かなかった。


 便箋を一枚取り出し、書いた。


『私が決めたことです』


 読み返してみると、妙な文章だった。


 決めた。


 いつ決めたのだろう。


 味噌汁の火を止めたとき、確かに死のうと思った。だが、あれを決断と呼べるのか。


 あのあと私は、鍋の縁についた汁を拭き、味噌汁を食べ、残りを冷蔵庫にしまった。食器を洗って、いつもどおり眠った。


 翌日には花を買いに行っている。


 買うつもりだったのは百合なのに、店先で菊の値札も見ていた。菊の方が安かったからだ。


 あのとき、菊を買って帰ることだってできた。


 もっとも、菊を買ったところで何が変わるのだろう。


 便箋へ目を戻す。


『私が決めたことです』


 もう一度読んだ。


 私は、その一行に線を引いた。


 今度は宛名を考える。


 最初に思い浮かんだのは姉だった。


 姉とは、もう随分会っていない。最後に電話したのも何かの用事だったはずだが、内容は思い出せない。


 玄関には姉の傘がある。何年も前、うちに来たときに忘れていった黒い傘だ。


 忘れ物をしたと連絡すると、姉は次に会うときでいいと言った。私も、そうすると答えた。


 それから電話で話す機会は何度かあったのに、傘のことはすっかり忘れていた。思い出すのは、いつも電話を切ったあとだ。


 私は便箋に書いた。


『姉さんへ』


 続けて、もう一行。


『黒い傘は、まだ玄関にあります』


 間違ったことは書いていない。


 けれど、遺書の書き出しがこれでは姉も困るだろう。自分の死について何も説明していないのだから。


 かといって、ほかに何を書けばよいのかわからなかった。


 姉は悲しむだろうか。できれば、あまり悲しまないでほしい。しかし、何事もなかったかのように傘だけ持ち帰られるのも、少し癪だ。


 便箋を裏返す。


 白紙だった。


 そこに何かを書こうとして、手が止まる。


 死にたい。


 その気持ちは確かにある。だが、誰かに向けて書こうとすると、どうにも言葉が足りない。


 理由を書こうとすれば、説明できない。


 謝ろうとしても、何を謝るのかわからない。


 自分で決めたと書けば、嘘をついたような気がする。


 いっそ、何も書かない方が正確なのではないか。


 そう思って便箋を二つに折った。引き出しにしまいかけて、もう一度開く。


 黒い傘のことだけは、知らせておいた方がよいのだろうか。玄関を見ればわかるとしても、姉のものだとは誰も知らない。


 私はしばらく便箋を眺めた。


 結局、もう一度折って、引き出しにしまった。



 机の上では、百合が咲いていた。


 白い花びらの奥に、茶色い雄しべが並ぶ。近づいてみると、思っていたほどよい香りではない。


 少し青臭い。


 花屋で見たときは、もっと美しいものに思えた。それでも、捨てる気にはならなかった。


 高かったのだ。


 つぼみも、まだ二つ残っている。


 私は椅子に腰掛けた。


 死にたいという気持ちは、相変わらずある。今日死ななかったからといって、明日生きていたいと思えるわけではない。


 机の上の計量カップを眺める。


 水が少し減っていた。蒸発したのか、花が吸ったのか。


 足しておいた方がよさそうだが、どのくらい必要なのかわからない。


 しばらく見て、そのままにした。


 引き出しの中には、書きかけの遺書。玄関には、姉の傘。


 どちらも、今すぐどうにかしなければならないわけではない。


 そう考えたところで、何年も返していない傘が気になった。


 何年も、とは何年だろう。


 三年だったか、四年だったか。姉が最後にうちへ来たのは、いつだっただろう。


 思い出そうとしても、はっきりしない。


 時計を見ると、日付が変わっていた。


 少し眠い。


 こんなことを考えていても、眠くなるものらしい。


 立ち上がって電気を消す。


 暗がりに、百合の白さだけがぼんやり浮かんだ。


 目を閉じると、冷蔵庫の低い音が聞こえる。


 やがて、それも気にならなくなった。



 翌朝、腹が減って目を覚ました。


 米を炊こうとして、計量カップが見当たらないことに気づく。


 探すまでもなかった。


 百合が使っていた。


 私はしばらく花を眺めた。昨日まで閉じていたつぼみの一つが、わずかに開きかけている。


 花を抜いてカップを洗えば済む話だが、濡れた茎をその辺に置くのも気が引ける。


 何か代わりになるものはないだろうか。


 食器棚の奥に、空き瓶を見つけた。以前、ジャムが入っていた瓶だ。口の広さもちょうどよい。


 瓶を洗って水を入れ、百合を移す。苺の絵が描かれたラベルはそのまま。剥がすのが面倒だった。


 瓶を机に戻して計量カップを洗って、内釜に米を入れ、水を注ぐ。


 目盛りより少し多い。


 内釜を傾けて水を捨てると、今度は少なかった。


 もう少しだけ水を足す。


 少し多い気もしたが、そのまま蓋を閉めた。

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