保留
死のうと思った。
味噌汁の火を止めたところだった。鍋の縁に飛んだ汁を布巾で拭く。冷めると落ちにくくなるからだ。
別に、嫌なことがあったわけではない。いや、嫌なことならいくらでもあった。ただ、そのどれかを死ぬ理由にするのは、どうにも違う気がする。
仕事が嫌なのかと聞かれれば、そうでもない。誰かと揉めたわけでもなければ、特別な不幸に見舞われたわけでもない。
ただ、死にたかった。
いつからそう思っていたのかは覚えていない。ある日突然というより、以前からそこにあったものを、ようやく見つけたような感覚だった。
何をするにも、その先がある。
飯を食えば食器を洗わなければならない。洗えば乾かし、乾けばしまう。しまった食器は、また次の食事で使う。
仕事も同じだ。今日の仕事を終えれば、明日の仕事が待っている。
楽しいことがないわけではない。美味いものを食べれば美味いと思うし、面白いものを見れば笑う。それでも、明日を迎えたいとは思わなかった。
私は味噌汁を椀によそい、一口飲んだ。
少し塩辛い。煮詰まったらしい。
それでも残さず食べ、鍋に残った分は小さな容器に移して冷蔵庫にしまった。
死ぬことについて調べてみた。
いくつかの方法が思い浮かんだものの、どれも想像していたほど単純ではない。苦痛があるかもしれない。思いどおりにならないかもしれない。命が助かっても、元の生活に戻れるとは限らない。
どうせ死ぬのなら、綺麗に死にたいものだ。
白い百合に囲まれて死ぬ自分を想像した。床が見えなくなるほど花を敷き詰め、その中央に横たわる。なかなか美しい光景ではないか。
昔、百合には毒があると聞いたことがある。あの強い香りで、人間が死ぬこともあるのではないか。
調べてみれば、そんなことはないらしい。
それでも、白い百合のことが頭から離れなかった。
翌日、近所の花屋へ行った。
店先の百合は、想像していたよりもずっと大きい。厚みのある花びらに細い筋が走り、雄しべの先には茶色い花粉がついている。
値札を見て、少し迷った。
高い。
部屋いっぱいに敷き詰めるとなれば、相当な金額になるだろう。
結局、一本だけ買った。
「まだつぼみが二つありますから、長く楽しめますよ」
店員はそう言い、茎を紙で包んでくれた。礼を言って店を出る。
帰宅してから、花瓶がないことに気づいた。花を買う習慣などないのだから、当然である。
台所を探すと、透明な計量カップがあった。
水を入れて百合を挿してみる。どうも収まりが悪い。茎が長すぎるらしい。
下の方を少し切って挿し直すと、ようやく落ち着いた。
花の向きを変えようとしたとき、袖に黄色い花粉がついた。
指で払ったところ、かえって広がる。洗面所で水を含ませてみても落ちない。
諦めて袖をまくった。
計量カップの側面には、二百、四百、六百と目盛りが振ってある。その向こうで、百合が白い花びらを広げていた。
花を少し回してみる。
どの角度から見ても、目盛りは消えない。
仕方なく、そのまま机に置いた。
死ぬのなら、遺書くらいは残しておこうと思った。
大した財産もない。誰かに伝えておかなければならない秘密もない。それでも、何も残さないのは落ち着かなかった。
便箋を一枚取り出し、書いた。
『私が決めたことです』
読み返してみると、妙な文章だった。
決めた。
いつ決めたのだろう。
味噌汁の火を止めたとき、確かに死のうと思った。だが、あれを決断と呼べるのか。
あのあと私は、鍋の縁についた汁を拭き、味噌汁を食べ、残りを冷蔵庫にしまった。食器を洗って、いつもどおり眠った。
翌日には花を買いに行っている。
買うつもりだったのは百合なのに、店先で菊の値札も見ていた。菊の方が安かったからだ。
あのとき、菊を買って帰ることだってできた。
もっとも、菊を買ったところで何が変わるのだろう。
便箋へ目を戻す。
『私が決めたことです』
もう一度読んだ。
私は、その一行に線を引いた。
今度は宛名を考える。
最初に思い浮かんだのは姉だった。
姉とは、もう随分会っていない。最後に電話したのも何かの用事だったはずだが、内容は思い出せない。
玄関には姉の傘がある。何年も前、うちに来たときに忘れていった黒い傘だ。
忘れ物をしたと連絡すると、姉は次に会うときでいいと言った。私も、そうすると答えた。
それから電話で話す機会は何度かあったのに、傘のことはすっかり忘れていた。思い出すのは、いつも電話を切ったあとだ。
私は便箋に書いた。
『姉さんへ』
続けて、もう一行。
『黒い傘は、まだ玄関にあります』
間違ったことは書いていない。
けれど、遺書の書き出しがこれでは姉も困るだろう。自分の死について何も説明していないのだから。
かといって、ほかに何を書けばよいのかわからなかった。
姉は悲しむだろうか。できれば、あまり悲しまないでほしい。しかし、何事もなかったかのように傘だけ持ち帰られるのも、少し癪だ。
便箋を裏返す。
白紙だった。
そこに何かを書こうとして、手が止まる。
死にたい。
その気持ちは確かにある。だが、誰かに向けて書こうとすると、どうにも言葉が足りない。
理由を書こうとすれば、説明できない。
謝ろうとしても、何を謝るのかわからない。
自分で決めたと書けば、嘘をついたような気がする。
いっそ、何も書かない方が正確なのではないか。
そう思って便箋を二つに折った。引き出しにしまいかけて、もう一度開く。
黒い傘のことだけは、知らせておいた方がよいのだろうか。玄関を見ればわかるとしても、姉のものだとは誰も知らない。
私はしばらく便箋を眺めた。
結局、もう一度折って、引き出しにしまった。
机の上では、百合が咲いていた。
白い花びらの奥に、茶色い雄しべが並ぶ。近づいてみると、思っていたほどよい香りではない。
少し青臭い。
花屋で見たときは、もっと美しいものに思えた。それでも、捨てる気にはならなかった。
高かったのだ。
つぼみも、まだ二つ残っている。
私は椅子に腰掛けた。
死にたいという気持ちは、相変わらずある。今日死ななかったからといって、明日生きていたいと思えるわけではない。
机の上の計量カップを眺める。
水が少し減っていた。蒸発したのか、花が吸ったのか。
足しておいた方がよさそうだが、どのくらい必要なのかわからない。
しばらく見て、そのままにした。
引き出しの中には、書きかけの遺書。玄関には、姉の傘。
どちらも、今すぐどうにかしなければならないわけではない。
そう考えたところで、何年も返していない傘が気になった。
何年も、とは何年だろう。
三年だったか、四年だったか。姉が最後にうちへ来たのは、いつだっただろう。
思い出そうとしても、はっきりしない。
時計を見ると、日付が変わっていた。
少し眠い。
こんなことを考えていても、眠くなるものらしい。
立ち上がって電気を消す。
暗がりに、百合の白さだけがぼんやり浮かんだ。
目を閉じると、冷蔵庫の低い音が聞こえる。
やがて、それも気にならなくなった。
翌朝、腹が減って目を覚ました。
米を炊こうとして、計量カップが見当たらないことに気づく。
探すまでもなかった。
百合が使っていた。
私はしばらく花を眺めた。昨日まで閉じていたつぼみの一つが、わずかに開きかけている。
花を抜いてカップを洗えば済む話だが、濡れた茎をその辺に置くのも気が引ける。
何か代わりになるものはないだろうか。
食器棚の奥に、空き瓶を見つけた。以前、ジャムが入っていた瓶だ。口の広さもちょうどよい。
瓶を洗って水を入れ、百合を移す。苺の絵が描かれたラベルはそのまま。剥がすのが面倒だった。
瓶を机に戻して計量カップを洗って、内釜に米を入れ、水を注ぐ。
目盛りより少し多い。
内釜を傾けて水を捨てると、今度は少なかった。
もう少しだけ水を足す。
少し多い気もしたが、そのまま蓋を閉めた。




