第一章幕間『ギルドの大晦日』
雪は降っていなかった。
けれど空気は澄みきっていて、夜の街は静かに息をしていた。
「……人、多いね」
リンが小さく言う。
白い息が、彼女の言葉を包んで消えた。
「大晦日だからな」
ユダはそう答えながら、人混みの流れを少しだけ避けるように歩いた。
祭りのような喧騒。
屋台の甘い匂い。
遠くで鳴る笑い声。
本来なら、自分たちがいるべき場所ではない。
罪も、血も、死も――ここにはない。
それが、少しだけ怖かった。
「ユダ」
「ん?」
「今日だけは……大儀とか運命、そういうの、忘れていいんだよ」
リンは前を向いたまま、指先でコートの裾を握っていた。
「……ああ」
ユダは、少し間を置いて頷く。
「今日はただの、ユダだ」
リンはそれを聞いて、ほんの少しだけ笑った。
神社の石段を上ると、参拝客が列を作っていた。
鈴の音。柏手。
願い事を抱えた人々の背中。
「何、お願いするの?」
リンが聞く。
「願い事、苦手なんだ」
「……らしいね」
リンは目を閉じた。
長くはなかった。
けれど、その横顔はひどく真剣だった。
「……言わないの?」
「言わないよ。叶わなくなるから」
そう言って、彼女はユダを見上げた。
ユダは視線を逸らした。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
参拝を終え、屋台の前に並ぶ。
リンは甘酒を、ユダは焼きイカを選んだ。
「似合わない」
「放っておいて」
リンは紙コップを両手で包み、少しずつ飲む。
「……あったかい」
「よかったな」
一瞬、沈黙が落ちる。
「ねえ、ユダ」
「ん?」
「もしさ……全部終わったら」
「……」
「そのあとも、こうして一緒に歩けるかな」
ユダは答えなかった。
答えられなかった。
未来の話をする資格が、自分にあるのか分からなかったからだ。
代わりに、ユダは手を伸ばした。
リンの指先に、そっと触れる。
リンは驚いたように目を瞬かせ、それから――握り返した。
「……寒いからだよ?」
「分かってる」
嘘だった。
でも、今日はそれでいい。
遠くで、鐘の音が鳴り始める。
人々が空を見上げ、数を数え始めた。
「……来年も、生きていような」
リンが言った。
「ああ」
ユダは、はっきりと答えた。
鐘が鳴り終わり、歓声が上がる。
世界は何も変わらない。
罪も、戦いも、明日になればまた始まる。
それでも。
この夜だけは、確かに“救われていた”。
ユダは、リンの手を離さなかった。
―― ―― ――
歓声はゆっくりと遠ざかり、街は再び静けさを取り戻していった。
紙吹雪が足元に落ち、踏まれて、溶けていく。
「……終わっちゃったね」
リンが名残惜しそうに言った。
「ああ。でも、まだ帰るには早い」
「ほんと?」
ユダは頷き、夜空を見上げる。
雲の切れ間から、星がいくつか覗いていた。
「少し歩こう」
「うん!」
川沿いの道は人が少なく、街灯の光が水面に揺れていた。
二人の影が並んで伸びる。
「さっきのお願い」
リンが、不意に口を開く。
「ユダは、何も願わなかったんでしょ」
「……願わなかったわけじゃない」
「じゃあ?」
ユダは一度、立ち止まった。
言葉を探すように、川を見つめる。
「願うとさ」
「うん」
「叶わなかった時に、恨みたくなる」
リンは何も言わず、続きを待った。
「だから俺は、願いじゃなくて――決意にした」
「決意?」
「守るって決めただけだ」
リンは少し目を見開いて、それから困ったように笑った。
「ずるいな」
「何がだ」
「それ、私が願ったことと同じだよ」
風が吹き、リンの髪が揺れる。
ユダは思わず、その一房を押さえた。
距離が、近い。
「……リン」
「なに?」
言葉が喉につかえる。
代わりに、胸の奥に溜まっていた感情が、静かに浮かび上がる。
「怖くないのか」
「……怖いよ」
リンは正直に言った。
「全部終わったあと、何も残らなかったらって」
「……」
「でもね」
リンはユダの胸元を、ぎゅっと掴む。
「何も残らないなら、作ればいいって思った」
「……作る?」
「思い出とか。今日みたいな」
ユダは息を呑んだ。
この夜が、ただの逃避ではなく――
彼女にとって、未来への支えになっていると知ってしまったから。
「ユダ」
「……」
「来年も、再来年も……一緒に大晦日を迎えたい」
それは願いだった。
逃げ場のない、真っ直ぐな。
ユダはリンの肩に、そっと手を置いた。
「……約束はできない」
正直に言う。
「俺は、そんなに強くない」
リンは一瞬だけ悲しそうな顔をして、でも首を振った。
「それでもいい」
「……?」
「一緒にいたいと思った”ってことだけ、嘘じゃなければ」
ユダは、ゆっくりとリンを抱き寄せた。
強くはない。
逃げられるくらいの距離。
リンは一瞬ためらってから、額をユダの胸に預けた。
鼓動が伝わる。
確かに、生きている証。
「……あったかい」
リンが小さく言う。
「ああ」
ユダは、彼女の髪に顔を埋めた。
「俺もだ」
リンの呼吸が、近い。
甘酒の匂いと、冬の冷たい空気が混ざり合っていた。
ユダは、無意識のうちに彼女の顎に指をかけていた。
触れてはいけないと分かっているのに、離せない。
「……ユダ」
リンの声は、震えていた。
「今なら……いいよ」
何が、とは言わなかった。
でも、十分だった。
ユダはゆっくりと顔を近づける。
リンは目を閉じた。
あと、ほんの数センチ――
「――っは!? はぁはぁはぁ、夢かよ...」
幸せな夢は意識の覚醒と共に、泡沫の記憶となって消えていった。
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