第二章第九話『船上②』
月が完全に姿を表し、静まり返った船を月光が照らす中、ユダは一人で甲板の上にいた。みんなはもう寝ているが、ユダ一人だけが何故か眠れずにここにいた。
少しぼんやりとしていると、足音がこちら側に近づくのを感じてユダは身構えた。だが次の瞬間にはそれは無意味に。
「常世隊長…久し振りですね」
常世は「そうだな」と短く答えると、ユダの隣に立った。
「眠れないのか」
常世の問いには、温情も冷酷さもなかった。ただ、空気に溶け出す無機質な観測の結果として、言葉が発せられた。
「……はい。なんか、昼間の魔獣との戦いや、みんなと食べた肉の味や……色んなことが頭の中で回り続けていて。自分がギルド隊員としてやっていけるのか、考えだすと止まらなくなって」
ユダは手すりを強く握りしめた。その指先には、まだ生気と、微かな震えが宿っている。
常世はそれを見なかった。正確には、視神経ではなく魔力の反響で、ユダの心拍がわずかに速まっていることを数値として捉えていた。
「ユダ君。お前にとって、この海はどう見える」
「え……? どうって、暗くて、深くて……でも、月が綺麗で。少し怖いけど、どこか懐かしいような気もします」
「そうか」
常世は水平線を見つめた。
彼にとっての海は、もう蒼ではない。魔力の濃度によって色分けされた濃淡の塊であり、潮風は皮膚を刺激する情報群に過ぎない。美しさも、恐怖も、もう彼を揺さぶることはなかった。
「私には、もう何も見えない。月が照らす光の階調も、潮騒が奏でる情緒も、全ては失われた感覚の残骸だ。今の私は、ただ魔力で無理やり見ている気になっているだけだ」
淡々と語られる告白に、ユダは息を呑んだ。
常世の横顔は月光に照らされ、あまりに端正で、そして彫刻のように動かない。
「隊長……それは、あの魔剣のせいで……?」
「そうだ。ユダ君は魔剣が何かを知っているか?」
「いや…あんまり…知らないです」
ユダの答えに常世は教鞭をとるようではなく、自らの過去を追憶するように『魔剣』とは何かを語りだした。
「魔剣とは『魂』を持った剣のことだ。魂を持つということは魔力を持っている」
それがこの世の真理である。
『魂』を持つということは『魔力』を、『魔力』を持つということは『魂』を持つ。
そして魂には『意識』、『記憶』が内包されている。それらは魂が強ければ、同様に強くなる。
「だから魔剣は『意識』を持っている。普通魔剣の意識は微弱なものだ。だが俺の魔剣『常世』は違う。こいつが持つ強大な『意識』は俺を嫌い、否定する。その結果が呪いだ」
ユダは固唾を飲んだ。
今までのピースが嵌まろうとしていた。
「魔剣の呪いは魔剣のもつ能力と同じだ。そして魔剣『常世』の能力は世界からの拒絶。俺は世界からの拒絶されて五感を失い、いづれ世界から忘れ去れて存在がなかったことになる。それが俺の結末だ」
「世界から、忘れ去られる……?」
ユダの声は震えていた。死ぬことよりも、誰の記憶にも残らず、最初からいなかったことにされる。そのあまりに静かで残酷な終焉に、背筋が凍るような感覚を覚えた。
「そうだ。私の五感が消えていくのは、世界が私を『認識』することを拒み始めた予兆に過ぎない。味も、音も、光も……世界を構成する要素が一つずつ、私を置いて去っていく」
常世は、自分の手を見つめた。月光に透けるその肌は、まるで存在そのものが希薄になっているかのように白く、冷え切っている。
「そ、そんなの…!」
(そんなのっておかしい!!って叫びたい。けどそれじゃぁ現実は変わらない。なら俺には何ができる)
「だったら俺は世界が忘れようと絶対に!! 常世隊長のことを忘れない!!」
自分の『勇気』をユダは叫んだ。
それを受けた一瞬、常世が微笑んだかのように見えた。けど常世の表情は変わっていない。
「ありがとうユダ君…。やっぱり君は『勇者』だ」
「し、知っているんですね」
「あぁ、ギルド隊長は全員知っている。副隊長達は知らないが…」
つまりギルドの隊長達は全員、『管理者』をめぐる戦いのことを知ってギルドに所属しているのだろう。
「君の『勇気』に答えて教えよう。耳を貸してくれ」
常世は口をユダの耳に近づけた。そしてかみしめるように呟いた。
「!!」
それを聞いてユダは瞠目した。
「それが俺の名前だ」
「どうして俺に…」
「君なら本当に世界が俺を忘れても、覚えていてくれそうな気がしたんだ」
「……忘れません。絶対に、その名前を」
ユダは、授けられた「名前」の重みを噛み締めるように繰り返した。
それは今この世界で「常世」と呼ばれている男が、かつて人間として、一人の子供として、誰かに愛を込めて呼ばれていた頃の証。
世界からの拒絶が進む彼にとって、その名を預けることは、自らの魂の最後の一欠片をユダに託すことと同義だった。
「重荷を背負わせたな。……だが、これでいい。さて出雲到着が近いんだ。今日はもう寝るといい。出雲での大罪教との衝突は絶対に避けられないものだ。だから今の内に英気を養いておけ」
「…はい。お休みなさい常世隊長…」
「ああ」
ユダが階段を降り、その足音が完全に消えるまで、常世は動かなかった。
再び訪れた静寂。月光が甲板を青白く焼き、波の音だけが世界の境界線をなぞっている。
常世は、先ほどユダの肩に触れていた自分の掌をじっと見つめた。
(……熱いな)
物理的な熱ではない。五感のうちの「触覚」は魔力で補強しているはずだが、そこから伝わってくるのは、もはや情報の羅列ではなく、脳の奥を直接焦がすような「生」の残響だった。
世界から拒絶され、色彩を失い、温度を奪われゆく自分にとって、ユダの言葉は毒のように鋭く、そして祈りのように甘美だった。
「『忘れない』、か……」
その呟きさえ、潮風にかき消されて自分の耳には届かない。
常世は腰の魔剣に手を添えた。鞘の中で眠る剣の「意識」が、主の心がわずかに揺らいだ隙を見逃さず、どろりと腐った泥のような魔力を流し込んでくる。
自身の存在が少しずつ、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく感覚。
だが、今の彼にはユダに託した「名前」という錨がある。
「……くっ」
突如、常世は胸を押さえて手すりに深くもたれかかった。
視界の端が、ノイズが走ったように歪む。魔力による視覚の補完が、魔剣の侵食に追いつかなくなってきている。
先ほどユダに見せた泰然とした姿は、限界まで張り詰めた薄氷の上での演技に過ぎなかった。
「出雲……そこが、私の終わりの地になるか」
いったいそれまでに何ができるのだろうか。そんな疑問が頭の中を反芻する。
だが疑問はどこかに置いて、できることを、やらなければならないことを実行しなければいけない。
『勇者』を育て、大罪の毒刃にやられないようにする。
今は自分が守れているからいい。だがそれはもうできないらしい。
「頼むぞユダ君。世界の、俺の『勇者』」




