雨が止む前に
雨が降り出した。
はじめそれは、通りを十人歩いていたら半分は雨が降っていることにすら気づかないような小雨とさえ呼べないものであったが、次第に勢いを強め、道ゆく人たちは次々に傘を差し始めた。
僕は傘を持たずに家を出たことを後悔した。隣町の本屋で新作の本を買ったらすぐ帰る予定だったので、曇り空だったがなんとかなるだろうとそのまま来てしまった。そういう根拠のない楽観を梅雨の季節にすべきではなかったが、心の中で反省会を開いても雨は止まないので、ひとまずどこか一時的にでも雨を凌げる場所を探した。
青色の点滅する信号を小走りで渡り左に曲がった少し先に個人経営のカフェがあった。屋根のついたウッドデッキに潜るようにして入ったあと、店の中で落ち着こうか少しの間悩んだ。外には二人がけのテーブルが二つあったが人は座っていなかった。
ここで余計な金を使うのはもったいない気がしたし、帰ってしまうのも何かがもったいない気がした。それは偶然ここで雨宿りをした結果生まれた、いわゆる「何かの縁」というやつで、一度その存在を意識し始めると、窓ガラスの曇りのようにじわじわと僕の思考の中を半透明に埋めていった。
駅までそこまで距離はないけれど、まだ小雨とはいえ雨の中走って帰る気にもならなかった。どうせこの後何も用事はないのだし、カフェでそこまで大金使うわけでもないだろう。中に入って雨が止むのを待った方がいい。
店に入ることに決め入口へ向かうと、ちょうど店の中側からドアが開いて一人の女性が出てきた。
僕には瞬間的にそれが誰だか分かった。そしてそれはどうやら相手も同じらしかった。目を合わせていたのはほんの数秒だったはずだけれど、それはとても長くまるでスローモーション映像を観ているような感覚だった。
「わぁ…久しぶり。こんなところで、偶然だね」
彼女は少し目を見開いて二回ほど瞬きした後そう口にしたが、僕といえば状況に理解が追いつかず言葉を喉に詰まらせて、沈黙しているばかりだった。
雨音がやけにはっきりと聞こえた。僕の情報処理能力が欠如しているのか彼女のが優れているのか、そもそも僕の喉の中にどんな言葉が詰まっているのかさえ僕自身分からなかったがとりあえず何か喋らないといけなかった。しかし僕よりも彼女が声を発する方が早かった。
「今から入るの?」
「あぁ、はい。雨を凌げる場所を探していたらたまたま見つけて」
「私を?」
「いや、このお店を」
彼女は目線を一度下に落としてもう一度上げてから言葉を続けた。
「そっか、じゃあ誰かと待ち合わせたりしているわけじゃないんだね」
書きかけの疑問符がついているようなイントネーションだった。
「特にそういう予定は、ないです」
「じゃあせっかく会ったし、ご一緒しても?」
僕は頷いた。
会計を済ませたばかりの彼女が店の中へ戻ると、店員が忘れ物でもあったのかという視線を送ってきたが「二人で」と彼女が言うと店員は困惑した様子だった。平静を装いつつ何となく状況を察してくれたみたいだったが、彼女の視点を想像すると思わず笑ってしまいそうだった。
案内された奥から二番目のテーブルを挟んで座った。ダークカラーのテーブルと椅子が並び、モノクロのレンガの柱があり、その隣の壁には北欧をイメージさせるアートパネルが飾られている。頭上には暖色のダクトレールライト、カウンター席にはペンダントライトが吊り下げられていて、カフェというよりバーのようなシックな内装だった。
彼女はメニュー表を僕に字が読める向きで開いてきたので違和感を覚えた。僕の知っている彼女は逆さの字が読めなかった。こうしてレストランやカフェでテーブルを囲うときは、メニューを横向きにしてお互い体を少しねじって決めていたものだった。
視線を上げると「さっきまで見てたからね」と彼女は僕の心を見透かすように言ってはにかんだ。唇を閉じて口角を上げるその仕草に、僕は懐かしさを覚えずにはいられなかった。
「ここのお店はブルーベリータルトがおすすめだよ」
彼女は人差し指を伸ばして、メニューの右下の部分を指して言った。
「そうなんですか、じゃあそれとブレンドコーヒーにします」
特にこだわりもなかったので彼女のおすすめに従うことにした。
彼女は少し迷ってバスクチーズケーキを頼んだ。店員に注文をした後、彼女に視線を合わせながら、時々他のメニューにも興味があるふりをしていた。
「今日大学は?」
「午後は授業とってないんです」
「そっか、じゃあ私と一緒だ。何してたの?」
好きな小説家の新作が出たから買いに行ってました、と言うと彼女は「ふーん」と言いながら少し身を乗り出して、僕の横にある袋の中身を気にする素ぶりを見せた。
当たり前のことだが、彼女の雰囲気は変わっていた。高校生の頃から地毛で茶色がかっていた髪はアッシュブラウンに染められて、以前よりも随分印象を明るくしていた。ミディアムとセミロングの中間くらいの長さの内巻きで、揺れると柔らかな発色の良さがあった。ほどよく店内を照らす暖色の照明のせいもあったかもしれない。記憶の中の彼女よりも数段大人びて見えた。
「ドリンクは頼まなくてよかったんですか?」と聞くと彼女は躊躇いがちに答えた。
「カフェオレ飲んでた、から」
そうだろうと思った。答えが予想のまんまで笑ってしまった。彼女は出会った時からカフェオレを愛飲していたし、それは現在も変わっていないらしい。
「相変わらずですね」
「言われると思ったよ。よりによってカフェで会うなんて、思わないでしょう」
彼女は少し恥ずかしそうに言った。彼女との出会いとカフェオレという飲み物は同じ記憶の引き出しの中にあって、おそらく、いや間違いなくこの瞬間僕らは同じことを思い出していた。
*
彼女に出会ったのは僕が高校二年生の頃、梅雨が明けて、期末テスト終えた高校生たちが夏休みを目前に浮き足立つ時期だった。
教室に居場所のない高校生、もしくは人間嫌いな高校生の多くが流れ着くのが図書室であり、かくいう僕もその一人だった。
はじめは退屈を紛らわすために雑誌や若者向けの小説を読んでいたのが、三ヶ月も経つころにはすっかり習慣になってしまっていたわけだが、今思い返してみれば僕の数少ない趣味とも言えるものとの出会いでもあった。春という出会いの季節に誰と出会うこともなく、避難場所を探した末に本に出会うというなんとも悲しい新生活の幕開けだった。そしてそのまま何が起きることもなく季節が一周して、高校二年の夏休みを迎えようとしていた。
図書室は北校舎の玄関から手前の階段を上がり長い廊下を進んだ先にあった。部活動には所属していなかったので平日の放課後はいつも読書に耽り、読み疲れては凝り固まった体をほぐしながらゆっくりと長い廊下を歩き、夕方の西陽に目を細めながら玄関の自販機に向かった。
自販機は北と南校舎それぞれの玄関、購買の入り口、南校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の四か所に設置されていて、北校舎は理科室や家庭科室などの移動教室、南校舎はクラス教室が集まり、なおかつ生徒用の玄関も南校舎だったので、必然的に距離の遠い北校舎の自販機は利用者が少なく気に入っていた。昼休みには混雑を避けることができたし、飲み物が売り切れて買えないということも少なかった。
しかしなぜかカフェオレだけは「売り切れ」の赤い文字が表示されているのを度々目撃した。熱狂的なカフェオレ好きがいるのか、ただ単に人気なだけなのか疑問に思っていたが、ある時前者だと判明した。
それは夏休みを一週間後に控えた日の放課後だった。いつも通り図書室で本を読み、夕方五時のチャイムを区切りに休憩しようと僕は自販機に向かった。窓の向こうから野球部の太く張られた声が聞こえた。夏の大会では順調に勝ち進んでいて、気合を入れて練習しているのだろう。こんな暑い日にユニフォームを着て外で運動なんて僕には絶対無理だなと思いながら歩くと、自販機の前に彼女はいた。彼女が身を屈めて自販機から取り出したのはカフェオレで、左手にも同じものを持っていた。
僕は直感的に「コイツが買い占めていたのか」と思った。無遠慮に見つめていると彼女がこちらの視線に気づいて目が合った。それから彼女は自分の手元を見て少し恥ずかしそうに顔を伏せたので、僕も慌てて足元に目線を逸らした。上履きのつま先と側面のラインの色から、彼女が一つ年上の先輩であることがわかった。
「と、友達の分ですよ」
僕の目がものを言っていたのを感じたのだろう。
「いや、あの、はい。良いと思います」
僕は咄嗟に返した。何が良いのか自分でもさっぱり分からなかったが、まさか話しかけてくるとも思っていなかった。しかも、これで終わると思っていたのに彼女は会話を続けてきた。
「君、信じてないでしょう?」
彼女も僕の上履きを見て後輩だと分かったらか、口調を変えてきた。たしかに僕は信じていなかった。なぜかと言われてもうまく答えられないが、彼女が一人で二本ともいただくようにしか見えなかった。
「いや、信じてますよ」
「ほんとに?」
「本当に」
訝るような目線を数秒向けてきた後に、なぜか彼女はふっとはにかんだ。唇を閉じたまま口角が上がるその表情をこの時初めて見た。そしてこの表情を僕はこの先何度も思い出すことになる。
「ふーん。まぁいいよ。今日のところは見逃してあげます」
「はぁ、どうも」
少しの間沈黙が降りた。会話は終わったのか、まだ何か話すべきだろうか、とお互いに考えていた。
「君は何買いきたの?」
どうやらまだ終わらないらしい。
「えっと、特に決めてはいないですけど…」
「じゃあ特別にこれ、一本あげるよ」
そう言って彼女は右手のカフェオレを差し出してきた。語るに落ちるとはこういうことだろうか。アホだな、と思った。
「え、友達の分なんじゃないんですか?」と僕が言い終わるより先に彼女も自分の失言に気づいたみたいで、口元を手で覆い頬を赤らめていた。僕は笑うのをこらえきれなかった。
この日を境に僕と彼女は自販機で会うと軽い会話を交わす仲になった。
最初のうち彼女は「前のことは一刻も早く忘れること」としつこく僕に言ってきた。そしてそれを言われるたびに僕は思い出して笑いそうになるのでまったくの逆効果だった。しかし話を掘り返して彼女を揶揄うことは滅多にしなかった。いざという時にとっておいた、という表現の方が的確かもしれない。
彼女はいつも決まってカフェオレを飲んでいた。僕も試しに買ってみたが、どこの自販機にも売られている普通のカフェオレなので、特別美味しいわけではなかった。
「このカフェオレ、そんなに毎回飲むほど美味しいですか?」と彼女に聞くと
「受験生には糖分が必要なんだよ」という答えになっているような、なっていないような返事が返ってきた。
「でも甘い飲み物なら微糖のコーヒーとか、カフェラテとかもありますよ」
「これが一番美味しい」
「飲んだことあるんですか」
彼女は黙った。
「ないんですね」
「いいじゃん、別に。今度飲むよ」と彼女は拗ねるように言った。
会うたびに少しずつ彼女のことを知っていった。宮澤由奈、というのが彼女の名前で、漢字はどう書くかと聞くと「由奈の由に由奈の奈だよ」と返ってきたこと。趣味は映画鑑賞だが最近は受験勉強で忙しくてあまり映画を観れていないこと。放課後は自習室で勉強をしていて、五時のチャイムが鳴ったらいつも休憩していること。好きな食べ物はオムライスで、練習して得意料理にしたこと。部活動には所属していなくて、運動不足であること。好きな季節は春で、暑いのも寒いのも苦手であること。
向こうもだんだんと僕に対して気を許してくれているみたいだった。どうでもいい話をしてくれるようになって、最初は二〜三分で終わっていた休憩時間はだんだんと長くなっていった。一度、彼女が当時観て感動した映画の話を熱弁してくれた時は十五分以上話していた。ひとしきり僕にプレゼンした後で時計の針を見て喋り過ぎたことに気がつき「絶対観てね」と言いながら小走りで自習室に戻っていった。
まもなく夏休みに突入した。
僕の家は本当に言葉の通りの片田舎で標高の高い場所に位置していたため、夜に窓を少し開いて寝れば夏の暑苦しさで目を覚ますということはなかったのだが、音に敏感な僕は隣人が畑仕事に向かう時の長靴がアスファルトを擦る音や老人たちの中身の聞き取れない会話で目が覚めることが多く、おかげで夏休みなのに早起きをする習慣がついた。
早く起きたところで何も予定はないので毎朝顔を洗っては、足跡のように昨日履き捨てたまんまのグレーのサンダルをつっかけて散歩に出掛けていた。
夏の朝は好きだった。田畑に沿ってまっすぐに道路が続き、ずっと先に山々が連なって見える。電線にとまる小鳥たちのさえずりと虫の声、水路を流れる水、足元のサンダル、あとは僕の呼吸と風の音だけが聞こえる。
涼しく澄んだ空気の中を半袖で歩くと少しずつ眠っていた体が醒めてくる。消えかけた白線の内側に足を踏み出して、そのうち道路の真ん中を歩きだしても、朝には低速の農業トラクターしか通らず咎める者はいない。すれ違う人といえば散歩中の老人かスタンプカードを首から下げてラジオ体操に向かう小学生くらいだ。
暫く歩き続けて「歩き疲れてきたけれどまだ歩けるな」というくらいまできたら家に帰る。
田舎の電車は本数が少なく一本逃すと次が来るまで一時間近く待つ羽目になるので、時間の余裕を持って家を出る。最寄りの無人駅までは歩いて約二十分くらいで、道路から逸れた田んぼの畦道を通ると少しだけ近道になるのでいつも通っていた。
途中、半袖短パンのジャージ姿でスポーツブランドのリュックを背負った学生が自転車で通り過ぎてだんだん小さくなっていくのを眺めながら歩く。やがて地面がアスファルトに変わり、目的地に着いた時にはもう喉が渇ききってシャツの下に汗をかいている。持参した水筒で水分補給をして、シャツの袖を捲る。
午前中とは思えないほどに太陽は地面を照りつけていて、俯くとひび割れたアスファルトから雑草が伸びている。改札なんてもちろん無く、段差の不均一な階段を数段上るとすぐ駅のホームが広がる。駅のホームといっても錆びた線路と汚れた点字ブロックのそばにベンチが並んでいるだけで、ほぼバス停のようなものだ。駅の周りを囲う柵だけがなぜか新しく見える。
始発から三番目の電車に乗って学校へ向かう。車内のいささか効きすぎた冷房で数分前の汗が冷え、次第に寒気が襲う。捲った袖を元に戻しながら周りを見渡しても、ジャージ姿の部活生が数人と参考書を熱心に見つめる受験生がいるだけだった。夏休みにわざわざ制服を着て学校の図書室に向かう奴なんて僕くらいしかいないだろうなと思った。
三十分ほど電車に揺られ、学校の最寄駅に到着した。ドアが開き、ホームに降り立った瞬間に強烈な熱気が僕の身を包んだ。全身の活力を搾り取っていくような暑さから、冷凍庫から取り出された氷菓の気持ちを想像した。まさに溶けそうだった。袖を下ろしたことを早くも後悔し、捲りなおして歩き出す。
高校の昇降口についた頃には、今日使える体力の半分くらい使った気がしていた。玄関に冷房は効いていないが、日が遮られているだけでもだいぶ涼しく感じた。明かりが点いていないので視覚的にも涼しかった。
あたりは静まり返っていて、下駄箱を開ける音と上履きを地面に落とす音が響いて聞こえた。なんか夏休みだなぁと感じてから「普通もっと友人や恋人と花火大会や海に出かけるとか、そういうことで夏休みを感じるんじゃないか」と思わないでもなかったけれど、人のいない学校で夏休みを感じたって別にいいだろう。僕にとってはそういうものだ。
図書室に行くと冷房がほどよく効いていた。利用する人もほとんどいないから期待していなかったのだが、どうやら図書委員が蔵書点検の手伝いで数人来ているらしく、司書さんが気を利かせてくれたみたいだった。冷房が効いているならここで読んでいってもいいなと思いつつ、リュックサックから取り出した先週借りた小説を返却した。図書室に通っているうちに顔見知りになった司書さんと少し言葉を交わし、奥の本棚に向かった。
窓際のテーブルに勉強道具が広げられていたので自分以外にも誰かがいることがわかったが、まさかそれが彼女だとは思わなかった。彼女は参考書コーナーで本を探していた。
「宮澤先輩」と呼びかけると彼女はこっちを向いた。少し会わないうちに髪が伸びているように感じた。
「後輩くん。こんなところでなにしてんの?」
彼女はいつも僕のことを後輩くん、と呼んだ。理由はわからない。特別意味はないのかもしれないけれど、僕はその響きを結構気に入っていた。
「何って、読んだ本を返して新しい本を借りにきたんですよ」
「夏休みなのに?」
「夏休みだからこそ、では?」
後輩くん、と再び彼女は誰かを諭す前に発するイントネーションで言った。
「夏休みに外に出ないで読書に耽るなんて不健康じゃないかな。いや、不健康ってことはないけどさ、なんていうの? もっと夏っぽいことしないと」
「夏っぽいこと?」と僕は白々しく聞き返した。そんなもの聞かなくても分かるし、さっき玄関で考えていたくせに。
「海とか花火とかお祭りとかBBQとかさ」
「そう言われても、夏休みの予定なんて僕には特に無いんですよ。誘う友人も誘ってくれる友人もいない。読書が好きなやつなんて大概そうです。現実の空虚を創作物で埋めることで、なんとか保っているんです。そういう意味ではたしかに不健康ですけど、不健康なりに健康とも言えます」
そう返すと彼女は声を出して笑った。
全く失礼なやつだな、とは思わなかった。「まぁ彼女が笑ってくれるんならいいか」と思わせるような笑顔だった。壁に貼られた「図書室内はお静かにお願いします」という注意喚起ポスターなんてまるで気にしていないようだったが、他に生徒もいないので司書さんに怒られることもなかった。
文庫本コーナーで一冊本を選んで彼女の座るテーブルの向かい側に腰掛けた。
「ここ座っていいですか」とはあえて聞かずに勝手に椅子を引くと勉強中の彼女がシャーペンを動かす手を止め顔を上げて、僕を見た。
「座るの?」
「ダメでなければ」
「ダメって言ったら?」
「別のテーブルに座ります」
「しょうがないなぁ、カフェオレ一本奢りで手を打とう」
そう言って彼女が人差し指を立てるので、僕がテーブルから離れようとすると「うそうそ冗談だってば」と彼女は慌てて言った。
こうして僕は読書を、彼女は受験勉強を一つのテーブルを囲んですることになった。だいたい一時間毎に休憩を挟み、軽くどうでもいい会話をして再開するというのを午前中の間続け、正午を目安に僕は帰宅した。彼女は午後も勉強を続けるらしく昼食に弁当を持参していた。夏休みの間に週に一回くらいのペースで僕らは時間を共有していた。
「そういえば後輩くん。ここにいる時はいつも本読んでるけど、夏休みの宿題は順調に進んでるの?」
八月が中旬に迫る頃だった。課題にはほとんど手をつけていなかった。毎年、夏休みが残り一週間程度になってから焦るように片付けていくのが僕のやり方だった。僕のやり方というか、やらなければならないから仕方なくやっているだけで、物事をギリギリまで先延ばしする悪い癖という方が正しい。
「進んでますよ」
いいえ、全くやってないですね、なんて言ったら彼女に揶揄われそうだったので嘘をついた。すると彼女は案の定「そう。つまんないの」と興味をなくしているようだった。
「あとどのくらい?」
「半分は終わったと思います」
「そっか。私は必死に勉強してるっていうのに、目の前で読書するなんてずるいなぁ」と彼女は疲れているのか、顔を机に伏せながら言った。
図書室の角に設置された扇風機が首を振りながら風を送り、ときおり彼女の髪を揺らして開かれた参考書のページをひらひらとめくった。
「結構追い込んでやってるみたいですけど、たまには息抜きもしながらでいいと思いますよ」と返すと彼女は大事なことを思い出したかのように勢いよく顔を上げた。
「そうだ、このあと暇?」
少し考えてから返した。
「要件によっては暇です」
そうは言っても彼女からの誘いならどんな要件だろうと暇だと返すことは、もう自分でもわかりきっていた。
彼女はわざとらしく目を細めて僕を睨むようにしてから言った。
「後輩くん、そんなだから友達いないんだよ」
たしかにそうだな、と思った。僕はこんなだから友達がいないんだろう。
「何かあるんですか?」
「駅の向こうに最近できたカフェあるじゃん?一人で行ってもいいんだけどさ、せっかくなら誰かと行こうかなって」
「誰かって?」
「だから、今君を誘ってるでしょう」
正午のチャイムが鳴ったのを区切りに僕らは荷物をまとめ、例のカフェを目指して歩き始めた。真上に上った太陽がジリジリと僕らの肌やアスファルトを熱し、たちまち背中や額に汗をかいた。
「宮澤先輩が目指してる大学って、たしか東京ですよね」
「うん、そうだよ。なんで?」
「大学生になったら、何かやりたいこととかあるんですか?」
あちこちから蝉の合唱が五月蝿かったので僕は声のボリュームを上げて言った。
「んー…パン屋でバイトをして、売れ残ったパンをもらって食費を浮かしたり、レイトショーで映画館を独占したり、そういう何気ない大学生活を送りたいかな」
僕はパン屋でアルバイトする彼女や、夜中に一人で映画を観る彼女を想像した。
「なんかいいですね、そういうの。上手く言えないですけど」
「大人になって大学生活を思い出した時に『あのモラトリアムで有益なことや将来役に立つようなことはほとんどなかったけれど、あれは美しい時間だった』ってなるような」
「有益なことと将来役に立つことはなくていいんですか?」
彼女は質問には答えなかった。
「後輩くんも来年になれば受験生だから、高校生のうちにやりたいことがあったら今のうちにやっといた方がいいよ」
先輩からのありがた〜いアドバイス、と彼女は付け足した。
「たとえば?」
「なんか青春っぽいこととかさ」
青春っぽいこと、という響きは苦手だなと思った。
「頭の中で、こういう高校生活だったらよかったのになと思うことはしょっちゅうありますけど、それを実現するとなると難しそうです」
「まぁたしかに、そんな簡単にはいかないよね」
「もし仮に実現できても、それは本当の意味で僕の望んだ通りにならないような気がしてるんですよね。伝わりますか、この感覚」
わかるよ、と彼女は言った。
「私たちが知らずのうちに言葉を覚えているのと同じように、いつの間にか私たちは『こうあるべき理想の青春』を形作っていて、でも結局のところそれはどうやっても手の届かない場所にある。だからこそ美しいのかもしれないけれど」
「手が届かないことがわかっていても必死にそれを追い求めることが正解なんでしょうか?」
わからない、と彼女は言った。
「わからないけれど、多分そんなことを考えている間に終わってしまうよ」
電線に止まる小鳥を眺めながら坂道を下って目的地へ向かった。彼女はバランスをとるように腕を広げながら縁石の上を歩いて、僕はその二、三歩後ろから彼女の後ろ姿を眺めながら歩いていた。
途中、プールからの帰りと思しき半袖短パンの小学生たちとすれ違った。髪を濡らしたまま、小気味良くサンダルの音を立てて歩く彼らはそのまま夏の季語にでもなりそうな印象だった。彼らは大きな声で午後から誰かの家に集まってゲームに勤しむ予定を立てていた。
野良猫の住み着く古びた一軒家の敷地で、タンクトップ姿の老人が水を撒いているのを横目に通り過ぎて、跨線橋を越えた先、舗装された道路を道なりに行くと、やがてオープンを知らせる幟の立てられたカフェが見えた。
一時間ほど休憩してから店を出た。夏の日差しと焼けたアスファルトから反射した熱気が冷房の効いたカフェで養った体力を容赦なく奪っていった。
「アイス食べよう、アイス。暑くて死んじゃうよ〜」
彼女はリュックサックから透明な下敷きを取り出して仰いでいた。
「駅のコンビニでいいですよね」
「うん、行こう」
体を反らせた下敷きがペコペコと独特な音を立てるのを聞きながら、一体この音を聞くのはいつぶりだろうと思った。
「ハンディファン買わないんですか?」
「んー、さすがにに暑いね。買おうかな。なんか世の高校生たちは皆使ってるからさ、逆に私は使ってやらないぞみたいな。つまらない意地張っちゃってるんだよね」
「逆張りしても、あんまいいことないですよね」
「そうだけどさ。…いやほんとにその通りだね。何でこんなことしてるんだろう?」
彼女はまるで地面に書いてある答えを探すかのように俯きながら歩いて、暫くしてから言った。
『私はお前らとは違う』ってつまらないプライドを振りかざしてなんとか自分を保ってるのかな、私は。自分でもよくわからないけれど」
でも下敷きでそんなこと言ってるのダサいな、と彼女は自虐的に笑った。
「言いたいことは分かります。流行とか、なんか避けたくなりますよね。ものにもよるけど。そういうプライド、結構好きです」
「ひょっとして君もひねくれ者?」
「もしくはちょっとした懐古主義者なのかもしれないですね」
「電車で有線のイヤホン使ってる人見かけたら、何聴いてるか気になっちゃうとか?」
「そう。そういうやつです」
彼女は舗装されたインターロッキングブロックの赤色だけを選んで歩いていた。
縁石を上るのといい、子供っぽさがたまに垣間見える人だった。
「にしても今時下敷き仰いで涼んでる人なんて見かけませんね。なんか懐かしい気分です」
「夏の教室の音だよね」
彼女の澄んだ声色からは、夏の教室がありありと想像できた。
五時間目は美術の移動教室で、忘れ物をした僕は教室に道具を取りに行く。教室のドアを開けると電気は消えていて、視覚的な涼しさをもたらしてくれる。開け放たれた窓から吹き込む夏風が、袖を捲った腕を柔らかく撫でるように通り過ぎていく。風に靡くカーテンになんとなく目が奪われて、誰もいないはずの教室に彼女がいることにしばらく気付けないでいる。机の中を漁るような物音がして初めて彼女の存在に気づき、そうだ忘れ物を取りにきたんだと思い返して自分の机に向かったところで自分が何を忘れているのか思い出せなくなっていることに気がつく。そしてどうやら彼女も同じ状況のようで、僕らは世界から取り残されたような気分になる。それまで特に接点のなかった僕らは、教室を構成する部品の一つでしかなかったお互いを、ここで初めて認識し合う。きっとこんな感じだ。
しばらく無言で歩き続けて、視界の駅舎が大きくなってきた。
「ねぇ、私たちがつまらない意地を張って生きるのなんてやめて、みんなと同じようにしてみたらどうなるかな」
彼女はさっきの話をもう少ししたいようだった。
「今よりだいぶ生きやすくなるんじゃないですか。流行をなぞればそれを介して新しい仲間もできるし、友人ができればきっと生活は充実します。少なくとも今よりは」
僕は少し迷って付け加えた。
「でもそしたら僕たちにはもう何も残らないような気もします。言ってることが矛盾してますけど」
何も持っていないのにね、と彼女は言った。
駅のコンビニでアイスを買って、ホームのベンチに二人並んで座り食べた。冷房の効いた休憩所はなかったが、幸いホームには屋根がついていてベンチは日陰になっていた。
背中から少年たちのはしゃぐ声が聞こえた。振り向いて見てみると、駅の駐車場でスケボーをして遊んでいた。彼らの声の他には、蝉のけたたましい鳴き声が聞こえるだけだった。
電車はしばらく来ないらしく、ホームに人の姿もなかった。反対側のホームには僕らと同じように男女がベンチに座って何か会話をしながら電車を待っていた。
「あの二人は電車に乗り遅れて偶然出会ったんだよ」と横から彼女が言った。
どうしてわかるんだろう? さすがにいくら耳がよくても、二人の声が聞き取れるとは思えない。
「どういう意味ですか?」
「意味なんかないけどさ。たまにこういう暇な時、周りの景色を見ながら勝手に想像するの。目に留まった人を主人公にして物語を作ったり」
なるほど、たしかに暇つぶしになるかもしれないと思った。そして僕は彼女の考えた物語の続きを考えて話した。
「電車に乗り遅れた二人は、次の電車が来るまで退屈凌ぎに他愛もない会話を始める。話してみると意外と気が合うことがわかって、月日が流れていくうちにだんだんとお互いを異性として意識するようになる」
そこで言葉が詰まった。ここからどうすればいいのかわからなかった。チョコレートのコーティングされた棒付きバニラアイスを食べながら続きを考えていると彼女が言った。
「んー、ただ両思いでしたってなったらつまらないしね。片方実は重たい病気で余命三ヶ月でしたとか?」
勝手に殺すなよ、とは思ったがどうせ想像の話なのだしいいだろう。
「でもそれも最近よくあるやつじゃないですか。恋愛小説でとりあえずどっちか死なせとけば感動するでしょみたいな」
「言い方…でもまぁたしかにこれじゃ月並みだね」
うーん、と二人で頭を捻りながら電車が来るのを待った。彼女は吸うタイプのラクトアイスを手でほぐしながら食べていた。
「実は女の子にはすでに彼氏がいて、どっちを選べばいいのか迷っているうちに乗り遅れの男の子から告白されちゃって、そのまま付き合っちゃうとか」
「それじゃ浮気じゃないですか」
「いいんだよ、物語なんだからさ。続きが気になってくるでしょう?」
そのあとどうなるんですか、と聞くと彼女は黙った。そしてまたアイスを食べながら僕らは続きを考えた。でもいくら考えても良いと思えるものが思い浮かばず、そのうちにアイスを食べ終えてしまった。
「難しいね」と彼女が言った。
「でも意外と面白いし、暇つぶしになりますね、これ」
やがてやってきた電車に乗り込み、僕らは帰路についた。
長い休みが明けてからも変わらず関係は続いた。たまに校舎の別の場所で見かけることもあったが、自販機以外の場所で話すことは少なかった。そういう暗黙の了解のようなものがあった気もするし、急ぎの用事があるわけでもなかったので放課後を待った。
秋が深まる頃には、彼女のことを異性として好いていた。思春期真っ只中の男子高校生なんてチョロいものだ。彼女に恋人がいるのかどうか、というのは気になったがなかなか聞くタイミングも勇気もなかった。それに放課後に雑談で盛り上がる関係で今は十分満たされていたし、急ぐように距離を縮めようとしてかえって気まずくなってしまうのを恐れていた。
しかし残されている時間が少ないのもどうしようもない事実だった。気持ちを伝えるにせよ伝えないにせよ、あと半年もしないうちに彼女は卒業し、遠くに行ってしまうことは確定している。もし気持ちを伝えたとして、受験勉強に向ける集中力を阻害してしまうのではないかと考えると告白する気にはなれなかった。そうなるくらいだったらこのままの関係が卒業するまで緩やかに続く方がよかったが、それを言い訳に臆病な自分を正当化しているのもまた事実だった。
十月のよく晴れた日だった。
ようやく夏が去って暑さを忘れようとしていた頃に、夏が帰ってきたような感覚を覚えた。でも夏の間に嫌というほど聞いた虫の声の煩さは消えていて、夏の終わりと秋の間の何か新しい名前がつきそうな季節だった。
その日も五時のチャイムを合図に僕たちは北校舎玄関の自販機に集合していた。つまらない話を十分くらいした後で別れ、いつもはそこで下校するのだが、今日はもう少し本を読んでいたい気分だった。単純に、続きが気になるところで栞を挟んでいたというのもある。
僕は図書室に戻って再び本を開いた。読書を始めた頃は一時間も読めばその日はもう疲れて読むことができなかったけれど、だんだんと長い時間活字を追うことにも慣れてきた。しかし読む速度は一向に上がらず一冊読むのにはかなりの時間を要した。時計の針が過ぎていくのも気にせず読み耽った。それはとても贅沢な時間だった。
司書さんに「そろそろ閉めるよ」と声をかけられて顔を上げ時計を確認すると六時十分を過ぎたところだった。大体読んでいたのは一時間くらいだが、授業一コマと比べて明らかに時間の進み方が違った。もう図書室には僕と司書さんしかいなかった。
南校舎の玄関で靴を履き替え外に出ると、もうすっかり外は暗くなっていた。日が落ちるのも早くなったな、と何となく考えながら歩いていた。校門を抜け、体育館から漏れる明かりを横目に通り過ぎた。運動部はまだ部活をやっているらしく、開け放たれた窓からバスケットボールの弾む音とシューズの音が聞こえた。
しばらく進んだ先に信号があって、歩道の赤信号に止まっている一人の女子生徒を見つけた。遠くからだったけれどそれが彼女だと分かった。いや、正確には彼女な気がしただけというか、似ているだけで彼女だと断言はできなかった。そうであってほしかっただけかもしれない。見つけたタイミングでちょうど青信号に変わったので僕は小走りで彼女に追いつこうとした。女子生徒の姿がだんだんと視界の中で大きくなっていって彼女だというのが確信に変わった。僕が声をかけるのと、彼女が後ろから近づく足音の正体を確かめようと振り返るのがほぼ同じタイミングだった。
「宮澤先輩っ」
走りながら声を出したせいで自分らしくないような、少し弾んだ声が出た。まぁ実際心も弾んでいた。
「後輩くん、まだ帰ってなかったの」
彼女はいつもと変わらない声で言った。
夢中になって本を読んでいたら時間が過ぎていたことを伝えると、彼女は特に興味もなさそうに「ふーん、そっか」と言って歩き出した。数歩先に進んだ彼女が振り返って言った。
「じゃあ駅まで一緒に歩こうか」
暗闇の中で話をしながら歩いた。夜の暗さで彼女の表情はうまく見えなかったから、声のトーンで想像した。疲れていそうな声に、時々少し嬉しそうな声が混ざっていた。僕の履くスニーカーが地面を擦る音と、彼女の履くローファーの地面をノックするような音が、交互に響いたりたまに重なったりしながら聞こえた。何の話をしていたかはもうあまり覚えていない。僕も疲れていたし、おそらく彼女も疲れていた。「いつもこの時間で帰っているんですか?」と聞いたことだけ覚えている。
「そうだよ。六時三十六分の電車に間に合うようにしてる」
電車の時刻から方向が同じことがわかった。
「それはいいこと聞きました」
彼女はふふっと笑って「やっぱ嘘かも」と言った。
十分と少し歩いて駅に着いた。小さな駅で、構内にはコンビニくらいしかないのでそのまま改札をくぐって停車中の電車に乗り込んだ。この時間帯には帰宅する高校生が多くいそうだったけれど、想像していたよりも車内は空いていた。車両の一番奥の席で、僕は彼女の左側に座った。
彼女に最寄駅を聞くと僕が降りる駅よりも四駅ほど遠くだった。家に着くのは何時頃になるのか、今日は帰ってから何をして過ごすのかを話した後に、沈黙が降りた。
彼女は制服のポケットから白いイヤホンを取り出して、スマホにジャックを刺した。今時有線のイヤホンを使うのは珍しいなと思った。以前話した逆張りを、彼女は実践しているんだろう。「一緒に聴く?」と片方のイヤホンを差し出してくれる彼女を想像したが、そんなものはもちろんなかった。
「朝の電車では眠い目をこすりながら勉強しているんだけど、帰りは疲れて集中できないからいつも音楽聴いてるの。つまりこの時間が一日の癒しなわけだよ、後輩くん。君も来年こうなるよ、きっと」
「考えたくないですね」と返すと彼女は少し微笑んだ。
左耳のイヤホンをつけるときに彼女は、付け加えるように言った。
「私、音楽聴いているときに話しかけられるの嫌いだから、大した用事じゃなかったらやめてね」
僕は頷いてから「わかりました」と返した。「ここに地雷がありますよ」と彼女の方から教えてくれたのは助かった。言われなければ知らずのうちに踏んでいたかもしれない。もしそうなっていても、彼女は怒った素振りを見せずにイヤホンを片方とって耳を傾けてくれたかもしれない。でもそういうことはしたくなかった。
「ごめんね」と小声で言ってから彼女は視線を携帯に戻した。
構内に発車を知らせるアナウンスが流れて電車のドアが閉まり、やがて電車が動きだした。僕は手持ち無沙汰になった。今日はもう十分本は読んだし音楽を聴く気分でもなかったので、何となく旅行会社の中吊り広告を見た後、何となく夜の車窓を眺めていた。遠くの民家や建物から漏れる小さな明かりと、手前の道路を並走する車のヘッドライトがあったが、それよりも暗闇に反射する車両のほうがはっきり映っていた。横目では確認できない彼女の様子を反射する窓から見ていた。目を閉じたまま音楽を聴く彼女は少しだけ首を傾けていて眠っているようにも見えたし、リラックスしているようにも見えた。
三駅先で、乗り込んできた他校の部活帰りらしき男子高校生たちが向かいに腰を下ろして彼女の影は消えた。
それから彼女と下校することが増えた。自販機の横で話している際に、雑談に夢中になって「今日一緒に帰りませんか」と一言誘うのをいつも忘れてしまって、秋が深まる頃になるまで待ち合わせて帰ることはほとんどなかった。僕が自習室まで彼女を迎えにくことも、彼女が図書室まで僕を迎えにきてくれることも、玄関や校門の前で先輩を待つ時間もなかった。大体同じ時間に各々帰り支度を整え、帰り道の途中で見かけたらそこから一緒に歩くという流れだった。
僕は「僕が彼女の姿を見つけ追いつく」という構図を作るために、いつも少しだけ時間を遅らせて校舎を出た。その度に「偶然だね」と彼女は偶然ではないことを分かったうえでわざとらしく言ってきた。
*
斜向かいの席に座る女子高生たちの会話が聞こえてきた。
「ねぇ、カフェオレとカフェラテって何が違うの?」
色素の薄めな黒髪のロングヘアーの方が聞いた。スカートの丈が短いのは女子高生らしさなのかもしれないが中が見えそうな危なっかしさがあった。しかし本人は気に留めることなくテーブルの下で足を組んでいた。右足のソックスがおりていて左右不均一だった。
「名前が違う」
黒髪のボブヘアーの方がそっけなく答えた。こちらからは顔は見えない。
「そんなのわかってるってば」
「まぁ味ほとんど変わんないし、何だっていいじゃん」
「そんなもんかなぁ」
「そんなもんだよ」
二人はそれぞれの携帯を眺めながら声だけで会話していた。制服姿なので学校帰りだろう。ロングヘアーの方のスマホケースはパステルカラーのピンクで何かのステッカーが貼られていたが、もう片方は僕の席からは見えなかった。
僕は窓の外を眺めた。雨はさっきよりも勢いを少し弱めていたが、まだ当分止みそうにはなかった。
「何が違うんだろうね?」と彼女が言った。どうやら彼女も話を盗み聞いていたらしい。僕は斜向かいの席に声が届かないように少し声のボリュームを絞って答えた。
「たしかカフェオレはフランス発祥でドリップコーヒーとミルクを割ったもので、カフェラテはイタリア発祥でエスプレッソとミルクを割ったもの、だったような」
「へぇ、知ってたの」
「いつか誰かに同じことを聞かれて調べたんですよ」
「やるね、後輩くん」
懐かしい響きだった。何か言おうと思ったところで店員が注文の品を運んできた。彼女は「美味しそう」と小さく声を漏らした。白の花柄のシンプルなお皿で、バスクチーズケーキの表面の焦げ目が店の照明を反射して輝いていた。
「そっちも美味しそう」と彼女が言った。
「おすすめってことは食べたことあるんですか?」
「うん。一回だけだけどね」
そうして僕らはケーキを食べ始めた。窓の向こうで、雨は相変わらず道ゆく人の憂鬱の種として降りそそいでいた。
「宮澤先輩に会うのは久々ですね」
「んーと、一年と少し、ぶりだね」
コーヒーを一口飲んで、カップをソーサーに戻すまでの間で何か次の言葉を探していると彼女は言った。
「ブラックで飲むの? 苦くない?」
「苦いです」
「苦みの中に美味しさを見出せるなんて、大人だね」
「宮澤先輩の前だから大人ぶってるんですよ」と言うと彼女は少し口角を上げ静かに笑ってくれた。
子どもだね、と彼女は返した。
「大人ぶっていられる間は、子どもでいられるってことなのかな」
「なんか急に哲学的ですね」
「ごめん。後輩くんならいいかなって」
僕ならいい? それは一体どういう意味で言っているのか、理解できずに彼女の方を見ると彼女と目が合った。まるで僕の視線の行き先を待ち伏せしているみたいだった。
「僕ならいいっていうのは?」
「哲学的な話でも何でも、いいってこと」
よく分からないけれど彼女にとって何でも話せる相手なら、少なくとも悪い意味ではなさそうだ。
「誰だって働いている間は多かれ少なかれ自分を取り繕って生きていて、プライベートではその皮を剥いで息抜きをしている。大人として自分を取り繕っているだけで、実際は僕らと大して変わらない気がします」
「たしかにそうかもしれない。歳をとってみないと分からないこともあるだろうけど、子供と大人の間に明確な境界線みたいなものってないよね。お酒が飲める、とかはあくまで日本の法律が言ってるだけだし」
少し間を置いてから彼女は言った。
「ピーマンの苦さが美味しいと思えるようになったのと同じように、私ももう少し歳をとったらブラックコーヒーの苦味を味わえるようになるのかな」
「先輩カフェオレしか飲まないでしょ」
うるさいな、と彼女は心外そうに言った。
ケーキを口に運んで、僕は窓の外を眺めた。窓の外にとくに用事があるわけではなかった。道ゆく若者も高齢者も、スーツ姿のサラリーマンも私服姿の大学生も地味な色の傘を差して身を守っている。横断歩道の向こう側で信号を待つ小学生だけが鮮やかなオレンジ色の傘を差していて、雨さえ楽しんでいるような気がした。もちろん気がしただけだが。でも、かつては自分もそうだったかもしれない。
「自分が外にいて雨に降られるのは憂鬱だけど、建物の中から聞く雨音は心地良いですね」
「人の不幸は蜜の味?」
「違いますよ、純粋に音の話です」
知ってるよ、と彼女ははにかんだ。
それから少しの沈黙ができた。カフェの店員がテーブルの横を通り過ぎて、店内を流れるアーティストの分からないジャズソングが次の曲へ移った。客が出て行ったのか入ってきたのか分からないが、ドアベルの音がかすかに聞こえた。僕はタイミングを見計らって言った。
「偶然会ったとはいえ、振った相手とカフェで休憩なんてよかったんですか?」
彼女は困ったように笑った。
「だってドアの前で会ってお互い認識したのに、はいそれじゃあさようならってできるわけないでしょ。それにあの時も話したけど、別に君のことが嫌いで断ったわけじゃないって」
僕は頷いた。それを確認して彼女は続けた。
「あと後輩くん。物事には正しい順序ってものがあるんだよ。久々に会ってお互い気まずさを多少なりとも感じているんだから、徐々にほぐしていかないと。降り積もった雪にいきなり熱湯をかけたら雪だってびっくりするでしょう? お日様みたいにゆっくり溶かしていかないとだめだよ。いきなりその話はしちゃいけません」
雪が溶けるのは雪からしたらほぐれるというより苦しい思いをしてそうだが、ものの例えはそこまで厳密に一致するものでもないだろうし理解はできたので指摘しなかった。
すいません、と僕は冗談っぽく返した。
どうやら僕の狙いはある程度成功したみたいだった。僕と彼女との間にある気まずさの正体は、高校生の頃僕が彼女に告白し、そして断られたという事実だった。お互いそれを考えながらおそるおそるカサブタを捲るように、いつそこに触れるかというのを見計らって会話するくらいなら、あえて先に冗談混じりで触れた方が緊張がほぐれるような気がしていた。
「じゃあ正しい会話の順序とやらで、宮澤先輩に頼みます」
「任せなさい」彼女はまた、はにかんでそう言った。
じゃあまずは、とおいてからしばらく他愛もない話が続いた。お互いの近況、最近の個人的な流行、昨日の夕飯、最近見た映画の話、僕の大学の話など、本当にどこにでもある話だ。僕らの間にある一年数ヶ月分の空白を、葉っぱの虫食いを逆再生するように、思いついたままに話をした。そして実際、彼女は会話のテンポというのをよく理解していた。任せなさいと言うだけあった。質問の投げ方や相槌を打つタイミング、相手の答えに対してどこに焦点を合わせ深掘りしていくか、あるいは別の話題に移る際の会話と会話の間の縫い方など、相手から自然に話をひきだし、それに対して自然に返すことができているように感じられた。まるで車のナビのように、彼女にだけこの会話の目的地がわかっていてそこまでの道のりを先導しているみたいだった。
「後輩くんは今バイトしてるの?」
「いや、少し前に飲食店のバイトを辞めてからは何もしてないです」
そういえば借りてた制服を今だに返してないことに気付いたが言わなかった。
「なんで辞めたの?」と彼女はフォークでケーキを一口サイズに切り分けながら聞いてきた。
「可愛い先輩がいなかったからですかね」と返すと彼女はケーキから目線を上げて、目があった。
「何それ、不純な理由だなぁ」
「男子大学生なんて皆こんなもんですよ」
「まぁそんなもんか。なにか新しいバイトを探していたりするの?」
「いや、探してないです。バイトはしたくないので」
なるほどね、と彼女は言った。
「バイトはしたくないけど、バイト先の可愛い先輩とくだらない話はしたいんだ?」
「そういうことです」
彼女は高校生の頃言っていたように、家から少し離れた場所にあるパン屋でバイトをしていることを話してくれた。店の名前を聞いてみたが「教えたら来るでしょ」と言って教えてくれなかった。
*
提出期限の迫る課題を朝の教室で終わらせるために、いつもより早い電車に乗って学校に向かった十一月下旬の日。先月の衣替の時期にはまだ漂っていた残暑はいつのまにか消えていて、早朝のプラットフォームには冬の訪れを知らせるような冷たい風が吹いていた。耐えきれずポケットに手を突っ込むと、ずっと前のくしゃくしゃになった買い物のレシートを見つけるみたいに孤独を感じた。一人でいることに慣れてしまって意識することはそんなになくても、孤独はずっとそこにあったのだ。寒さのせいで電車を待つ数分がとてつもなく長く感じた。ようやく電車が来たときには耳の感覚が半分くらいなくなっていて、あまりに遅かったので電車の遅延があったのかと思ったが、携帯で時間を確認するとそんなことはなかった。
ちょうど乗り込んだ車両に宮澤先輩の姿を見つけた。モノトーンのブロックチェック柄のマフラーを巻いていて、眠たそうな目で英単語長を見つめていた。車内に効いた暖房と好きな人を見つけた時の気持ちの高揚が、同時に僕の体温を上げてくれたみたいだった。
しかし勉強中の彼女の隣に座るのは憚られた。そうだ、彼女は受験生だ。残された時間がもう少ないことに改めて気づかされた。頭のどこかではわかっていたけれど無意識に考えないようにしていたのかもしれない。彼女に気づかれないよう、しかし彼女の勉強する姿を盗み見ることができるよう距離をとって対角線上の席に座った。
彼女は必死に勉強しているようにも見えたし、眠っているようにも見えた。そのうちに船を漕ぎはじめたので、後者だとわかった。というより前者から後者に変わったと言うべきか。誰だって朝は眠たい。ただでさえ眠たいのに程よく暖房のついた車内に揺られれば余計眠たい。しかし彼女を盗み見る僕は不思議とそこまで眠くなかった。凍えるような外気に長い間さらされていたからかもしれないし、眠そうな人を見ているからかえって自分の目が醒めるのかもしれない。もしくはただ単に彼女に夢中になっているからなのかもしれない。彼女は眠気と闘いながらそれでも単語帳をしまうことはせず、寝ては目覚めて勉強してを繰り返していた。まるでRPGのしつこい状態異常に苦戦するキャラクターを見ているようだった。
放課後、五時のチャイムが鳴るまでに時計の針を確認する回数が増えた。まるで時計が僕の気持ちを知っていて、わざと時間の進みを遅くしてやろうとイタズラ心を働かせているみたいだった。わざわざ確認しなくても五時になればチャイムの音が知らせてくれるのだけれど、時間を気にしないふりをすればするほどかえって意識してしまってダメだった。読書に集中できる気もしなかったので本を閉じて時間が過ぎるのを待った。
自販機に向かうと、珍しく彼女の方が先にいた。自販機の横の壁に寄りかかって両手でホットカフェオレの熱を受け取るように包んでいた。もうホットで飲料が売られる時期か、と思った。
日が落ちるのもずいぶん早くなって十一月の五時はもう夜の暗さとほぼ同じだった。北校舎玄関は今はもう使われていないので廊下の明かりはついておらず、自販機の明かりと遠くに非常口の緑色の光だけがあった。
「やっほ、おつかれさま」
「お疲れ様です。今日早いですね」
「うん、待ってたよ後輩くん。今日は気分がいいから、私が一本奢ってあげよう」
彼女はそう言ってポケットから白を基調にパンダの絵が描かれたガマ口の古銭入れを取り出した。じゃあ先輩と同じのを、と言うと彼女は小銭を取り出して自販機に投じた。
「どこかでお金拾ったとか?」
「そんなわけないでしょ。お金拾って気分が良いからそのお金で奢ってあげようって、後輩くん。私のことなんだと思ってるの」
「じゃあ、どんな良いことがあったんですか?」
すると彼女はその質問待ってました、と言わんばかりの表情で言った。
「んー、聞いちゃう?」
「聞いちゃいます」
「教えて欲しい?」
「教えて欲しいです」
「どうしても?」
「どうしても」
「へぇ〜そっか」
「もったいぶらないでくださいよ」
彼女が笑いながらごめん、と言うのと自販機からペットボトルの落ちる音が重なって聞こえて、彼女は身を屈めて中からカフェオレを取り出し僕に差し出した。
「この間の模試の結果が今日返ってきてさ、結構、想像していたよりも良い結果だったんだよ。このまま順調にいけば合格できそう。過去問もだんだん点数取れるようになってきたし」
彼女が理想の進路に着実に近づいていることを嬉しく思ったし、ますます自分の存在が重荷になるようなことはしてはいけないな、と思った。
「さすが、毎日必死に勉強してる成果ですね」
「毎日必死に勉強してる成果ですよ」と彼女は自画自賛するようにオウム返しした。
「そういえば今日の朝も単語帳で勉強してましたね」
「え、朝いたの?」
「見かけたけど勉強中だったので話しかけるのはやめときました」
ふーんそっか、と彼女は言った。繋げて言うのでまるでどこか知らない国の言語みたいに聞こえた。フーンソッカ。
「偉いでしょう。受験生たるもの移動時間やらすきま時間やらも余すことなく活用すべし、だからね」
「帰りの電車は音楽聴いてるじゃないですか」
「…それはそういう戦略だから」
「朝も途中で寝てるように見えましたけど」
「それは…多分気のせいじゃないかな」
僕が沈黙しているのに気づくと彼女は肘で僕の横腹を小突いてきた。
「単語帳を開くのが大事なんだよ。姿勢。大事なのはそういう姿勢だから」
僕がカフェオレを半分くらい飲んだところで彼女が言った。
「ところで後輩くん。君今日も偶然を装って帰り道の私に追いつくつもり?」
彼女は僕の顔を覗き込むようにして聞いてきた。
「すいません。受験期に迷惑でしたか」と僕が言うと彼女は拍子抜けしたような表情をした後で顔を綻ばせて言った。
「ちがうよ。わざわざそんな回りくどいことしなくていいからさ。どうせ一緒に帰るんならどこかで待ち合わせようよ」
彼女の提案を受けて、冬休みを一か月先に控えた頃くらいから僕たちは玄関で待ち合わせて一緒に帰ることになった。月が見える日は、月の満ち欠けを気にしながら歩き、曇り空の日は「今日は月見えないね」と話しながら歩いた。「月が綺麗」と言ってしまうと別の意味で伝わってしまうので、色がどうだとか形がどうだとか言葉を選びながら話した。
彼女と一緒に帰るときに雨が降ることはなかったが、今思い返してみれば降らなくてよかったのかもしれない。別々で傘を差したとしても、同じ傘に二人で入ったとしても、その行為を通して明確な境界線のようなものが引かれ、二人の関係を特定の場所に決定づけてしまう。そうなるよりは、着地点を知らずに飛んでいくボールのように何か名前のついた場所に落ち着くことなく、曖昧ながらに好意を仄めかせることができる距離感が、このままできるだけ長く続いて欲しかった。付き合う前の関係が一番楽しいというのはつまりこういうことだろう。まぁ僕はこの後彼女に振られるんだけど。
*
「お待たせしました。完熟トマトのミートソーススパゲッティと海老とアサリのシーフードパスタです」
女子高生の座る斜向かいのテーブルに料理が届けられていた。黒髪ロングの方は左利きらしく、右手のスプーンにのせるように左手のフォークでスパゲッティを巻いていた。黒髪ボブは右利きで、向かい合う二人は手元だけが鏡のようだった。
「ねぇ、スパゲッティとパスタって何が違うの?」
「また? 語呂が違うだけじゃない?」
「ごろ?」
「どっちでも一緒だけど、シーフードスパゲッティよりシーフードパスタの方がなんかしっくり的な。ミートソースの場合は、パスタよりスパゲッティの方がしっくりくるじゃん?」
「あー、なるほど。響きが違うだけってことね」
「いやテキトーだけどさ」
テーブルのそばに置かれている携帯端末で調べればすぐにわかることなのに、二人はそれをしなかった。疑問を解消したいのではなく、それを相手と共有できればいいのかもしれない。
僕らのテーブルのケーキたちはだんだんと形を小さくしていった。このテーブルにいる理由が無くならないように少しずつ切り分けてゆっくりと食べ進めていた。別にそんなことしなくても「食べるもん食べたならさっさと出ていきな」なんて咎める人間はいないのだけれど。二人ともなんとなく手持ち無沙汰になるのを恐れていたところがあった。
窓の外を眺めようとした時に、彼女の視線がこちらを向いていることに気がついた。向かい合って座っているのだから当然と言えば当然なのだが、彼女は両肘をテーブルについて組み合わせた指に顎を乗せ、何か言いたそうな表情をしていた。しかし彼女は言葉を発するつもりはないようで「私が何考えているか当ててごらん」と目で訴えているのが伝わってきた。
「スパゲッティはパスタの一種です。イタリア語で麺類全般を指す言葉がパスタで小麦粉を練って細長く切った、僕たちが普段食べるようなあれがスパゲッティです。だからペンネとかマカロニとか、ああいうのもパスタの種類ですね」
「なるほど、さすが後輩くん」とかそんなような言葉が返ってくるものだと思ったが、違った。
「いや、タルト美味しそうだから一口もらえないかなぁって」
彼女は笑うのを堪えながら、にやけた顔で言った。
「なんだ、だったらそう言ってくださいよ。ただ知識ひけらかしたいだけの奴みたいじゃないですか」
「ひけらかしてくれるだろうなぁと思って」
彼女に賢い人間だと思われたいという意味では、間違っていない。
雨はピークを過ぎ去ったらしく、徐々にその勢いを弱めてきていた。
タルトを一口サイズに切り分けお皿を差し出すと、彼女はフォークでそれを刺し口に運んだ。彼女は声を漏らし、幸せそうな表情をした。自分より何倍も美味しそうに食べるその表情を見ていると、まるでコマーシャルのいささか過剰な演出のようでもあったけれど、こっちまで心の毒みたいなものが浄化される気分だった。
彼女は魅力的だった。僕は大学生の彼女を知らないけれど、高校生の彼女を知っていれば今の彼女があの頃よりさらに魅力を増していることはすぐにわかった。
彼女に対する想いは本人に伝えたので自分の中でも諦めのついたもののはずだった。苦い青春時代の思い出として心の整頓はできたはずだったのに、いざ彼女に会ってみるとそんなものはまるで意味をなさなかった。
「先輩、今彼氏いるんですか?」
どうせ彼女に一度告白しているので構わず聞いてみると、彼女は困ったような表情をしてから言った。
「…うん。実は、いるんだ」
*
「だからごめん。後輩くんとは付き合えない。ごめんね」
彼女は申し訳なさそうに言った。
卒業式当日の朝、下駄箱を開けると小さな二つ折りの紙切れが入っていた。そこには少し丸みを帯びた字で「後輩くん 式が終わったらいつものとこで少し話そう」と書かれていた。
あくびを噛み殺しながら退屈で長い式を終えて、僕はいつもの自販機に向かった。南校舎からときおり声が聞こえて騒がしさが伝わってきたけれど、北校舎は今日も静かだった。
外を舞う雪を眺めながら彼女を待った。冷え切った玄関の寒さに耐えかねて、彼女がやってくる前にカフェオレを買って飲んだ。十五分くらい経って彼女はやってきた。
「ごめん、おまたせ」
そう言いながら彼女はポケットから小銭入れを取り出した。胸元にはピンクのコサージュがつけられていた。
「宮澤先輩、今日は僕が奢りますよ」
「いいの?」
「はい、卒業祝いがこんなので申し訳ないですけど」
「全然いいよ。じゃあいつもので」と彼女は言って取り出した財布をポケットの中にしまった。僕は頷いて小銭を自販機に投入した。
「これ、一回は使ってみたいセリフだよね」
「いつもの?」
「そう」
「普通バーとかのイメージですけど」と言ってカフェオレを差し出した。
そうだね、と言って彼女は受け取った。もうこの表情を見ることもないんだろうなぁとこの時は思っていた。
「じゃあお互い大人になったら、バーにお酒飲みにいこう」
「ひと足先に大人になる先輩が、どこか良いお店見つけといてください」
わかった、と彼女ははにかんで言った。多分、この約束も果たされないだろうなと思った。彼女は実際のところ、どう思っていたんだろう? 僕には分からない。
「卒業おめでとうございます」
ありがと、と彼女がペットボトルを近づけてきたので、僕らは誰もいない冬の北校舎の自販機の横で、飲みかけのカフェオレで乾杯した。
年が明け、受験シーズンに入ると三年生は自由登校になるので彼女と会うのはずいぶん久々だった。何の話からすればいいのか悩んでいると彼女がお年玉の話を始めた。
「私さ、歳の離れたお姉ちゃんがいるんだけど、毎年お姉ちゃんの方が年上だからって金額も多かったの」
彼女はカフェオレを一口飲んで続けた。
「それをずっとずるいなぁって思ってたんだけど、自分もいつの間にか高校三年生になって、あのとき羨んでたお姉ちゃんと同じ金額もらってさ。なんか嬉しさよりも大人になっちゃったなぁっていう気持ちの方が大きかったな」
「僕は一人っ子なのでそういう感覚になったことないです。でも大人になりたくないっていうのは分かります。今が輝いているとは到底思えないし、大人になりたいとも思えない」
それじゃあ行き場がないじゃん、と彼女は笑って言った。
そう、僕には行き場がなかった。貴重な青春時代を過ごしていると言われても、僕の目の前にあるのはどこに価値を見出せばいいのか分からないような孤独で単調でつまらない生活だった。青色の絵の具のキャップを外して、いざパレットに出してみたら中身が灰色だったのだ。それは、もうここから何色を足しても鮮やかな色になることはなく、灰色の深みを増してしまうだけだと思わせるようなどうしようもない色だった。だからこの先の人生に期待なんてできなかった。もしかしたら今の生活よりは多少はマシかもしれないと思うことはあるが、所詮マイナスには変わりないだろう。かといって過去に戻って全てをやり直したいと思うこともなかった。それは現実的に不可能なのだから考えても仕方ないけれど、多分何回やっても僕の人生はこうなるんじゃないかと思う。こういう人生だからこういう人間なのではなくて、こういう人間だからこういう人生なんじゃないかと思ってしまう。人間を作るのは環境だという反論を述べるのは、結局与えられた環境や自ら飛び込んだ世界の中で適応してうまく生きてこられた人間なのだ。
「宮澤先輩も、大人になりたくないって思うんですか?」
冷たい廊下の壁に寄りかかりながら僕は聞いた。
「思うよ。楽しみな部分もあるけれど、やっぱり年は取りたくないような気がする」
もう制服もコスプレになっちゃうしなぁ、と彼女は玄関から見える外の雪景色を眺めながら残念そうにつぶやいた。
「でもまぁ、何年後かに後輩くんが私と会った時に『大人になるのも悪くないな』って思えるようにしないとね」
「一年しか歳変わらないじゃないですか」
「それもそっか」
僕はもう温くなったカフェオレを、まるでまだそこに温もりがあるかのように両手で包みながら彼女の声を聞いていた。何か言おうと思ったけれどなんと言えばいいのか分からず、黙りこくってしまった。
「だから、とりあえず受験勉強頑張りなよ」
「ほどほどに頑張ります」
「うん、それでいいよ」と彼女は言った。
彼女が第一志望の大学に無事合格し、春から始まる大学生活の準備を進めている話を聞き、「まだ話すべきことがあったかな」と彼女が考えている間の沈黙を見計らって僕は彼女に想いを伝えた。これからも彼女との関係が続いて欲しいと願ったけれど、予想通り彼女は「私は東京に行っちゃうから」と申し訳なさそうに言って僕はあっさり振られた。もともと望みはかなり薄いものだったので、そこまで深く傷つくこともなかった。なんていうのは嘘もいいところで、分かっていてもどうしようもなく辛かった。声や態度や表情に出ないように、とにかく彼女に僕の心中を気づかれないように必死だった。本気で傷ついてるなんて彼女に知られたくなかった。「やっぱりそうですよね、でも自分の中のケジメとして伝えておきたかったんです。ありがとうございました。先輩、お元気で」というように、来週また空いましょうくらいのテンションで別れなくてはならない。たとえもう会うことがないとしても。泣くにせよ悲しむにせよ、そんなもの家に帰った後に好きなだけ一人でやればいい。
その後のことはあまりよく覚えていない。多分彼女には僕の深い悲しみは気づかれなかったはずだ。おそらく。
宮澤先輩は「家族を待たせているから」と言ってその場で別れ、僕は一人で帰路を辿った。 何も考えないように足を動かしていたらそのうち駅についた。ホームに滑り込んできた電車に乗って腰を落ち着けたところで、今日の出来事をまるで知らない誰かの記憶を覗き見るように振り返った。後からじわじわと感情の波が押し寄せるのかと思っていたけれど、予想に反して僕は客観的に、意外と冷静に悲しんでいた。感情のピークは彼女を声を聞いた直後だったようで、一部始終を見終えた後の僕は、まぁそうだよな、という感覚だった。
*
まぁそうだよな、という感覚だった。
容姿端麗な彼女に恋人がいてもなんの不思議もない。むしろいないほうが不思議なくらいだ。
この店に彼女と入ってから無意識のうちに膨らんだ「もしかしたら」という期待は彼女に恋人がいるという事実を前にすっかり萎んでしまっていた。彼女の一言はまるで針が風船を破裂させるようで、後には言いようのない無力感だけが残った。
でもこれに関しては、彼女にも非があるのではないだろうか。久々に会った後輩と近況を話したり、思い出話に耽ったりするのはまだいいとしても、ケーキを一口もらったりするだろうか? それとも思わせぶりな態度だとかそんなことはまったく意識の外で単純に彼女が食い意地を張っているだけなのだろうか? 考えても仕方ないし彼女を責めるつもりもないけれど、いちいち彼女の行動の意図を気にする自分が馬鹿みたいに思えた。でも結局のところ、それほどまでに彼女が僕に対してどういう気持ちを抱いているのか知りたかったのだ。
普通ならここでゲームセットなのだろうけれど僕はまだ諦めたくなかった。正確に言えば高校生の頃に諦めたはずだった。だからゲームセットではなくてコンティニューだ。彼女の声や仕草など、一挙手一投足に惹かれる自分がいるというのがどうしようもなく事実だった。しかし残念なことに彼女に恋人がいるというのもまた、どうしようもなく事実だった。
あの夏の駅のホームを思い出した。あの日思い浮かばなかった物語の続きを僕は紡いでいかないといけない。だとしたら、意中の相手に恋人がいるくらいで諦めるような話じゃつまらないだろう。月並みな言葉を並べるくらいじゃ、彼女の心は奪えない。
窓の外の雨は、もうすぐ止みそうだった。雨が止む前に、雨宿りの口実が消費期限切れになってしまう前になんとかこの状況を打破しないといけない。「そういうわけだから、そろそろ帰るね。じゃあね後輩くん」となってしまったら、せっかく姿を見せた彼女を恋人にするチャンスは今度こそ永久に失われてしまう。とは言っても首の皮一枚すら繋がっていないようなチャンスだけれど。
「後輩くんは? ひょっとして彼女できた?」
「いや、いません」
相手はどんな男なのか、いつから付き合っているのか、など聞きたいことはあったがどれも喉の奥から出てこなかった。
「大学とかで良い女の子いないの?」
「んー、今のところあんまり良い出会いはないですね」
「そっか。まぁ恋人作る以外にも、大学生活は色々あるからね。良い人いないなら無理に作る必要もないよ」
「作る気にもあんまりならなかったんです」
僕は平然を装って言った。本当は自分の心臓がうるさくて仕方なかった。彼女は何と言おうか迷っているようで、またテーブルに沈黙が降りた。この店に入ってきた時の気まずさというか緊張感というか、そういう空気が一度換気したはずなのに結局戻ってきていた。というか戻したのは他でもない僕だった。
「それは、どうして?」と彼女はもう答えの予想がついているような様子で躊躇いがちに聞いてきた。
「宮澤先輩のことが忘れられなかったからです」
彼女はまた困ったように笑った。
「そっか…それはなんというか、その、嬉しいけど」
でもさ、私、という言葉を遮るようにして僕は言った。
「それでもいいです」
*
もう彼と会うことはないだろうなと思っていた。結局最後まで連絡先は交換しなかったし、私が高校を卒業してからの彼のことは全く知らない。大学生活にも徐々に馴染んでいって過去のことを思い出す機会もそんなになかった。喫茶店でカフェオレを頼んだ時など、そういうふとした瞬間に「そういえば彼は元気にしているかな」と思うくらいだった。
だから会計を済ませて取手に手をかけた瞬間、ドアを隔てた先に彼を見つけた時はさすがにびっくりした。再会できたことの純粋な嬉しさと、多少の気まずさが同時にあった。
話をしている間「彼には恋人がいるんだろうか」とか「ひょっとしたら私のことまだ好きだったりするんだろうか」とか、考えないわけにもいかなかった。けれど聞くにしてもどう聞けばいいかわからなかった。
「彼氏いるんですか?」と彼から聞かれた時、私は咄嗟に嘘をついた。話をしていて彼の大学は私の生活圏から距離があることが分かった。遠距離とはいかないまでも、彼と交際するには時間もお金もかかりそうで、関係を続けられる自信が無かった。もちろん彼が好意の裏返しとしてその質問をしたという確信はなく、私が早計なだけだったかもしれないけれど。
彼とは気が合う部分もあったし、付き合ったらそれはそれで楽しい生活が待っているのかもしれないと想像した。でもそれは「彼じゃないといけない」というほどでは正直なかった。だとしたら自分と同じ大学で別の出会いを探した方がいいんじゃないかと思ってしまった。
予想外の再会で頭の整理もうまくできていなかったので、この決断が最善なのかはよくわからなかった。奇跡に近いような確率で再会できたのだし、もっとしっかり考えた方がいいのかもしれない。
しかし一度嘘をついてしまった手前、彼氏がいる程で話を続けなければいけない。どうしようかと考えていたところで彼は予想外の言葉を口にした。
「それでもいいです」
え? なんて?
言葉をうまく理解することができなかった。それでもいいっていうのは私に彼氏がいてもいいっていう、そういうこと? つまりどういうこと?
「それでもいい、っていうのは?」
「それでも僕は宮澤先輩が好きです。久しぶりに再会して、しかも恋人がいる人にこんなこと言っても困らせてしまうだけなのは分かってます。でも話せば話すほどやっぱり宮澤先輩のこと、好きだなって思いました」
さすがにそんなふうにまっすぐ言われると顔が熱くなる。っていうか彼氏がいるって言われたら普通諦めるもんじゃないの? そんなに私のこと好きでいてくれたんだろうか、とか考え出すとさらに体が熱くなってしまう。幸い周りのテーブルに座る客もそれぞれの話題に盛り上がっているみたいで、大きな声を出さなければ視線を集めたりすることはなさそうだった。でも誰かに聞き耳を立てられているかもしれないと思わずにはいられない。胸の鼓動がたったいま自分の仕事を思い出したかのように跳ねていた。
「先輩に彼氏がいるなら、今は諦めます。諦めるというか、一時手を引くというか、戦略的撤退です。しばらく待ちます」
「私が彼氏と別れるのを?」と聞くと彼は「待つのは勝手ですよね」と言った。
それは正直に言い過ぎじゃないか。
「先輩、とりあえず連絡先教えてください」と彼が言ってきたときには忙しない心拍数のことも忘れて思わず笑ってしまった。ひょっとして私に彼氏がいるのが嘘だって分かっているんだろうかとさえ思った。
「それ、私を浮気に誘ってない?」
「…そうなりますね」
指摘されて初めて気付いたみたいな返事が返ってきた。
「でも、せっかく再会できたので。連絡先知らないとまた会えなくなりますし、お願いします。チャンスがあったら宮澤先輩を奪えるようにしておきたいので」
物語とは違うんだよ、と思った。私たちはあの夏のベンチに座っていた。あの時と違うのは私たちはもう大学生ということと、私には本当は彼氏はいないということだ。そして恋愛とはそんな頭の中で全部解決できるような、小説もろくに書いたことがない高校生が考える物語のように単純なものじゃなく、もっと複雑にいろんな要素が絡み合ってできている。
でも一方で、恋人がいるって言われても想いを直球で伝えてくる彼のことを考えると、付き合ったらどうなるとか、関係を維持するにはどうとか、何が自分にとって最適とか、そんなことをいちいち考えている自分が馬鹿みたいに思えた。そして彼氏がいると嘘をついてしまったことを申し訳なく思った。
恋愛が複雑っていうのは間違っていないと思うけれど、複雑にしているのは他でもない私だった。こうやって頭の中で何もかも自己完結させてしまうのはもったいないんじゃないだろうか。せっかく自分に想いを寄せてくれる人がいて、一緒にいて楽しさを感じているのだから、とりあえず関係を始めてみればいい。ダメだったらそれはそれでいい、またそのとき考えればいいじゃないかと思った。
あの日思い浮かばなかった物語の続きを、私は自分で考えないといけない。でもこれは物語じゃない。私の人生だ。だったら特別な面白さなんていらないだろう。誰かが私の人生を覗き見た時に一言「つまんないですね」と言われようが、私自身が満足できていればそれで構わない。大衆ウケする人生である必要なんてどこにもない。ありきたりなものでいい、どこにでもあるものでも私にとって美しければそれでいいんだ、と気持ちが吹っ切れたのを感じた。
もうテーブルにはケーキの食べ終えたお皿と、空になったコーヒーカップしかなかった。
「後輩くん、この後何か予定あるの?」
「特にないです、けど」
「じゃあ、やっぱりこのまま映画でも観に行こう」と言って私は席を立った。
彼は突然の展開に呆気にとられた様子だった。鳩が豆鉄砲を喰らったような表情っていうのはこんな感じか、と思った。「今映画って言ったよな、聞き間違いじゃないよな」と考えているのがバレバレな瞬きと沈黙が数秒あって、その後彼も置いてかれまいと腰を上げた。
奢ってあげようと思ったけど彼が割り勘と言ってきかないので、最終的に私が折れる形で会計を済ませて外に出た。二度目の退店だった。
「あの、僕が言うのもあれですけど、危なくないですか? 彼氏さんにもし遭遇したら修羅場ですよ、この状況だと」
「カフェ入ってるんだし、今更でしょう」
言いながら私は、浮気ってこんな感じなんだろうなぁと思った。世の中に蔓延るそれは自分とは無縁の存在で、軽蔑すべきものだと思っていたけれど、案外身近にあるのかもしれない。
「それはそうですけど…」
「もう別れようと思ってたから、いいよ。気にしないで」と言うと彼はまた驚いた様子で「先に言ってくださいよそれ」と少し怒ったように、けれども嬉しそうに言った。
*
「私が卒業してからも、私のこと好きだったの?」
高校生の頃と同じように、彼女は数歩先を歩きながら振り返ることはせずに聞いてきた。
「もう会うことはないと思っていたし振られたので、自分の中で気持ちを切り替えたつもりでしたけど」
「けど?」
「時々、未練がましく思い出してました」
「馬鹿だなぁ、後輩くん。卒業してどっか遠くに行った先輩なんてさっさと忘れて新しい恋人作っちゃえばよかったのに」
「初めて馬鹿でよかったって思いましたよ」
そう言うと彼女は黙って歩いたけれど、僕には彼女がどんな表情しているのか顔を見なくてもわかった。彼女のはにかむ表情を初めて見たあの時から、瞼の裏に焼きついたそれはまるで呪いのように、ずっと僕の記憶に居座り続けていた。
歩道の凹凸にできた小さな水たまりを避けるように、大股になったり小股になったりしながら僕らは駅前の映画館に向かっていた。
雨はもう止んでいた。