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排水口から

作者: 雨宮 巴
掲載日:2025/08/14

最初の音は台所の排水口だった。

水は落ちていないのに、夜だけ舌打ちに似た合図が続く。

縁を指でなぞると、冷えが骨に上がった。


「鳴らさないで」


低い声が底から上がった。

私は蛇口を閉め直した。

向かいの配管工が廊下で会釈する。

「雨で配管が膨れますからね」

長靴はよく拭かれ、鍵束が重く揺れた。


掲示板に紙が増える。

屋上には上がらないこと。

貯水槽の点検は専門に任せること。

鍵の管理は配管工に一任。

文字は乾き、壁は湿っていた。


夜の声は途切れない。

「右のバルブを見て」

床下収納を開けると、古い配管が並んでいた。

右のハンドルに青い塗料が乾き残る。

「今夜、半分戻して。上で音が出る」


私は迷い、やがて従った。

空気が吸い込まれる音。

天井の向こうで金属が鳴る。

階段を駆け上がる足音。

屋上扉の開閉。

「危ないですよ」と配管工の声。

私は照明を消し、雨の音を聞いた。


翌夜、声は言い方を変えた。

「今度は左を閉めて」

また上で音が起き、短い叫びが雨に紛れた。

台所の床に濡れた手形が一つ残る。

幼い指の幅で、蛇口の方向を指していた。


三夜目、ポストに古い切り抜きが入っていた。

雨の日付の行方不明記事。

小さく笑う子の写真。

廊下で配管工が言う。

「古い記事は気にしない方がいい」

視線は私を越え、部屋の暗がりを撫でた。


四夜目、声が沈む。

「今夜、開ける」

問いかける前に窓が震え、上で蓋の当たる音がした。

私は玄関へ走る。

扉の前で水が薄い膜になり、足首にまとわりつく。

引き返そうとすると、膜は弱く前へ押した。


階段は滑り、踊り場に水の筋がのびていた。

筋は扉の前で曲がり、私はその通りに進む。

屋上の扉は半分開き、貯水槽の蓋が転がっている。

鉄の臭いが立ち、配管工が縁に身を伏せて腕を突っ込んでいた。

「落ちたゴミを拾うだけです」


覗くと暗い。

それでも見えた。

底から浮いてくる小さな笛、剥げた名札、髪留め。

指が泥をかき混ぜ、それらを押し戻す。

私は息を止めた。


「鍵は?」


背で幼い声がした。

振り向けない。

振り向いたら何かが崩れる。

代わりに冷たい手が背に触れ、支えた。

配管工の足が滑り、苔が剥がれ、膝が縁を打つ。

その瞬間、水が渦を作り、底の物が一斉に浮いた。

誰かの窓が開き、通報の声が重なる。

配管工の顔は笑えず、雨だけが笑った。


階段を下りて台所へ戻ると、排水口が深く息をついた。

サイレンが近づき、廊下が白くなる。

男は連れて行かれ、貯水槽から出た物の数が報じられた。

私は鏡の前に立つ。

曇りは拭いても薄く残り、首筋の水滴はいつも乾かない。

爪の間は白く、指の腹がふやけている。

呼吸はあるのに、すれ違う人は私を見ない。


掲示板に新しい紙が貼られた。

三年前の行方不明事件、関連捜査へ。

端に重ねられた小さな写真の肩の線が自分に似ていた。

青い輪のついた鍵束を、私は確かに持っていたはずだ。

いつまで。


「気づいたね」


排水口の声が笑った。

私は椅子に座り、手を握る。

冷えは内側から来ていた。

「私は——」

言葉は途切れ、声が続く。

「ここで奪われた人。わたしも、あなたも。水は覚えている」


窓の外で、母親に手を引かれた男の子が笛を握っていた。

笛は鳴らない。

男の子は私を見て、小さく頷く。

母親は気づかない。

頷きは一度だけだった。


「どうすればいい」

私は排水口に囁く。

「もう鳴らしていい」

蛇口をひねると、細い水が落ちた。

音は静かで、底に届いた。

私は頷いた。

頷きは水面に触れる指の動きに似ていた。

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