排水口から
最初の音は台所の排水口だった。
水は落ちていないのに、夜だけ舌打ちに似た合図が続く。
縁を指でなぞると、冷えが骨に上がった。
「鳴らさないで」
低い声が底から上がった。
私は蛇口を閉め直した。
向かいの配管工が廊下で会釈する。
「雨で配管が膨れますからね」
長靴はよく拭かれ、鍵束が重く揺れた。
掲示板に紙が増える。
屋上には上がらないこと。
貯水槽の点検は専門に任せること。
鍵の管理は配管工に一任。
文字は乾き、壁は湿っていた。
夜の声は途切れない。
「右のバルブを見て」
床下収納を開けると、古い配管が並んでいた。
右のハンドルに青い塗料が乾き残る。
「今夜、半分戻して。上で音が出る」
私は迷い、やがて従った。
空気が吸い込まれる音。
天井の向こうで金属が鳴る。
階段を駆け上がる足音。
屋上扉の開閉。
「危ないですよ」と配管工の声。
私は照明を消し、雨の音を聞いた。
翌夜、声は言い方を変えた。
「今度は左を閉めて」
また上で音が起き、短い叫びが雨に紛れた。
台所の床に濡れた手形が一つ残る。
幼い指の幅で、蛇口の方向を指していた。
三夜目、ポストに古い切り抜きが入っていた。
雨の日付の行方不明記事。
小さく笑う子の写真。
廊下で配管工が言う。
「古い記事は気にしない方がいい」
視線は私を越え、部屋の暗がりを撫でた。
四夜目、声が沈む。
「今夜、開ける」
問いかける前に窓が震え、上で蓋の当たる音がした。
私は玄関へ走る。
扉の前で水が薄い膜になり、足首にまとわりつく。
引き返そうとすると、膜は弱く前へ押した。
階段は滑り、踊り場に水の筋がのびていた。
筋は扉の前で曲がり、私はその通りに進む。
屋上の扉は半分開き、貯水槽の蓋が転がっている。
鉄の臭いが立ち、配管工が縁に身を伏せて腕を突っ込んでいた。
「落ちたゴミを拾うだけです」
覗くと暗い。
それでも見えた。
底から浮いてくる小さな笛、剥げた名札、髪留め。
指が泥をかき混ぜ、それらを押し戻す。
私は息を止めた。
「鍵は?」
背で幼い声がした。
振り向けない。
振り向いたら何かが崩れる。
代わりに冷たい手が背に触れ、支えた。
配管工の足が滑り、苔が剥がれ、膝が縁を打つ。
その瞬間、水が渦を作り、底の物が一斉に浮いた。
誰かの窓が開き、通報の声が重なる。
配管工の顔は笑えず、雨だけが笑った。
階段を下りて台所へ戻ると、排水口が深く息をついた。
サイレンが近づき、廊下が白くなる。
男は連れて行かれ、貯水槽から出た物の数が報じられた。
私は鏡の前に立つ。
曇りは拭いても薄く残り、首筋の水滴はいつも乾かない。
爪の間は白く、指の腹がふやけている。
呼吸はあるのに、すれ違う人は私を見ない。
掲示板に新しい紙が貼られた。
三年前の行方不明事件、関連捜査へ。
端に重ねられた小さな写真の肩の線が自分に似ていた。
青い輪のついた鍵束を、私は確かに持っていたはずだ。
いつまで。
「気づいたね」
排水口の声が笑った。
私は椅子に座り、手を握る。
冷えは内側から来ていた。
「私は——」
言葉は途切れ、声が続く。
「ここで奪われた人。わたしも、あなたも。水は覚えている」
窓の外で、母親に手を引かれた男の子が笛を握っていた。
笛は鳴らない。
男の子は私を見て、小さく頷く。
母親は気づかない。
頷きは一度だけだった。
「どうすればいい」
私は排水口に囁く。
「もう鳴らしていい」
蛇口をひねると、細い水が落ちた。
音は静かで、底に届いた。
私は頷いた。
頷きは水面に触れる指の動きに似ていた。




