その水は飲んではいけない
この世界も食べ物は食べてはいけない。特に水が一番危険だ。
真っ白な壁に、時々揺れるピンク色のカーテン。いくら叫んで助けを求めても、誰も助けには来てくれない。お腹には太いベルトが巻かれており、両手首、両足首にも拘束具がつけられており、私は不自然に柔らかいベッドの上で身をよじることしか出来ない。
異世界の食べ物を食べてはいけないという話は様々な神話や民話に見られている。日本の神話で言えば、イザナギが死んだ妻であるイザナミを黄泉の国へ迎えに行く。しかし、イザナミは既に黄泉の国の食べ物を食べたため戻れないと語られている。黄泉の食べ物を食べると、生者の世界には戻れなくなる。
私がいるこの世界でも同じだ。だからこそ、今日も運ばれてくる食事を拒む。そして、本能が告げるのだ。決して水だけは口にしてはいけないと。この水を飲めば、決して自分の世界には戻れないし、自分は死ぬだろう。
眼鏡をかけた男が「お願いだから」と匙を向ける。私は決して食べてなるものかと、縛られたこの身体でも動かせる頭を使い、頭突きすることで食器ごと食べ物を床に落としてやった。
「なんてことをするんだ!!」
温厚に見えた男が大声をあげる。ガシッと私の両頬を大きい手で掴み、意地でも匙を口の中に入れてこようとする。匙を押し込まれたとしても、決して飲み込んではならない。頭を必死に横に振り、男の拘束から逃れる。口の中の異物はよだれとともに全て、布団の上へ落ちていく。
その日から、私のもとに食事が運ばれてくることはなくなった。
この世界の住人はどんな手段を使っても私に水を飲ませたいらしい。
叫び、声は、すでに、枯れた。
点滴だ。私を黄泉の国に閉じ込めるための水が私の中に入ってくる。いくら、叫んでも変わらない。点滴の中身が揺れるたび、容量が減っているのを見るたび、全身を支配するような恐怖心が巡る。そうだ、中に入ってくる水を全て出してしまえばいい。少しでも恐怖に満ちた水を体内から出すために、口から必死によだれを出す。
「おとう……さん、たすけて」
掠れた声に反応してくれるのは不気味に居座る眼鏡の男だ。なんだ、私が恐れおののくのが、助けを求めるのが、水で支配されていくのが、その全てが愉快だとでもいうのか。
最初は何だったっけ。ボロボロの思考の中ではうまく思い出すことが出来ない。
身体をベッドへ縛り続けていた拘束具は、既に外されている。それは、私が既に指一本も動かすことが出来なくなったから。もう視界もぼやけて、白とピンクしか見えない。私はあの水によって既にこの世のものではなくなる。
水は飲んではいけない。もし、この世界に来る人が他にいるなら伝えなければならない。
そのニュースは大々的に放映され、ネットも含めて、衝撃が走った。しかし、日本中を騒がせたその事件は、悲しくも数週間で人々の記憶から薄れていくことになる。
「最初は、ただの風邪だったんです……」
眼鏡をずらして涙を拭く男はそう語る。国内感染最後の動物からの発症は1957年ぶりです、とアナウンサーは淡々と狂犬病に関わる原稿を読み上げていくのみであった。