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少々のバトル表現が入ります。
日差しが明るく爽やかさすら感じさせていた森は山の中腹に近づくにつれ、その様相を一変させた。
最初の異変は空気からだった。
軽やかな風は鳴りを潜め、うっすらと重苦しい霧が立ち込め始める。
先ほどまで聞こえていたはずの鳥の声は消え、霧がゆれると同時に木々がかさかさと鳴る。
日の光は遮られ薄暗い。
歩いているだけで一気に変化していく周囲の様子に、御弦は不安そうに表情を曇らせた。
「……っこれ」
「御弦、これが瘴気です。私達を中心に結界を張っていますので、害はありません。しかし、この瘴気は空気や土、水を腐らせ人や動物の正気を奪います。
正常な状態を逸脱させ、正気を失ったもの達は凶暴化し人を襲います。
一度正気を失ったら、元に戻すことは出来ません。
しかし、ただ一つだけ彼等を元に戻す方法があります。
それが御弦、あなたです」
手に持っているブレスレット型の魔道具を光らせながら、上位神官であるウィリムは、滔々と御弦に語る。
それは御弦が召喚されてから一番初めに教えられたことで、御弦が呼ばれた意味だ。
「……はい。瘴気は世界中のいたるところにあって、それをどうにか出来るのは浄化の聖女である私、一人だけ……」
初めて見る景色。
重苦しい空気に、枯れた木々。どこからともなく漂ってくる腐臭。
その全てが物慣れぬ異世界の少女には恐ろしかった。
けれども、成し遂げなければならない。
何故ならば御弦は、たった一人の聖女だからだ。
御弦は自分に言い聞かせる。
これは、私にしか出来ない使命。
大丈夫。絶対に出来る。
青白くなった顔色。
こまめに休憩を挟んでも、御弦と彼等では基礎体力が違う。
気丈にふるまってはいるものの、足は重だるくなってきている。
けれども御弦は使命を背負い前を向く。
震える少女の頼もしい姿に、アランもウィリムも、ブロージェスもキールも口元を緩め、この少女を守るのだという気持ちを一層強くした。
その時、前方を歩んでいたブロージェスが反応し、腰の両手剣を素早く抜き取る。
「キール」
「っ対物理障壁展開!」
キールが両手から浮かせた魔術陣で障壁を展開するのと、その障壁へ大きな何かが物凄い勢いで突撃したのはほぼ同時だった。
物理展開したが故に思い衝撃音が大きく響き渡る。
「ッ!! キャアアアァァアッッ!!!」
弾き飛ばされたのは大きな狼だった。
大きな音の割にダメージはそんなに無かったのか、上体をのけ反らせ土に転がった狼は、ゆっくりとした動作で起きあがる。
毛並みに艶は無くボロボロで、半開きになった口元からは荒い息がしきりに漏れ、ぼたぼたと涎が垂れる様はただ恐ろしかった。
真っ黒な見目の中、両の瞳だけが炯々と光り、獣にまったくの理性が無いことが良く解る。
「グルルルルルル」
地響きのような重低音で狼はこちらを威嚇する。
「……っ!」
見たことも無い大きさの肉食動物から向けられた敵意に、御弦は身を竦めた。
「大丈夫か? 御弦!」
「ア、アラン王子……っ」
腰を抜かし座り込んでまった御弦の元にアランが駆け寄る。
「御弦、大丈夫ですよ。落ち着いて」
御弦の横で肩を抱き、宥めてくれていたウィリムが言う。
「ウィ、ウィリム様、あの狼は……?」
一体何なのか。
どうしてあのようにこちらに向かって来るのか。
聞きたいことが上手く言葉にならない。
「御弦。あれが魔獣だ」
「まじゅう……」
その単語は知っている。
この世界に来て、何度も何度も聞いた言葉だ。
瘴気に晒されて変質してしまい、狂暴化した動物達。
魔獣になると総じて毛色が黒くなり、赤く変色した瞳からは理性が消えるという。
そうなってしまったら元に戻ることも出来ず、本能のままに暴れまわるので、狩るしか無い。
「あれが……、魔獣……」
御弦が浄化しなければならないものの一つ。
「大丈夫だ。御弦」
再度、アランが言う。
「あの獣はキールの障壁とウィリム殿の結界で、この中には手出し出来ない。それにブロージェスは強い。すぐに仕留める。
幸い魔獣化したのはあの一匹のみのようだ。群れていないのならば特に時間は掛からないだろう」
狼の魔獣はすごい勢いで障壁から弾かれていたにも関わらず、ダメージを負っている様子は見受けらない。
城での訓練中、キールやウィリム、ブロージェス達の強さは知っている。けれど、あんなに大きな獣を三人で仕留めるだなんて、本気で言っているのだろうか。
「で、でも……っ!」
「ほら、ご覧。ブロージェスが後ろに回り魔獣の足の筋を断った。片足が使えなくなった奴の機動力は恐るるに足らない」
促されるように視線を上げた先で、アランの言うように獣の後ろをとったブロージェスが剣で狼の後ろ脚を薙いだ。
瞬間、どす黒い飛沫が彼の獣の後ろ脚から迸る。
見慣れない色ながらも、あれは明らかに血だ。
「……っぃ」
「ギャォオオオッ!! ガァアッ!」
悲鳴を上げかけた御弦の声等些細というように、獣の悲鳴に掻き消された。
傷つけられた後ろ脚に怒りの声を上げ振り向いた狼は、敵に噛みつかんと大きく口を開けるが。
「遅ぇよ」
すでに剣を振り上げていたブロージェスに身体を切り付けられた。
咄嗟に頭の位置を変えたため、致命傷は免れたが胴体を大きく傷つけられ、動くこともままならない。
「……っすごい……」
まさに一瞬の出来事だった。
御弦が恐怖を感じたのは一瞬で、後はあまりにも鮮やかに事が終わってしまったように感じる。
「さぁ、御弦。あなたの出番です」
座り込んでいた御弦の肩を抱いていたウィリムが彼女を抱え起こす。
「御弦。瘴気に犯され変質してしまった魔獣は死してなお瘴気を撒き散らす。我々、只人は散らされた瘴気により汚染されていく空気に……それによって増える魔獣に怯えることしか出来ない。
御弦。我らが希望。浄化の聖女よ。どうかその身の力をもって瘴気を消し去り、人々に安寧をもたらして欲しい」
立ち上がった御弦はアランに手を引かれ、血に倒れ伏し、荒い息を吐いている魔獣の前へ連れ出される。
魔獣は胴を地に着け、どす黒い血を流しながらも口からは涎を垂らし、瞳には獰猛な光が宿っている。
「……ひぃ……!」
あまりにもグロテスクな光景に、足は竦み腰が引けるがそれを安心させるように肩に、手に、触れる温かい体温に力がかかる。
その力強さは確かに御弦を鼓舞した。
「御弦。さぁ、あの哀れな獣に浄化の光を」
あまりにも現実味の無い現実に、手の震えが止まらない。
生臭い息が鼻を突き、殺し、殺されかけた生き物が目の前で藻掻いている。
はぁはぁと呼吸の感覚が短くなってきた。
このまま気絶できたらどれだけ良いか。
無意識に助けを求めた目線が、こちらを見ていた濃紺の瞳とぶつかった。
エルグラント=ノートン。
彼が見ている。
彼が、私を見ている。
無様な所なんて見せられない。
「わたしは……、わ、私は……、浄化の聖女」
未だに震える両手を突き出す。
瘴気に犯された獣に向けて。
怯え竦む身の内の力を、必死で練り上げる。
私は、浄化の聖女。
胴から腕を伝い、手の平に向けて。
「“光よ”」
表れた真っ白な光は輝きながら魔獣を包み、それに留まらず彼女を中心にどんどんと広がって行く。
「“等しく美しくあるように”」
瞬きの間で光は消えた。
消えたのは光だけでは無く、獣を含めて見渡せる全ての範囲の瘴気も一緒に消え去っていた。
あれだけ鼻に突いていた臭気が消えた。
瘴気によって淀んでいた空気も目に見えて清浄になっているのがわかる。
「……す……っげぇ……」
人の手の届かない深い森の中のように澄み切った空気を、深く吸った後にキールが思わずと言ったように呟いた。
この奇跡を行った当人は、今度は身の内から放出しすぎた力の喪失によって、震えていた足から、とうとう力が抜けた。
「……っと」
「ミツルっ!」
ウィリムが支え、アランが心配そうに覗き込んで来る。
「ミツル!」
「大丈夫!? ミツルっ!」
驚いたブロージェスが慌てたように声を上げ、離れていたキールが大急ぎで駆け付ける。
「……大丈夫か?」
そうして、心振るわせる落ち着いた声が近づいて。
「……ふふ」
ああ。変な所に来て、変な山に行かされて、変な使命を渡されて。
不安なことの方が多いし、正直今だって、家に帰りたい気持ちは強いけれど。
私、何とかやっていけそうな気がする。
深く深く息を吐いて、日の差し込んで来た空を見上げながら、御弦は目を細めた。




