曹操の誤算:伍
西暦218年・7月 (建安23年)
葭萌関。 漢中より曹操が居なくなった。
現在では、夏侯淵・張郃・楊修らが漢中を守る。 漢中を固く閉ざし、誰も寄せ付けてない。 また敵が来ても討って出ようとはしなかった。 それを見て葭萌関を守備する魏延・馬超・馬岱・黄忠・厳顔らが蜀軍10万の兵を率いて葭萌関より進発し、すぐに漢中を包囲する。
蜀軍に包囲された様子を城内から見る魏の武将たち。
「ぬぬぬ、早速来たか…」
「はい、蜀軍10万の大軍に魏延・馬超・馬岱・黄忠・厳顔といった蜀の猛将たちにございます。 特に馬超・馬岱は丞相に一族を殺された恨みがございます。 死に物狂いで攻めてきましょう。」
「………」
「ああ、判っている。
我々はただひたすら籠城するしかないのだ。」
「はい、では要所の守備の点検をしてきましょう。」
「ふむ、任せたぞ」
「「はっ」」
すぐに張郃と楊修が漢中の要所を確認して、守備を強化する。 漢中を守る兵の数は、約8000人。 あとの全軍は曹操が持っていった。 8000人もいれば漢中は守れると思った曹操が「守備兵が少なすぎる」と言う司馬懿の忠告を無視して、8000人だけ残して、あとの全軍は曹操と共に許昌へ戻った。
蜀軍10万の兵が漢中を包囲して、連日攻撃を仕掛ける。 しかし、漢中を守備する城兵もよく城壁を守り、蜀軍を城壁に近づかせない。 それでも数で圧倒する蜀軍がどんどんと城壁に近づく。 蜀軍は進攻の手を緩めず、毎日のように城攻めを行う。 漢中を守る魏兵は約8000人。 それに対して、漢中を攻める蜀軍は10万。 漢中もそれほどの要害ではなく、にわか仕込みの要所の守備で、なんとかもってる程度。 ただ蜀軍は闇雲に攻めている訳ではない。
城攻めをして数十日後の夜。 この日も魏延や馬超らが魏軍の夜襲に備えて、見回りと陣の守備の強化をしている中、法正の案内で黄忠と厳顔が漢中付近にある某所の高い場所に来ていた。 ここから城門の上の様子がよく見られる。
「ご覧なさい。
ここから城門の上の様子がよく判ります。」
「おお、本当じゃ。 城兵がよく見れるわい。」
「ふむ、連日の進攻で疲れておるな。」
「はい、そのため深夜になると夏侯淵が自ら来て、城兵に叱咤激励するのです。 士気を高めるために…」
「ほーう、なるほどのう」
「やっぱり、籠城戦も大変じゃな」
「はい、日中は城の奥に隠れて出て来ません。 深夜のこの時間だけ、城兵を励まし士気を上げるため、わざわざこうして来ているのです。」
「夏侯淵も大変じゃな」
「ふふふ、楽にしてやりたいものじゃな」
「はい、そこで深夜のこの時間だけ出てくる夏侯淵をここから黄忠殿が弓矢で射殺させることは可能ですか?」
「「!?」」
「…どうですか?」
「なるほどのう。 出来なくもない。 だが…成功する保証もない。」
「意外に慎重ですな」
「だが…やってみる価値はある。」
「早速…魏延殿に進言してみよう。」
法正は漢中の城門の上部がよく見られる高い場所を探していた。 ここから弓矢に定評のある黄忠が深夜のある時間帯だけ、城門上部に現れる夏侯淵の頭を狙い撃ちして射殺させる計略である。 すぐにこの計を魏延や馬超らに進言する。
「なるほど、それは面白い計ですな」
「しかし、かなり遠い場所から狙い撃ちなど成功しますか?」
「黄忠殿は弓矢も優れている。 遠くのものまで狙い撃てて正確無比。 あの関羽殿も絶賛していた。 それにもし仮に狙いが外れても敵は動揺するだろう。 その隙に一気に城を攻め落とす。」
「なるほど、確かにそれなら…」
「よし、決まりだな」
「ふむ、任せておけ!」
「それでは策の細部を詰めていこう。」
「「「おお!」」」
漢中の城攻めに光明が見えてきた蜀の武将たちが夜遅くまで決行日を含めた作戦の内容を詰めていく。 決行日には普段と違った事をするつもりだ。
漢中。 今日は何故か朝から蜀軍が攻めてこない。 連日の蜀軍の城攻めが嘘のように攻めてこない。 昼になっても夕方になっても攻めてこない。 今日は城攻めお休みなのか、遂に夜になってしまった。 さすがに夏侯淵らもこれには不思議に思う。
「今日は攻めてこないな?」
「おそらく連日の城攻めで蜀軍も疲れているのではありませんか?」
「………」
「今夜あたり夜襲をかけてみますか?」
「夜襲……か?」
「はい、明日になればまた城攻めを開始するでしょう。 今夜のうちに蜀軍の兵力を減少させた方が籠城戦には有利です。」
「………」
「いかがですか?」
「どう思う軍師?」
「はい、今日…城攻めをしなかったのは…何かの策略があると思われます。 今夜もしっかりと城の守りに専念した方がいいと思います。」
「その策略とは…?」
「解りません。 兵法にもありませんから…」
「う~む、どうするか?」
「では…私が元気な兵を連れて夜襲をかけます。 頃合いを見て城を出ますので、夏侯淵殿は城の守りを固めてください。 しばらくしてから、また城に戻ります。」
「ふむ、いいだろう。
ならば3000騎を連れて夜襲をかけろ。」
「………」
「はっ」
こうして張郃は城外で陣取る蜀軍に夜襲をかける。 しかし、何故か軍師の楊修は腑に落ちていない様子。 無言ながらも何かの策略なのではないか、と思っていた。
実は今回は深夜での城攻めなので、日中は兵を休ませていた。 勿論、敵が籠城を徹底してると見越しての計であり、敵も討って出るなら夜襲だと考えられた計である。
深夜の頃合いを見て、副将の張郃が魏兵3000騎を連れて、疲れているはずの蜀軍の陣へ真っ先に走る。 勿論、城内から出る時もドラや太鼓を鳴らさず、そのまま無言で出ていく。 すぐに敵の本陣に到着。 それはまるで、みながぐっすり眠ってるみたいに静かで、ほとんど無人みたいな本陣だ。
「ふふふ、やはり静かだな。
連日の猛攻で疲れていると見える。 このまま本陣を一気に攻め立てる。
よし、行け!」
そこで魏兵3000騎が一気に敵の本陣になだれ込む。 しばらく敵の本陣を攻撃するけど、ある疑問が出てきた。 敵の姿がいない? 一兵も敵の姿がいないようで、さすがの張郃も不思議そうな顔をする。
「おかしい……どういうことだ?
何故、敵がいない?」
「やはり来たか…張郃…」
「!? き…貴様は魏延!?」
「かかれ!」
「しまった! やはり罠だったか!」
イキナリ張郃の背後から声がして、後ろを振り向いて見ると、そこに蜀の武将・魏延と蜀軍3万の兵士が張郃の背後にいた。 魏延と3万の蜀軍が背後から張郃軍に襲いかかる。 3万と3000では話にならず、あっという間に張郃軍は包囲される。
「ぬぬぬ、血路を開いて城まで戻るのだ!」
「逃がすな! 張郃を捕らえろ!」
必死になって逃げ道を探す張郃。
しかし、完全に逃げ道を失い城に戻ることが不可能。 やがて兵も失い、仕方なく張郃は単騎で長安まで落ち延びる。
「ちっ、逃げたか…」
「逃げられてしまいましたね。」
「まぁよい。 すぐに馬超軍と合流する」
「はっ、判りました。」
魏延軍は張郃が長安へ撤退するのを見て、すぐに馬超・馬岱軍と合流する。
一方の漢中から離れた高い場所の上に黄忠・厳顔・法正がいて、夏侯淵が城門の上部に出てくるのを待ってた。 いつでも出てきていい様に弓をつがえて待つ。 すると…今夜も城兵を鼓舞し士気を高めるため、城門の上部に現れた。
「出てきました!」
「おお!」
「よし!」
夏侯淵が出てきた、法正がそう言うと、黄忠・厳顔が目標である夏侯淵を確認。 すぐに夏侯淵めがけて矢を射る。
「ぐがっ!?」
「うがっ!?」
黄忠の放った矢が夏侯淵の頭部に突き刺さり、そのまま仰向けに倒れる。 厳顔の放った矢が楊修の首筋に突き刺さり、そのままうつ伏せに倒れる。
「よし、命中じゃ!」
「すぐに合図を送れ!」
「はっ!」
黄忠・厳顔の二人の矢が見事に夏侯淵・楊修の二人に一発命中。 すぐに兵卒に合図を送るよう指示する。 大きな赤い旗を振って馬超らに合図を送る。 そこに魏延軍が戻る。
「おお! 合図だ!」
「よし、かかれ!」
「おお、合図か……さすがは老将、少しも腕は衰えていないようだな。」
「おお! 魏延将軍! 張郃は?」
「残念ながら長安へ落ち延びた」
「そうですか、ですが…こちらは漢中が落ちそうですぞ!」
「敵将は黄忠・厳顔将軍に討たれました!」
「ふむ、そのまま城壁を突破して、漢中を攻め落とす!」
魏延・馬超・馬岱軍が一気に漢中の城壁に迫る。 張郃が長安へ逃亡、夏侯淵・楊修は黄忠・厳顔に討たれ、こんな夜中まで城攻めされては、さすがの城兵も戦う気力も士気もなく、虚しく漢中が蜀軍によって陥落する。 魏延たちが漢中を攻め落とすと、すぐに平定して、領民の安定・安全・安心を計る。 また漢中の守備固めも平行して行う。
「うまくいきましたな…魏延将軍」
「ようやく漢中が我ら蜀のものになったぞい!」
「ああ、なんとか漢中を落とせたな」
「この事をすぐに殿にご報告しろ!」
「はっ、かしこまりました!」
こうして漢中平定の報告を成都で南中進攻の準備をする劉備の下へ伝令が走る。 実に漢中進攻から漢中平定までに、約3ヶ月近くの時間を有した。 だが…これで漢中は蜀の領土となった。 荊州北部を呉に奪われ、漢中を蜀に奪われ、魏の領土がまた少し減った。
西暦218年・10月 (建安23年)
許昌。 曹操が漢中より戻り、またすぐに南陽へ兵を向ける準備をする。 南陽は曹仁が守備しており、樊城へ攻撃を仕掛けるも陸遜に阻まれ、思うような城攻めができていない。 曹操も陸遜という男に興味を持ち、この眼で確かめるためにも南陽へ魏軍30万の兵を進める。 この時、曹操はまだ漢中陥落を知らない。
曹操が南陽へ兵を進める中、司馬懿が諫言する。
「殿。 南陽へ着いても、すぐに樊城へ兵を向けることは反対でございます。 まずは敵の出方を窺いながら、こちらも動いた方がよろしいかと思われます。」
「ほーう、そなたらしくないな。
漢中にいた時は、すぐにでも葭萌関に攻めろと言ってたではないか?」
「葭萌関の時は、魏延・馬超ら猛将揃いで短期決戦が望ましいと思ったからです。 しかし、今度の敵は…あの陸遜…。 彼を甘く見ると痛い目に遭うでしょう。」
「そんなに凄い男なのか?」
「はっ、非常に危険な男と思われます。」
「ほーう…」
曹操が司馬懿の忠告を聞きながら南陽へ到着。 魏軍30万の軍勢が南陽一帯に陣を敷く。 曹操は早速、曹仁を呼びつけ事情を説明させる。
「なんと、あの玄徳があっさりと荊州南部を手放したか?」
「はっ、そのお陰で呉は大軍率いて易々と荊州南部を平定。 その勢いのまま、一気に襄陽へ進攻してきました。 我々は当時、将兵を慰労するため宴会を開催しておりました。 その夜明けと共に城のあちこちから煙が上がり、最初は関羽が攻めてきたと思いました。」
「ふむ、それで?」
「はっ、実は城の外で煙が上がっていました。 しかし、我々は気が動転して、関羽が襲撃したと思い、北門から脱出しようとしたところ、北門の外で陸遜が10万の兵を率いて待ち構えていたのです。」
「…それで?」
「はっ、我々はなんとか樊城へ落ち延びたのですが、すぐに陸遜が樊城も包囲しました。 最初は全員討ち死するつもりでしたが、楽進たちが囮となって、私を南陽まで逃がしてくれたのです。 報告では、楽進たちはまだ生きて地下牢に繋がれているそうです。」
「……で?」
「その後で…私は南陽で10万の兵を編成して、再び樊城へ進攻したのですが、あの陸遜の牙城を崩すことができず、イタズラに時だけが過ぎてしまったのです。」
「「「………」」」
「スゲエ!」
曹仁の説明を聞いた曹操の顔がみるみるうちに青ざめた。 司馬懿から陸遜の危険度は聞いていたけど、曹仁はまるで…あの諸葛亮孔明と戦っているのではないかと、思わせるほどの鮮やかで手際の良い戦を仕掛けてる。
「やはり陸遜…。 ヤる男だと思っていたわ」
「な…なるほど、確かに勝敗は兵家の常。 だが…これは異常だ。」
「い…異常…ですか…?」
「…新野の時も赤壁の時も、余は孔明の火計によってヤられている。 その陸遜も孔明同様に火計の天才なのか?」
「「「………」」」
「…スゲエ!」
「まさか…呉にこのような人材がいたとは…。 あの周瑜が病死して、もはや呉に計略なし…と思っていたが、これは人材を用いることを得意とする…余の誤算だ…!」
曹操は司馬懿・曹仁らからの話を聞いて、ますます無名であったはずの陸遜の恐ろしさを知ることになる。
【注意事項】
※俗に言う『定軍山の戦い』であるが、蜀軍は葭萌関から一気に漢中へ攻めたため、定軍山は戦場にならない。
※夜間での城攻めは本来あり得ない行為。
※魏軍の兵力が実際より少なくなる。 実際に八千程度では城を守るのが難しい。