陸遜の火計:伍
西暦221年・3月 (黄初1年)
襄陽。 荊州の主要都市。 現在は呉の領土。 ここに陸遜大都督と10万の呉兵が到着。 甘寧・周泰・凌統・韓当ら将軍も陸遜に同行しており、襄陽に入城。 襄陽に入ると早速、樊城へ斥候を送る。 その斥候の話では、樊城は黒い霧に覆われており、上空も黒い雲に覆われている。 時折、城の上を雷が走り、なんとも不気味な光景だという。 とても近づきがたい……ものものしい城になってしまった。 その城にいる将兵は皆、正気を失っており、正常ではないとのこと。 あと樊城の上空に、白い布切れがヒラヒラ浮いているだけ。 これは放置できる状況ではない。
そこで陸遜は一計を案じた。
1.まず正気があり、正常で無事な軍民を深夜のうちに秘かに襄陽へ避難させる。
2.同時に深夜のうちに陸遜考案の『炎之薬』を樊城の城内の各所に設置。
3.また甘寧・凌統・周泰の三将軍には、樊城の北門・南門・東門をそれぞれ攻め立てる。
4.城内で火の手が上がったら、敵は西門に殺到するはず。 そこを韓当が伏兵。
5.西門に来た敵を韓当の大軍が討つ。 また逃げ遅れた敵兵も、城内に上がる炎に包まれて焼死。
6.伯酸瑁については現状放置。 また白い布切れが上空に漂うことを確認。
夜明けまでには、決着をつけたい。
陸遜考案の『炎之薬』とは、火を点ける粉を複数種類調合して、その調合した粉を紙の包みの中に入れる。 刻が経つと『炎之薬』の粉が発火して、周囲に燃え広がる仕組み。
陸遜はかつて樊城を攻略している。
樊城の城内の状況も熟知しており、この程度の策は、お手のものだ。 陸遜が早速、将兵に今回の火計を伝える。
「まず甘寧将軍が北門を、周泰将軍が南門を、凌統将軍が東門を、それぞれ攻めてください。」
「「「はっ!」」」
「次に韓当将軍が西門に伏兵し、敵が西門に殺到したら敵を攻撃してください。」
「おう!」
「城内から火の手が上がったら、諸将は樊城から離れて避難してください。」
「「はっ!」」
「はい!」
「おう!」
「これで樊城を攻略できると思います。
皆さん、準備をしてください」
「「はっ!」」
「はい、判りました!」
「おう、行くぜ!」
北門を目指す甘寧将軍・南門を目指す周泰将軍・東門を目指す凌統将軍が、それぞれ2万の軍勢を引き連れ、静かに襄陽を出ていき、そのまま静かに樊城の所定の場所へ到着。 西門を目指す韓当将軍が3万の軍勢を引き連れ、静かに襄陽を出ていき、そのまま静かに樊城の所定の場所へ到着。 あらかじめ陸遜が城内に民の姿をした兵を潜伏させて、それぞれ指定の場所に『炎之薬』を設置する。 それと同時に正常で普通の軍民を襄陽へ避難させる。
夜の樊城。 現在では無法地帯。 伯酸瑁に操られた張任・楊任・于禁ら将軍と、5万の軍勢が樊城を守る。 皆、正気を失っており、瞳の色が赤く光る。 夜も休まず、城兵が城門を守備しており、隙が見当たらない。 正気が失っても油断していない。 それなら正面から城攻めするまでだ。 それが…たとえ深夜でも…ね。
「よし、行くぞ!」
「かかれ!」
「行け!」
甘寧・周泰・凌統の三人が、それぞれ指定の場所から、すぐさま樊城の北門・南門・東門に攻撃を開始する。 また韓当も西門の指定の場所で、静かに伏兵して待ち構える。 樊城の城兵に生気はなく、まるで機械のごとく応戦するのみ。 普通一般的な攻城に対する防衛をするのみで、それ以上の目立った動きは見せない。
「よし、いいぞ!」
「そのまま攻め続けろ!」
「朝までに決着がつくはずだ!」
甘寧たちに、城門を攻め落とすつもりはない。
これはあくまで陽動であり、やがて城内のあちこちから煙が上がる。 そのうち城内のあちこちで火の手も上がり、どんどんと炎上していく。 これにはさすがの城兵も驚いて持ち場を離れて、皆がどんどん逃げていく。 もともと伯酸瑁に操られているだけなので、それほど忠誠心も高くはなく、命を懸けてまで城門を守る義理も義務もない。 誰もいなくなった城門を攻城していた呉兵が難なく開ける。
「よーし、いい感じだ!」
「城兵を追い立てよ!」
「それ行け!」
城内の炎がどんどんと凄くなり、城兵が皆、西門に殺到する。 その時、城兵の誰もが…他の軍民がいないことに気づかない。 もっとも正気を失い、城内に炎が立ち込めていれば、誰もそんなこと気にする余裕もないだろう。 西門に誰もいないので、城門を開けて避難する。 そこに韓当と3万の軍勢が待ち構えており、逃げてきた敵兵を討伐する。
「さすがは陸遜大都督だ。
狙い通り! 行け! 攻めかかれ!」
城兵が慌てて逃げ惑い、伏兵に驚き、背後からは炎が迫ってきている。 これではとても戦えない。 どんどんと韓当の3万の軍勢に討たれていき、逃げ遅れた敵兵も城内の炎に焼かれて焼死。 その中には、あの于禁・楽進・李典・張任・高沛・閻圃・楊任・楊白らの焼死体もあったという。 城内の炎がどんどんと燃え上がり、樊城の上空を漂う白い布切れをも燃やし、黒い霧や黒い雲を吹き飛ばす黒煙と炎が樊城を焼き尽くす。
明朝、決着がつく。
樊城は鎮火。 于禁・楽進・李典・張任・高沛・閻圃・楊任・楊白らと、5万の軍勢は焼死。 あるいは韓当軍に討たれた。 白い布切れも焼失。 現時点で伯酸瑁の存在の有無を確認できない。 否、確認のしようがない。 一方の陸遜側は、ほぼ無傷。 陸遜はすぐに樊城の再建に動く。 とりあえず敵が攻めてきても守れるぐらいの城に戻すつもりだ。 陸遜たちは、しばらく襄陽に留まって様子を見る。
いずれにしてもこの戦、陸遜率いる10万の呉軍の大勝利である。 それと一応、樊城奪還の報告を孫権にする。
西暦221年・6月 (黄初1年)
蜀の主要都市・成都。 蜀の主君・劉備が漢の皇帝・献帝の死と、魏王・曹丕が皇帝を名乗ったことで、朝廷に重臣たちを集めて会議をしていた。 そこに諸葛亮・諸葛均・蔣琬・費禕・馬良・馬謖・糜竺・楊儀・伊籍などが続々と集まる。 最初に論功行賞から始まる。 まず魏延を漢中の太守・偏将軍に任命。 次に五虎大将軍に関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の五人を選出。 それと関羽を衛将軍に、馬超を前将軍に、黄忠を後将軍に、張飛を左将軍に、趙雲を右将軍に、それぞれ任命。 また諸葛亮を丞相に、馬良を司徒に、糜竺を司空に、楊儀を司馬に、それぞれ任命。 その後も家臣・武将たちも、それぞれ何かしらの役職・爵位を賜った。 論功行賞が終わると、いよいよ本題に入る。
漢の皇帝・献帝の死と、魏の文帝を名乗る曹丕の処遇についてである。
献帝が病死したと聞くと、家臣・武将の中からすすり泣く声が聞こえた。 この献帝の死については、蜀でも独自に盛大な葬儀を執り行い、ねんごろに葬る。 また諡号も独自に孝愍皇帝を贈る。 問題は曹丕の皇帝即位である。 魏は献帝から禅譲された訳でもないし、天下統一を果たした訳でもない。 焦りすぎた曹丕がムリヤリ魏の皇帝となった。 かつて皇帝を自称した袁術と同じやり方である。 さすがに呉・蜀は、魏の独断専行の即位を認めておらず、国として抗議を示す。 しかし、魏は聞く耳持たないだろう。 国として認められているのは、魏のみ。 呉と蜀は国として認められておらず、国賊にあたる。 故に正当な国である魏のみが帝国となれる。 こう主張してくるだろう。 しかし、漢は魏を国として認めていない。 おそらくいくら議論しても平行線を辿るだけ。 無意味である。 外交手段がない以上、この先も軍事でしか、自分たちの主張ができないだろう。
ならば、一体どうすればいいと思う。
「遂に魏の曹丕が皇帝を名乗ったか…」
「はい、その通りにございます。」
「かつて袁術も皇帝を名乗り、人望を失い、領土を失い、部下を失い、最期は民によって命を失った。 だが…それは袁術が無能・暴虐で無徳であったため、彼は天に見放されたからだ…」
「はい、その通りにございます。」
「だが…魏は巨大な国となった。 領土はもとより人民の支持もあり、反対する家臣も魏にはなく、目立った混乱や反乱もなかった。 曹操がこれまで築き上げてきたモノが、ようやく―――」
「おそれながら申します。」
「なんだ孔明?」
「献帝の病没は、魏でも一部の者しか知らなかったそうにございます。 その献帝の死を悼むよりも先に魏の皇帝即位は、あまりにも漢王朝を蔑ろにした賊徒の極み。 到底許されることはできませぬ。」
「ふむ、確かにその通りだ」
「しかし、我が君は献帝の葬儀を盛大に行い、献帝の死を悼み、ねんごろに葬りました。 世間から見れば、一体誰が皇帝に相応しいか、よく理解できましょう?」
「むっ!」
「えっ!」
「あっ!」
「おっ!」
「んっ!」
「「「!」」」
ざわざわ、ざわざわ
この諸葛亮の発言に、劉備や関羽・張飛・馬良・糜竺ら家臣たちもざわつく。 今の発言は、明らかに劉備も皇帝に即位するべきだ、という発言に他ならない。 むしろ曹丕よりも劉備の方が皇帝として相応しいと言っているようにも聞こえる。
「余が皇帝に?」
「はい、仮にこのまま蜀の君主のままでいますと、我が蜀は魏の臣下ということになります。 我が君は蜀の牧、一方で魏は帝国となりました。 これではとても対等ではありませぬ。 張り合うにも形から入らねばなりませぬ。 ここは我が君も蜀の皇帝となり、魏と対等にならないといけないと思いまする。」
「なるほど…」
「おおっ!」
「そうか!」
「確かに…」
「それしか…」
「「「……」」」
「そうか、余が皇帝に…」
「はい、現状…それしかありませぬ…」
確かに魏の曹丕は皇帝となった。
一方で劉備は蜀の牧であり、蜀の君主である。 まだ王にもなっていない。 これではただの一君主が皇帝とやりあうようなもの。 とてもではないが対等ではないし、見た目も反逆に近いものに見えてしまう。 とはいっても漢の皇族・後継者がいない以上、漢王朝の継続も難しい。 やっぱり漢の血筋を持つ劉備が皇帝に即位するしかないのか?
魏の曹丕だけでなく、蜀の劉備も皇帝になるか、どうか思案・検討中である。
ともかく同盟国の呉とも、よく相談する必要があるようだ。
【注意事項】
※陸遜考案の『炎之薬』とは、火薬の一種であり、粉末状にしてある。
※読み方としては、「えんのやく」と「ほのおのくすり」の二通りの呼び名がある。
※時間が経つと、自然発火する仕組み。
※かつて孔明が新野でやった火計を、今度は陸遜が樊城でやったことになる。