Ep6:阿衡事件(あこうじけん)
<Ep6:阿衡事件>
887年、宇多天皇として即位した定省は20歳になった。
以下は引用である。
『宇多天皇は左大弁橘広相(たちばな の ひろみ)に命じて、21日に基経を関白に任じる詔勅を出した。
基経は先例により26日に一旦辞退する。
天皇は橘広相に命じて二度目の詔勅を出した。
その詔勅に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文があった。
阿衡は中国の殷代の賢臣伊尹が任じられた官であり、この故事を橘広相は引用したのである。
これを文章博士藤原佐世が「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げたことにより大問題となる。
基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。
基経は「厩馬を放散して、京中を驚かす如き、亂暴の擧動もなせしなるべし」怒りを表した。
心痛した天皇は基経に丁重に了解を求めるが、確執は解けなかった。
藤原佐世が基経にこうした騒ぎの種になるようなことを言ったのは、橘広相の出世を妬んだためとする説もある。
翌仁和4年(888年)4月、天皇は左大臣源融に命じて博士らに阿衡に職掌がないか研究させた。
藤原基経の威を恐れた博士らの見解は文章博士藤原佐世と同じであった。
橘広相はこれに反駁するが、6月2日、天皇は先の詔勅を取り消して、橘広相を罷免した。
天皇は無念の思いを日記に記している。
基経は執拗になおも橘広相を遠流(おんる。島流し等の追放刑)に処すよう求める。
橘広相の無実を知る天皇は窮するが、讃岐守菅原道真が橘広相の弁護にまわり、同11月これ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない旨の書が道真から基経に送られた。
基経が怒りを収めたことにより、ようやく事件は終息した。
この事件で基経は藤原氏の権力の強さを世に知らしめ、天皇は事実上の傀儡であることを証明した。』
定省は最高権力が幻だったことを思い知らされ、基経を大いに疎ましく思った。
かわりに菅原道真に恩義を感じた。
基経が生きている間は何一つできないことを痛感した。
ただ、いいこともあった。
穆子が斎王退下となったのである。