EP51:番外編:無垢(むく)②
浄見は一瞬どうしようかと悩んだが、キョロキョロと辺りを見回し、誰もいないことを確認してその場にとどまった。
「あの、先日は結婚を無理強いして悪かったね。左中将には文で謝っておいた。でもまだ浄見のことはあきらめてないという返事が来た。」
と浄見の様子を上目遣いで気にしながら時平が言うと、浄見は忘れてた!という顔で
「あぁ~~え~~っと、ごめんなさい。左中将様のことを正直忘れてたの。お見合いしたことも。」
とバツが悪そうに言った。
浄見が周囲を気にしながら、時平の方をまともに見ないので、時平はもう自分には興味がなくなったのかと凹んだが、
「もし、浄見に好みの男性がいたら、私が橋渡しをしてあげるよ。」
と強がって言うと、浄見はピクっと動きを止め、時平をまっすぐに見つめ
「兄さま、もう私に近づかないでという文を送ったでしょう?これ以上、私のことを気にかけないでください。」
と怖い顔で言うので、時平は今までに浄見にわがままを言われることはあっても真剣に怒られることがなかっただけに驚き、畏れた。
時平が眉根を寄せ思い詰めた表情で
「あの・・・本当に、もう、私のことが嫌いになったのか?顔も見たくないくらいに?それならもう、話しかけることもしないでおくよ。すまなかったね。呼び止めて。」
とうなだれたので、浄見は時平のシュンとした姿が愛しくなってつい、
「あぁ!もうっ!兄さまったら!私に変な文が届いて、内容が『私の正体を知っている』だったの!」
時平はえっ?と顔を上げたが浄見が続けて
「だから、私のせいで兄さまに危害が及ばないように、無関係のフリをしようとしてたの!」
とバラしてしまった。
時平が急に緊張し、真剣な顔つきになり、
「差出人はわかったのか?後をつけていた奴の顔を見たのか?上皇なら伊予が浄見だと分かった時点で何らかの命令を出しているだろうから、上皇ではないな。」
と考え込んだ。
「でも、浄見の正体が分かったと浄見に告げて、何をさせたいんだろう?浄見を攫って上皇や、私や、母君を脅すならまだしも・・・・。」
と黙って考え込むので、浄見は手持ち無沙汰になり、棚にならぶ本の名前を見ながら歩いていた。
とそこへ入り口から
「大納言殿、お探しの書はありましたか?」
と声がしたので、時平は浄見を背中で隠すように立ちふさがった。
「いえ、もう少しかかりますので、鍵はまだあけておいてください。探し終わったらお知らせします。」
「では」
とその舎人は頷いて引き下がった。
時平が振り返ると思ったより浄見が近くにいたので、浄見の頭が時平の顎のすぐ下にあった。
浄見が顔を上げ時平を見ると、時平には浄見の顔の細かいところまではっきりと見ることができた。
おでこに生えた産毛や、長い睫毛が縁取った大きな潤んだ瞳、細い鼻筋と形のいいつんとした鼻先や、小さいが厚みのある赤い唇、白い頬はうっすらと赤く色づいていた。
幼いころと同じ顔なのに、なぜこんなにも心惹かれて目が離せないのだろう?と時平は不思議に思いながら浄見を見つめ続けていると、浄見が照れながら怒って
「兄さま、見すぎです。何か変なところがあるの?恥ずかしいから見ないで!」
と時平の目を隠そうと伸ばした手を時平が掴み、突然
「浄見・・・好きだ。」
と言った。
浄見はパニックになり
「突然どうしたの?どうして今頃そんな事を言うの?じゃあどうしてお見合いなんかさせたの?」
と泣きそうになった。
「私を妻にしてくれるの?恋人にしてくれるの?」
と涙声で聞くと、時平は
「それは・・・できない。」
「どうして?!」
「傷つけたくない。」
浄見は怒って
「なぜ恋人になるのが傷つくの?どうしてまた逃げるの?」
時平もカッとなって声を荒げ
「浄見は何も知らないからだよ!何も知らない子供だからだ!私は聖人君子じゃない!男だぞ!浄見は知らないだろ!男の、私の!醜い、獣じみた、黒い欲望を!それがどんなにいやらしい、激しいものかを!どんなに体と心を蝕むかを!きっと浄見は耐えられない!」
「そんなこと!わからないじゃないっ・・・!」
と言いながら浄見は少し怖くなった。
幼いころから親しんだ優しい頼もしい兄さまが急変して、噂にあるような、乱暴で粗野な荒々しい狼藉者のようになるなんてと。
浄見の気後れを時平は敏感に察知し口の端で笑い
「ほらね。怖くなっただろう。だからこのままでいよう。この話はここまでだ。私はもう行くよ。」
と、時平が背を向けて立ち去った。
時平の背が浄見から見えなくなりそうになった時、浄見はとっさに
「もし傷つけられても、好きになるわっ!何回傷つけられても、その度に立ち直って、何度でも、私は兄さまを好きになるからっ!」
と時平に向って叫んだ。
後日、ある女御付きの女房の一人が、精神の健康を崩して暇を取ることになった。
その女房は恋人の足が遠のき、寂しさのあまり、同僚の女房達が恋人を寝取り自分をあざ笑っていると思うようになり、同僚を恨んで手当たり次第に
『お前の正体を知っている』
と書いた文を送り付けていたからであった。
その文を受け取った女房が十数人にものぼり、筆跡から突き止めた差出人のその女房が自分の仕業だと認めたことで発覚した。
浄見は自分の身元を知る人物が脅したわけではないと知り安堵した。
そして、時平の躊躇いの原因が自分の未熟さにあることを知り、もっと早く強い女性になり、時平を納得させなければと思った。
時平が怖がるほど、浄見はか弱い少女ではないのだから。
最後までお読みいただきありがとうございました。
これで本編とつながったかな?と思いますが、また何か思いついたら書くかもしれません。




