EP36:番外編:基経の死(決別)②
「どうして?やっぱり浄見のことがきらいになった?もうわがまま言わないわ!二度とすねないし、だだもこねないし、字だってちゃんと練習するわ!
本も読んで、琴も、囲碁も、何でもできるように勉強するわ!だからっ!」
と涙をこぼしながら早口でまくし立てる浄見を時平は愛おしいと思った。
「だから、きらわないで兄さま!もう会わないなんて言わないで!」
と浄見は両手の甲で涙を目から拭いながら、それでも次々と涙をあふれさせながら泣きじゃくった。
時平は思わず浄見を胸に抱きしめようと伸ばした手を空中で止め、こぶしを握った。
胸の中心の奥がギリギリと痛み、締め付けられ息が苦しくなった。
「きらいになったわけじゃないよ。私は結婚して妻と子供ができるから、忙しくなるし、浄見に会いに来る時間がなくなるからだよ。」
と時平が言うと浄見が涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、
「兄さまに好きな女の人ができたの?だから結婚するの?」
と不思議そうに言った。
時平は少しためらったが
「そうだよ。」
浄見は少し悲しそうに
「浄見のことが好きでしょう?他にも好きな人がいるの?」
時平は口の端を少しゆがめて自嘲的に笑い
「そう。他に好きな人がいる。」
浄見は嫉妬という感情を初めて味わったように、怒ったような、悲しいような顔をしていたが
「じゃあ浄見とも結婚するのね?それなら他の人とも結婚していいわ。」
と譲歩した。
時平は自分の顔に血がのぼり赤くなるのを感じた。
鼓動が早くなった。
浄見が大きくなるのを待って、側室にむかえるという現実的な方法があることは薄々考えていたが、浄見がこれほどあっさりそれを承諾するとは思っていなかった。
八歳の子供にそんな話をするわけにもいかず、言葉に出すことすらはばかられるというのに、ちゃんとした意味が分かっていないにせよ浄見はそのことを考えていた。
一生離れ離れになるよりも、複数の妻の一人になることを即座に選んだ。
しかし、と時平は考えた。
たとえ今はそのつもりでも浄見が大きくなった時にはもっといい男性が現れ、浄見の心を奪うかもしれない。
浄見の将来を縛るような約束を今するわけにはいかない。
浄見はまだ愛するという意味も知らないだろう。
親子の情と恋人の情の違いも分かっていないだろう。
やはり期待してはいけないのだと思った。
ここできっぱりと別れておかねばと。
「浄見とは結婚しない。私は自分と釣り合う女性と結婚するんだ。」
浄見はまた、泣き出しそうな顔になって
「釣り合う?ってどういうこと?浄見は釣り合わないの?」
時平は頷いた。
浄見はしゃくりあげながら
「ど・・・っどうしたら釣り合うのっ?何をっすればいいっのっ?」
と泣き続けるので時平は
「何も。何もできない。」
「どうしてっ?どうしてっ?」
と泣きながら浄見は時平の胸をこぶしで叩いた。
「あきらめよう。あきらめるしかない。」
何度も何度も時平を打つ浄見の両腕を時平がつかんだ。
浄見が腕を振りほどこうと暴れると、時平が腕に力をこめた。
浄見が泣きはらした顔を上げると、時平はその目を見つめ
「無理なんだよ!だめだ!・・・だめなんだ。」
と吐き出すように言った。
浄見の顔を絶望の影が覆った。
浄見がすべてを理解したとは思わないが、少なくとも二人でいる未来はないと時平が考えていることはわかったようだった。
時平が立ち上がり、去ろうとすると浄見は顔をふせたまま、
「兄さま、またいらしてね。浄見はずっと待っています。」
と落ち着いた声で何事もなかったかのように言った。
時平は何も言わず立ち去った。
屋敷を出ると、切なくなるほど美しい夕日が路地を赤く染めていたが、
その道は荒涼として、長く、寒々と続いていた。
「Ep7:異能発露」内の出来事です。