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EP35:番外編:基経の死(決別)①

浄見8歳、時平19歳、ぐらいの時期に戻ります。

 890年も終わろうという頃、突然の発作で死の床に就いた基経の傍らには、長男の時平はじめ忠平とそのほかの弟妹たちが遺言を聞き漏らすまいと集まった。

基経は長い昏睡と短い覚醒を繰り返す病状のまま数日が経過していた。

短い覚醒の間に息子や娘は少しでも父の言葉を受け取ろうと順番に話しかけた。

最後は時平の番になり、基経の枕元に座り、上から土色の顔を覗き込んだ。

基経は口が渇くのか、くちゃくちゃと口元を動かし舌を滑らかにし何かを話そうとした。

その目は(うつ)ろで焦点が合わず時平は自分を認識しているかも怪しんだ。

「口が渇きますか?水を飲みますか?」

と時平が聞くと、基経は弱々しく首を横に少し動かし、

「時平、お前は家を守り、大きくせねばならん。・・・己の欲を優先させてはならん。正道を外れるな・・・。わかったな。」

と最後はしっかりと時平を見つめて言い切った。

時平は『はい』と頷いたが、なぜ父がこう言ったのかをすぐには理解できなかった。


891年、世間では正月の松も片づけようかという日に、関白太政大臣・藤原基経は息を引き取った。

時平は浄見の「悲しいことが起こる」との予言が的中したことに驚いたが、父の死がもたらす感傷よりも、周囲の環境がガラリと変わったことに対して戸惑った。

基経は自身の死期を予知するように病床にありながら、時平と廉子女王(本康親王の娘)の婚姻の手配を済ませ、従四位上次いで従三位と越階昇叙させ、時平は公卿に列せられていた。

基経の病と死による服喪を理由に婚姻は先延ばしにしていたので時平は廉子女王とまだ御簾越しにしか会ったことはなかった。

時平は基経の手配した遺言ともいえる婚姻に(あらが)うつもりもなかったが、妻となる人を愛せる自信はなかった。

時平の見るただ一筋の道には廉子女王はおらず、廉子女王のいる父の残した道には生きる喜びはなかった。

『父の言う正道とは、浄見を手放すということだ』と時平は思った。

ただ傍におくことすらできないのか?

正道とは何だ?

誰が決めたのだ?

浄見は時平にとって妹であり、娘であり、自分の失った肉体の片方であった。

二人で一つとなることでやっと一人の人間になれるというのに。

自分のがらんとした空虚を満たすことができるのは浄見だけだというのに。

一方が早く生まれすぎ、他方が遅く生まれすぎたせいで、一緒にいることができないというなら、運命の恋人に巡り合うことは不可能だと思われた。

しかし時平の立場では待つという事は許されない。

喪が明ければ廉子女王の元へ通い、婚姻せねばならない。

基経が望む皇族との婚姻は時平の政治力を強め、世間から我が家への畏敬の念を高めるであろう。

基経がそうであったように。

時平がただ一人そこで立ち止まっていても、周囲の時間は容赦なく流れ、時平を押し流すだろう。

ぐずぐずしていることで、基経の苦労は水の泡となり、時平は親不孝のみならず家全員の幸福を(ないがし)ろにした薄情な愚か者となるだろう。

覚悟を決める必要があった。

『浄見のことを忘れよう』

と時平は決心した。


 時平は最後のつもりで宇多帝の別宅を訪れた。

浄見はいつものように駆け寄ってきたが、この頃は時平に身をかわされるので抱きつくことはしなかった。

目の前で立ち止まり、

「兄さま、いらっしゃいませ。」

と微笑み、少しためらって

「今日は父さまにご用事ですか?父さまはまだいらっしゃってませんけれど。」

と首を(かし)げた。

時平は浄見の首にあった痛々しい指の痕がきれいになくなっている事に気づき『よかった』と思った。

ほんの数か月前、浄見が男に連れ去られ、河に沈められそうになったときは、心臓が止まりそうになった。

浄見の頭をなで

「今日は浄見と一緒に遊ぼうと思ってきたんだ。」

というと浄見は頬を染めてへへへと笑いかけた。

貝合わせをしても、花を摘んでも、途中で手を止めて時平が浄見をじっと見つめるので浄見は居心地が悪そうに照れて

「どうして今日はそんなに見つめるの?兄さま?」

とはにかみながら言うと

「浄見の姿を目に焼き付けて置こうと思って」

浄見は不思議そうに

「どうして?」

「私はもうこの屋敷には来ないから。」

浄見の顔がさっと曇り、みるみるまに瞳が潤んだ。

(②へ続く)

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