Ep3:光孝即位
<Ep3:光孝即位>
今上帝が起こした宮中での殺人の噂は、退屈な公卿や宮女らの格好の暇つぶしになりあっという間に広がった。
しかも乳兄弟という親しい者を大した理由もなく殴って死なせたというのでは帝の資質が疑われるという声が上がった。
太政大臣・藤原基経は陽成帝に強く迫った。
「主上、このままでは民の皇族に対する不信感がぬぐえません。
親類縁者までも気分次第で殺してよいとなると、そのような非情な君主に誰が従いましょうか?
過ちを素直に認め、次の帝が道理を示せば皇族全てが非常識というわけではないと示しがつきましょう。」
「退位せよというのか?乳兄弟が一人死んだだけでか?」
基経は苦い顔をして
「乳兄弟とはいえ、真の兄弟と変わらぬ情がありましたでしょう?
主上にはなくても、世間では十分あるべきだと考えます。
そのうえで弟を殺して平気な者など誰が敬いますか?」
陽成帝は何も言い返せなかった。
「わかった。そなたの言うとおりにする・・・。母上にはそなたから伝えよ。」
こうして陽成退位は決定したが、基経はすぐには時康親王を担ぎ出さなかった。
時平や疑い深い一部の殿上人は殴っただけで人が簡単に死ぬのはおかしいと考えたが、表立って基経にたてつく者はいなかった。
時平は薬師の件と定省王が源益を介抱したという事実とを合わせて、すぐに推察した。
毒を仕込んだ針か何かを源益に近づいた隙に刺せば、毒殺ではなく殴殺されたと判断されるだろうと。
明らかに殴打されたのだから、毒殺を疑う余地はないと思わせたのだ。
あらためて定省王の悪辣な手腕に恐れをなしたが、淡々と実行に移せる胆力に感心もした。
さて、次期天皇に基経が一応、形式的に、打診したのは、仁明天皇の時に廃太子された恒貞親王だったが、拒否された。
承和の変で嫌というほど藤原氏の恐ろしさが身に染みている親王が明らかに基経の本意ではない打診を受けるはずがなかった。
そこで基経は本命の仁明天皇の第三皇子の時康親王を新帝とした。
左大臣源融(みなもと の とおる。嵯峨天皇の第12皇子)は自分もその資格があるはずだと言いだした。
基経は姓を賜った者が帝位についた例はないと退け、次いで参議・藤原諸葛が基経に従わぬ者は斬ると恫喝に及び、廷議は決した。
公卿会議の決定を持って、陽成天皇に退位を迫った。
884年、陽成帝が退位し、時康親王が55歳で即位し光孝天皇となった。
光孝天皇は基経に政を委任する詔を発した。
皇太后・藤原高子(陽成上皇の母)は清和天皇との間にまだ貞保親王がいるにもかかわらず、時康親王を即位させた基経に怒り、
光孝天皇の系統に天皇の座を奪われまいとして、光孝天皇に何か弱点はないかを探った。
そして敵の敵は友だとして源融に近づいた。
「左大臣どの・・・たしか臣籍降下した皇族には天皇に即位した例がないと基経殿に言われたそうですね。」
「そうです。皇太后さま。」
高子は思案顔になり
「では、子女を臣籍降下させることを帝に進めましょう。こちらに貞保親王がおわすことと、
皇子が基経殿の傀儡でお飾りの天皇になることを申し上げれば、帝はきっと子女に源氏の姓を選ばせるでしょう。」
といった。そして、他に打てる手がないかを探した。
「そういえば、確か賀茂斎王に卜定の穆子内親王(むつこ ないしんのう。光孝天皇第7皇女)
はご病気で臥せって初斎院中にもかかわらず、どこか別の場所で療養しておいでだったとか?ご回復なさったの?」
「そういう噂もありましたが、賀茂斎王が変更になったとは聞いていませんから、今はご回復なさって来年には紫野院入りなさるでしょう。」
と源融は答えた。
「なんのご病気かしら?詳しい事情を知るものがいる?」
「さぁ。帝の第七皇子・定省王は穆子内親王と親しかったはずですが。」
高子は陽成が退位の原因となる乳兄弟殴殺事件のときに近侍していたのが定省王だと思い至った。
定省王が陽成退位に何か関わりがあるなら、穆子内親王と定省王を調べれば光孝天皇の弱みが出てくるかもしれないと考えた。
高子の望み通り光孝天皇はすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えない意向を表明していた。
定省王は光孝天皇が自分をも臣籍降下させたことに、少し焦ったが、
父をそそのかした背後の存在に警戒すべきだと考えた。
定省王が臣籍に降り源定省(みなもと の さだみ)と名を改めた頃、時平を召してこう言った
「最近、私の周りを嗅ぎまわってる連中がいるとか。そなたは何も知らぬか?」
「私も主君との関係を尋ねられましたが、ただの下働きの平次と名乗りました。」
「浄見の存在も知られてはおるまいな?」
「北の方(橘義子)との間にまだ御子がおられませぬから、屋敷内部に間者がおれば何か悟られるかもしれません。
どこかへお移ししましょうか? 」
「いや。下手に移して目立ってもいかん。もう少し様子を見る。いざとなったら他へ移すがそのときはそなたに頼む。」
「かしこまりました。」
時平は浄見がどのような身分で定省とどのような関係の子かまだ知らなかったが、ひとつわかったのは、
あの夜、赤子を連れ出した屋敷は賀茂斎王・穆子内親王が療養していた場所であるということだった。
もし斎王におなりの方の赤子ということになれば、大不祥事に違いない。
斎王は未婚の乙女でなければならないし、しかも潔斎中の密通・出産など清浄とは真逆の出来事である。
このことが世間にもれれば斎王退下はもちろん、帝や皇子達にも大いに恥となるだろう。
とはいえ、どんな身分であろうと時平は浄見がかわいくて仕方がなかった。
あるときは、手土産にデンデン太鼓や笛を、またあるときは、蜜柑や桃など甘いものを持っていった。
浄見も時平によくなついて腕の中ですやすや眠るほどだった。
885年に定省に敦仁親王(醍醐天皇)や斉中親王といった子達がうまれると、浄見が屋敷にいてもさほど目立たなくなったので、
時平は足繁く子守に通った。
886年、16歳の時平の元服式は内裏の仁寿殿で行われ、正五位下が授けられた。
その際の告文は学者で知られた参議・橘広相が起草し、光孝天皇が自ら清書した。
さらに自ら加冠の役を果たした上に、時平が儀式の際に用いた冠巾は天皇の衣服であった。
この特別待遇は基経と同様、天皇の擁立に功があった藤原百川の嫡男、藤原緒嗣の元服に習ったものと見られている。
浄見が満4歳になったある日、時平は偶然定省と来客との会話を耳にした。
「主はあの子が今どこにいるかを探してくれとあなたにお頼み申すように私を使いに出しました。」
という か細い女性の声の後
「お使いご苦労であったが、さて、姉上の頼みと申されても、私も行方を気になっておるところで・・・。」
時平は浄見を探してる人がいると察しがついたが、定省が姉上というからにはやはり穆子内親王が浄見の母なのだと確信した。
定省が浄見の存在をなぜ隠しているのかはわからなかった。
「主が申すには、あの夜、『赤子を無事に逃がしてやるから見張りを遠ざけろ』という文を信じて赤子が攫われるのを見逃したが、今となってはせめて一度でも我が子をこの手で抱きしめて死にたいとおっしゃるのです。」
定省は眉をひそめた。
「主は潔斎中のあの出来事に気が動転して、やすやすと言いなりになったことを悔いておられます。
我が子と一緒に死ねばよかった、今からでも遅くないとおっしゃって・・・」
定省は少し心が動かされたと見えて、
「姉上がそのように はかないことをおっしゃるなら、行方を探してみましょう。しかし期待なさらぬようにと伝えよ。
それと皇太后の手のものが私の周辺を調べておる。姉上も秘密が漏れぬよう細心の注意を払うようにとな。」
といった。
時平は赤子を攫う際、屋敷の警備が手薄だった理由も、光孝天皇が時平ともども赤子を射殺そうとした理由もわかった気がした。
赤子を殺すのは密通・出産の秘密の証拠を消すためで、時平を殺すのは天皇自身の手で赤子を殺したことを娘である穆子内親王に伝わることを恐れ、赤子はさらわれた際に事故にでもあって死んだことにしたかったのだろう。
赤子と一緒に死ぬ者が自分の手のものであってはならないから、一度さらわせたというところか。
定省は
「姉上はその他になにか占卜なさらなかったか?」
というと
「主はもうすぐ娘と会えるからしっかりと探すようにと伝えよと仰いました」
定省は考え込んだ。
「姉上が、娘と会えると考えるのは斎王退下が近いということか?となると、密通が暴露される・・・または、父上がお隠れになる・・・ということか」
と小さくつぶやいた。
時平は定省が占卜をまるで事実のように信じていることに驚き、浄見を隠し育てているのもあるいはそのためかと思った。
もし、穆子内親王の占卜が必中なら定省が穆子内親王と親密にしていたのもその予言を得るためではないかと。
浄見と貝合わせをしながら考え込んでいると
「兄さま!兄さまのばんですよ!まけたほうが、お花をつんでくるんですからね!」
と言われ、
「私が何時も摘んでるじゃないか?私が勝ったら浄見が摘んでくれるのかい?」
「浄見のぶんは兄さまがつむのよ!兄さまのぶんを浄見がつんであげるわ!」
と舌足らずで言われた。
「どのみち、私は摘みに行くんだね。じゃあ今日はお庭じゃなく屋敷の裏山に行ってみようか?」
定省に屋敷の外に出ることは禁じられていたが、定省の子に見せかければ少しの外出は許されるだろうと思った。
二人が門に差し掛かると、門番にとがめられた。
「どこへ行く!その姫は誰だ?王さまから何の通達もないが」
「この方は定省様のお子様です。私は子守のもので、少し裏山に花を摘みに行こうと思っております。」
「何も聞いておらぬから駄目だ。特に姫は注意するように言われておる!」
と止められたので時平はあきらめた。
定省は一生浄見を閉じ込めておくのか?という疑念がわいた。
そこまで秘密にするのは、姉の醜聞を封じ込めるためだけなのかそれとも別の思惑があるのか。
「兄さま?うらやまにいけないの?」
「そうだね、今日は無理みたいだから、お庭で花を摘もう。」
人ひとりの存在を永遠に隠すことなどできないだろうに、将来どうするつもりなのか?
浄見が可哀想だと、時平は定省に不信感を持った。