EP29:番外編:ねやのひまさえ③
一番驚いたのは浄見だった。
本当に好きなのは浄見だけだと言った口が次の瞬間、他の女に口づけているのはどう考えても理解不能だった。
丹後の唇から唇を離すと時平は、真っ赤になってぼんやりしている丹後に向って
「お願いだから、伊予には何もしないでくれ。私ならいくらでも相手になる。」
と言った。
時平の考えでは周囲の女房がたかが嫉妬で浄見に危害を加えるなんて信じられないと思った。
自分で取れる解決策があるなら、どんなことでも最善で最も簡単だと思った。
女を抱くことなど時平にとっては挨拶を交わす程度の事だった。
そんなことで浄見を守れるなら、時平には何回だってたやすいことだった。
感情を伴わない房事など、時平には物の数にも入らないし、浄見が嫉妬する価値もないことだと思った。
丹後は後ずさりながら顔を赤らめて悔しそうに小声で、
「・・・わかったわ。伊予には何もしない。時平様さえそのつもりなら・・・その約束守ってくださいませね。絶対ですわよ。」
と呟いて、房から出ていった。
浄見は完全にパニックだった。
『兄さまは何を考えているのだろう?私と別れたいのだろうか?もし兄さまと別れる事になったら、私は耐えられるだろうか?』
浄見は目の前にいる時平が突如、まったく見知らぬ男に見えた。
今まで浄見を慈しんでくれた、優しい、頼もしい『兄さま』ではなく、多数の女性と手慣れた夜遊びを楽しみ、朝には粋な歌を読み交わすような好色な公達の一人のように見えた。
私は今までこの人の何を見ていたんだろう?
浄見は時平を初めて見る人のように遠くから眺めた。
すると不思議な事に、時平とまだ恋人関係になる以前、他の女房とともに几帳の陰から見た、帝と並んで座り冗談をいったり談笑したりする、『左大臣時平』の姿が頭に浮かんだ。
そうだ。
この人は、はじめから私だけのものじゃなかった。
北の方は既に二人いるし、懇意の女友達も数えきれないくらいいる。
帝にも頼りにされる太政官で最も位の高い一の大臣だ。
『そんな人が私を特別に扱う理由なんてどこにもない』と思った。
浄見は、遠くから時平を眺める事しかできなかった頃や、屋敷に会いに来てくれなくなり、文を書くことと、楽しい思い出に浸ることしかできなかった子供時代を思い出し、
『何て贅沢な事を私は考えてるんだろう』
と思った。
少なくとも今は手の届くところにいてくれると思った。
だけど、と浄見は考えた。
『私が好きだった兄さまは、そんな兄さまじゃない。大勢の恋人の中の一人として私を扱う、地位のある貴族ならきっと他にたくさんいる。でも、兄さまは違う!』
とここまで考えた浄見は自分でも予想しなかった行動に出た。
時平に抱きつくというよりもしがみつき、
「兄さまは私だけのものよ!誰にも渡さないわ!他の女に触らないで!」
と子供のように駄々をこねた。
そして呆気にとられる時平の顔を両手で引き寄せ、口づけた。
時平の真似をして、長く、思いを込め、時平を夢中にさせようと熱心に。
浄見が初めて見せた素直な媚態だった。
時平はわけが分からずぼんやりとされるがままにしていたが、突然、子供のころの浄見の声を聞いた気がした。
可愛らしく、わがままで、時平を思うままに操る、小悪魔的な魅力をもった、幼い少女。
自分がすること全てを時平が許し、愛すべきだと考えているように、無邪気にすねたり、甘えたりする愛しい少女。
時平は、ずっと浄見に特別な感情を抱き、それを心の奥底に閉じ込めていたが、その感情が突然あふれ出ようとしていた。
同時に、胸を刺す痛みも思い出し、息苦しくなった。
その罪悪感は、脳裡に刻み付けられ、容易に取り去ることはできないものだった。
しかし今、その罪悪感がそのまま強い欲望へと転じた。
浄見を抱きたい。
と今までで一番激しく思った。
一つになって、完全に自分の一部にしてしまいたかった。
全てを飲み込み、吸収して、一生、一緒にいる。
浄見の他には何もいらないと思った。
手荒く浄見の衣を脱がせると、目の前に白く美しい、か細い、触れるとすぐに壊れてしまいそうな裸体があった。
時平は浄見の泣きそうな顔をみつめ、優しく触れた。
「誰にも二人の邪魔はさせない。」
「丹後さんも?北の方も?」
浄見が泣きながら呟くと、時平はしっかりと頷き
「ちゃんと話すし、言う事を聞かなければ、脅す。」
「兄さま。危険な事はしないで。私はひとりで大丈夫だから。いじめられても大丈夫。椛更衣もいるし。兄さまに何かあったら自分を許せないわ。」
「わかってる。私も理解してもらえるように説得する。」
浄見はどう説得するのか?を考えてまた嫉妬にかられ、時平にしがみついた。
時平はこの夜、浄見を、この上ない愛情と情熱を注ぎ込み、一心に愛した。
最後までお読みいただきありがとうございました。
また面白いことが思い浮かんだら、何か書こうと思います!