EP266:伊予の事件簿「初入の袖(はつしおのそで)」 その3
低い声でボソリと
「影男とはどうなった?あれから、何かあった?その・・・・進展というか、」
嘘がバレないように振り向かず、できるだけ、平静を装って
「ええと、まぁ、そうね、晴れて、ちゃんと、こ、恋人?になった、かな?強いて言えば。
・・・兄さまこそ、廉子様とうまくいってる?毎日キチンと帰ってる?ちゃんと夫婦として過ごしてる?」
声が震えずに
最後まで言えた。
ゴクリと息をのむ音がし、掠れた、低い、尖った声で
「あ・・・あぁ。毎日、帰ってるし、一緒に寝てる。ちゃんと、・・・・夫婦がすることを、してる。」
ズキズキする。
心が痛い。
息ができない。
自分で訊いておいて
答えにショックを受けるって
バカじゃないの?
スッ!
袖が軽くなった。
引き留める手が無くなった。
「じゃあね、大納言様。お元気で。」
「あぁ。伊予も。」
素早く几帳をどけ、できるだけ早くその場から立ち去った。
一度も振り返らず
前だけを見て早足で。
涙でぐしゃぐしゃの顔を誰にも見られたくない!
雷鳴壺で私の顔を見た椛更衣が
「まぁ!」
目を丸くした後、悲しそうに笑いながら、両手を広げ
「おいで!」
私よりも小さい椛更衣の胸に飛び込みギュッと抱きついた。
顔をうずめ、思い切り涙を流した。
背中と頭をゆっくりと撫でてくれながら
「よしよし。好きなだけ泣きなさい。」
数日後、茶々と『和歌詠み指南個別指導教室』へ出かける当日になった。
茶々の実家から牛車を手配してもらい、陽明門へつけてもらって、二人で乗り込んだ。
紀希与之様の屋敷だと思われる『和歌詠み指南個別指導教室』へ到着すると、対の屋が三つはありそうな、紀希与之様の身分からいうと広いお屋敷だった。
侍所の雑色が東の対の屋へ案内してくれた。
主殿の前に広がる庭は大納言邸よりは狭いけれど、神仙蓬莱石組で、特に遣水を引いた池が主殿の階段に迫るほど広いのが特徴的だった。
神仙島を模した池の中の島に植えてある楓の木は紅葉の時期には、池面に葉を落とし、中央の蓬莱島に見立てた岩とともに美しい一枚の絵になりそう!
夏には池面いっぱいに茂っていたと見える蓮の茶色く枯れた茎や葉が季節の移ろいを感じさせた。
東の対の屋は几帳と屏風で六房ぐらいに仕切ってあり、その一つに案内された。
文机が一つ、紙、筆、硯と墨、水瓶、が揃ってた。
茶々が
「私たちは二人でひとつの房でいいわ!一緒に師匠に教えてもらうから!」
雑色はハイと頷き
「では、ここでお待ちください。和歌を五首以上はすでに詠んでこられましたね?その添削をうちの師匠がさせていただくという形になります。ええ、お相手の時間はこの線香一本分となっております。燃え尽きましたら終了でございます。前の方が終わり次第、師匠が参ります。」
陶器でできた、杯に穴が開いたようなお洒落な線香立てに線香を挿して立ち去った。
「ワクワクする~~~!茶々どんな和歌を詠んできたの?」
茶々が詠んだ和歌を見せてもらってフムフムと眺めてるうちに、刺激の強い香の匂いが鼻をつき、衣擦れの音がする方を見ると、狩衣姿の男性が御簾を持ち上げ中に入ってきた。
「紀希与之と申します。和歌の詠み方指南に参りました。よろしくお願いします。」
丁寧に頭を下げた。
紀希与之は、角ばった頬骨、角ばった顎、鼻筋が少し曲がった高い鼻、顔の輪郭は細長く、彫りの深い、黒目がちの目元が美男子といえなくもない三十前後の男性だった。
茶々を見るとぼぉっと見とれてるので、好みには合ってたみたいだから良かったけど。
私たち二人を交互にチラチラ見て
「どちらの和歌を添削すればいいのですか?」
微笑みながら艶っぽく話しかけた。
「はーーーいっ!!」
茶々が嬉々として手を上げ和歌を書き付けた紙を見せた。
「ふむ、そうですね。なかなかいい和歌ですが、ここはこうしたほうが・・・・・」
二人で顔を寄せ合い、ボソボソと話し込みながら、顔を上げ見つめ合ったり、紙を指さして頷いたり、『へぇ~~~!』って感嘆の声を上げたりして盛り上がってた。
紀希与之が茶々の頭を『よしよし!』するように撫でたり、茶々が紀希与之の肩をポンポン触ったり、傍から見ると恋人同士がイチャついてるみたい。
はぁ?
いいの?
初めて会った人との距離とは思えない!
近すぎるっっ!
私は引き気味で、退屈だから文机に肘をついて、筆の尻で顎を掻きながら、何か思いついた和歌でも書こうかなって考えてた。
さっきの雑色が御簾越しに
「紀希与之さま。離宮八幡宮から買い付ける油の量は一合(0.72L:平安時代)多く買い付けますか?」
紀希与之はテキパキとした口調で
「そうだ。いつものように。」
と答えた。
思いついて、サラサラと紙に文字を書いたのを見た紀希与之が私に気づき
「あなたのも見てあげましょう。」
呟いて文机のそばまで来て顔を近づけて覗きこむ。
(その4へつづく)