EP243:伊予の事件簿「糸毛車の女(いとげぐるまのおんな)」 その7
次の日の昼になっても兄さまは大納言邸に帰ってこなかった。
昼過ぎにやっと竹丸が文を持ってやってきた。
私の対の屋で対面して座り文を受け取る。
竹丸が妙に緊張した面持ちで
「若殿からこれだけは口頭で伝えてくれと頼まれました。
『体がどこにあっても、心はいつも浄見のそばにいて浄見のことを想っている』
と伝えてくれと。」
普段、のんびりしてお腹が減ってない限りは愛想のいい竹丸が硬い表情をしてるのでビックリした。
「どうしたの?兄さまに何があったの?」
何?その言葉?
「まるで一生会えないみたいな口ぶりね!」
茶化すと竹丸はウンと頷いた。
嫌な予感がした。
「昨日の『牛車の女子』はどうなったの?捕まえたの?」
ウンと頷く。
「検非違使庁に連行して取り調べたの?彼女は何が目的だったの?」
「・・・・・・」
「裏で誰かが糸を引いていたの?私や兄さまに恨みがある人?」
竹丸が黙っているのでますます嫌な予感が強くなった。
「もしかして・・・・」
竹丸が重い口を開いた。
「昨夜、若殿は一晩中、大納言邸周辺のいろいろな小路・大路に人を配置し見張らせました。
丑の刻(午前二時)を過ぎたあたりで、糸毛車と牛飼童がxx小路に現れたとの報告を受けた若殿が駆けつけ、『牛車の女子』に会いました。
その『牛車の女子』を堀河邸に連れて帰ろうとすると、彼女が護身用に持っていた刀子で自分の頸を切りつけたのです。」
「えぇっっ!!!死んでしまったの?!!」
「いいえ。頸の皮膚を少し切った程度で、手巾で押さえるとすぐ出血は止まりました。ですが若殿は彼女の精神状態が落ち着くまで一緒にいることにし、私に文を預けここに来させたのです。」
えぇ?
なぜ兄さまが?
ついてあげる必要があるの?
『堀河邸に帰る』って?
どういうこと?
まさか・・・・
ゴクリと息をのんだ。
「『牛車の女子』はもしかして、廉子様だったの?」
深刻な顔でウンと頷き
「廉子様は堀河邸に帰る途中も帰ったあとも、『恥ずかしくて生きていけない、このまま死にたい』とずっとお泣きになっていました。」
「なぜ?なぜ廉子様は素性も知らない男性を次々と誘うような真似をなさったの?」
寂しくなって浮気するとしても、めぼしい男性と文を交わして自分の対の屋に引き込むとか、
侍女に頼んで手引きするとか方法は色々あるのに!
行きずりのどこの誰とも分からない男性となんて!!
信じられない!!
ショックすぎて何も言えなくなった。
竹丸は腕を組み苦い顔をし
「最終的には若殿の気を引きたかったんでしょうけど、自暴自棄なところも見受けられます。
ヤケクソ?破滅願望?でしょうか。」
鉛の塊を飲み込んだように胸が重くなった。
廉子様はそんなに苦しんでいたの?
死にたくなるほど?
『私に悪い噂をたてようとして』じゃなく?
そうだとしても勘繰らずにはいられなかった。
一人でそんなことを思いつき、実行することができるかしら?
何となく泉丸の顔が思い浮かんだ。
『慰めに来たんじゃなくて、兄さまと私を引き離す計画が上手くいったかどうかを確かめに来たのでは?』
猜疑心が拭えない。
竹丸が帰った後、兄さまからの文を開いた。
『浄見、すまない。
伊予の汚名をそそぐことができなくなった。
「伊予の悪い噂」を作った犯人が廉子だったからには
検非違使庁に突き出すこともできない。
浄見は離縁するなというが、
私がそばにいることが実は廉子を一番追い詰めている気がする。
だが、自分を傷つけて泣きわめく廉子を見ていると、どうしても放っておくことができない。
気分が落ち着き、話ができるようになるまではそばについていることにした。
ちゃんと話せるようになれば納得してもらえるまで説明するつもりだ。
それまでは浄見と過ごす時間もあまりとれないかもしれない。
分かって欲しい。
いつも浄見を想っている。
愛しているのはこの世でただ一人だけだ。
時平』
涙があふれた。
ショックだった。
二人の恋を守ろうとすることが、
死にたくなるくらい
誰かを追い詰めていたことに。
二人の幸せが
廉子様を絶望に駆り立てたことに。
非道いと思った。
自殺しようとしてまで兄さまの気を引こうとする廉子様が。
憎かった。
私を待たずに、早くに結婚してしまった兄さまのことが。
いままで多くの女性を傷つけてきたあの人のことが。
そんな人を愛して、求めてしまった自分が。
それでもまだ
あきらめきれない自分が
一番憎くて、嫌いになった。
『誰でもいい。
兄さま以外の人と恋をしたい。
私だけが唯一愛せる、他に恋人のいない人。
その人だけを思い切り愛して
兄さまを忘れたい』
顔をうずめ、
際限なく流す涙で
袖の色が変わってゆく。
泣きつかれて眠りに落ちた。
朝、目覚めたときには
決心していた
『兄さまには、もう二度と会わない』
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
糸毛車は『絹の染め糸で屋形を覆った牛車で、主に上流貴族の女性が使用した』そうです!