Ep22:番外編 右大将物語 ②年子
893年、時平が稀代の好色漢だと噂されるほど浮名を流していたころ、頭弁(蔵人頭、左中弁)源昇は自慢の娘を出世の足掛かりにしようと考えていた。
次女・源貞子はすでに今上帝(宇多天皇)の更衣として入内させていた。
次女より容色は劣るが、細々とした気遣いのできる長女・年子は将来有望な貴族に嫁がせようと考えた。
そして、見合いのための宴席をもうけ、出世が見込まれる有力貴族の子弟を招待し、年子をそれとなくお披露目しようとした。
招待されたのは、藤原時平・藤原忠平の兄弟、当時の大納言・源能有の長男・源 当時、菅原道真の長男・菅原高視、などであった。
いずれも本人が出世街道に乗っている若者か、もしくは父親が今上帝の覚えのめでたい若者であった。
当時の宴席では、良家の娘は御簾や几帳の奥から出ず、自己主張と言えば琵琶や琴をかき鳴らすぐらいであったのに、源昇は招待した婿がねの公達のそばに年子を侍らせ酌をさせた。
これは年子がかいがいしく気働きの良い、そのわりには器量の良い女であることを印象付けるためで、そのためなら少々の無作法は気にせずと言った感じだった。
酒宴が更けると、忠平は何を思ったのか忙しそうに酌をしてまわる年子の足元に扇を差し込み、それを踏んだ年子が足を滑らせしりもちをついた。
手にしていた銚子の酒をそばに座っていた時平に全部かけてしまった。
父の源昇は笑いながら時平にわびた。
「右大将殿、年子はそそっかしいところもございますが、これでも手仕事は誰にも負けません。すぐに濡れた直衣を乾かしますゆえ、あちらの房へどうぞ、ささ、年子に案内させまする。」
と言い年子に目配せした。
忠平は『しまった!失敗した』という顔をしていた。
年子は時平にこちらへ、と言いながら奥の房へ導いた。
「濡れた直衣に火熨斗をあてて乾かしますゆえ」
と言って、脱がせ、侍女に渡した。
単衣姿の時平は手持ち無沙汰なので年子に、
「侍女にやらせて、あなたは私の相手をしてください」
と言った。
時平はさっきの尻餅をついたときの年子の呆気にとられた顔が可愛らしいと思った。
久しぶりに可愛らしいと思える女性の表情を見た気がした。
年子は頷いて、時平に斜めに対して座り押し黙った。
時平が
「こうして単衣姿の私と二人きりにするなど、あなたの父上はあなたを私に嫁がせてもいいようですが、あなたはいいのですか?」
と聞くと、年子は
「父は将来有望なら誰でもいいのですわ。私も暮らしに不安がなければ誰でも構いません。」
時平は少し眉をひそめて
「あなたには少しでもいいと思う人がいないのですか?」
「思っていても父の言うなりに婿を取るので、私の意志は関係ありません」
時平は寂しい人だと思った。
そして
「では、私があなたを娶っても、あなたを愛する必要もないということですね?生活さえ面倒を見れば」
と聞いた。
年子は少し笑って
「初めてお会いしたのに愛するなどとおっしゃっても。一緒に暮らすうちに情が芽生えればそれで構いませんわ」
と言った。
時平は年子の割り切った考え方が気に入った。
年子が気働きがよく、娶れば楽ができるとも思った。
「では、あなたを妻にしましょう。正室はすでにいますがそれでもよろしいですか?」
「ええ。あなたは父の考えていた第一の婿候補でしたから。喜ぶと思いますわ。」
「もうひとつ、私はおそらく、この先もあなたを愛することはないと思いますがそれでもよろしいですか?」
ここではじめて年子は表情を変えた。
「なぜ?先のことは今わからないでしょう?すでに私を見限ったのですか?この短時間に?」
と驚いて言った。
時平は余計なことを言ったと後悔した。
そして
「そうでしたね。まだ先のことなどわかりませんね。」
と訂正した。
時平は年子に求めるものがあまりにも恋や情とかけ離れていることを、本人には言うまいと思った。
しっかりものの信頼できる侍女を手に入れたかった。
「では、さっそく肩などを揉んでくださいませんか?」
と時平が言うと、年子は黙って肩を揉み始めた。
時平は年子の手を取り押し倒した。
年子は流石に
「こんなにすぐにですの?」
と焦って言うと、時平は
「後朝の文も送るし、三日通って三日夜の餅もちゃんと食べますよ」
とめんどくさそうに言った。
年子は時平があまりにも無関心に一生の事を決めようとしていることに驚いた。
そして、この冷酷そうな表情の下で何を考えているのかがわからなかった。
『この人は生涯一度でも誰かを愛することがあるのだろうか』と思った。
時平が世間では色好みだと噂されているが、こんなに素っ気無く扱われているのは自分だけなのかと訝った。
それとも、時平は必要であれば睦言をささやけるのだろうか?
年子には睦言をささやく必要がないと考えているのだろうか?
年子はさすがに、こういう形の婚姻を想像していなかった。
それなりに夫が愛してくれると思っていた。
行く末が不安になった。
時平はこうして年子を妻にしたが、すぐに自分の用意した屋敷に年子を引き取った。
出世欲に燃える舅となるべく顔をあわせずにすむようにした。
普段は正室のいる屋敷に帰るが、子供が煩わしいときには年子のいる屋敷に帰った。
年子は娶ってみると思ったより一緒に過ごして楽だった。
時平が一人にしてほしい気配を察すると邪魔しないし、何か用事を頼んでも完璧にこなした。
無駄に嫉妬もしないし、時平に何かをねだったり甘えたりすることもなかった。
時平は思い描いた通りの生活に満足した。
年子は、時平と暮らすうちに少しずつ理解した。
時平が冷酷そうに見えて実は細やかな気配りをしている人であることや、傷つきやすい面があることがわかった。
とくにある文を受け取って読む時は、時平の表情が驚くほど優しくなるのを見た。
長い文のほうはすぐに燃やし、短いほうの文を何べんも読み返していた。
何べんも読み返すうちにはじめは穏やかだった表情が、だんだん険しくなり、最後はいつも酒を持ってくるように年子に命じた。
酒を飲みながらも繰り返し読むと後は懐に入れて年子の元へ来るので、年子が衣を脱がせると、文が落ちた。
文を拾って読んでみると、可愛らしい文字で近況報告なようなものの後に、
「兄さまに会いたいです。」
とあった。
年子は時平の妹が何人かいたことは知っていたが、これほど親しい妹がいたことは知らなかったので、時平に
「この妹は誰なの?随分親しそうですね」
と何気なく聞くと、時平は苛立った顔をして
「誰でもない!捨てろ!そんな文」
と怒鳴った。
年子はあれだけ何度も繰り返し読んでいたのにおかしいと思って、捨てずに文箱にとっておいた。
時平は次の日、目覚めると慌てて、
「年子!あの文はどうした?本当に捨てたのか?」
年子はやっぱりねと思って
「机の文箱にいれてあります。あなたの大事なものを捨てませんわ」
と言ったが、本当に妹かしら?想い人ではないのかしら?と疑った。
疑ったが何も言わなかった。
時平が唯一、年子をほめるのは
「年子といると何も言わなくても察してくれるから、居心地がいい」
だったからだ。
しかし、年子も時平を理解するにつれ、愛情のようなものが湧いて、その『妹』に嫉妬を覚えた。
文を読んでいるときの幸せそうな表情は時平が誰にも見せない顔だった。
年子は時平がなぜ文を読んで最後には苦しんでいるのかがわからなかった。
まだ生きている想い人なら、誰であれ、時平の恋人にできただろうに、なぜかいつも苦労して忘れようとしているように見えた。
禁断の恋?と思ったが、血のつながった全ての妹たちの話は聞いたことがあったが、そんな雰囲気ではなかった。
そして、もし、その『妹』との恋が叶ったとしたら、年子を含めたすべての女たちを時平は捨て去るであろう予感がした。
時平の冷酷な一面はそれを何とも思わないだろうと感じた。
その結末を年子はやはり望んではいなかった。
時平からたとえ愛されなくても、少なくとも側にいてくれる今を、年子は手放すことはできないくらいには
時平を愛していた。
藤原時平が右近衛大将で中納言(検非違使別当・左衛門督・春宮大夫を兼任)だった893年~896年(時平22歳~25歳、浄見10歳~13歳)までの出来事を「右大将物語」として番外編を書きます。<Ep8:白玉か露か>のはじめの方です。




