Ep2:陽成乱心
<Ep2:陽成乱心>
時平が定省王に仕えはじめた同じ年の882年、時の帝は陽成帝であったが、皇太后(帝の母)藤原高子(ふじわら の たかこ)は太政大臣藤原基経(時平の父)と同母の兄妹であるのに大変仲が悪かった。
原因の一つに藤原高子と在原業平(ありわら の なりひら)の関係が挙げられる。
時を戻して859年、当時の太政大臣・藤原 良房(ふじわら の よしふさ。基経を養子とした基経の叔父)は、
高子を17歳で五節舞姫にしたにもかかわらず、高子は入内前、業平と深い関係になり、それを苦々しく思った藤原 良房は悩んだ末、25歳でやっと清和天皇に嫁がせた。
基経はこの奔放な妹が皇太后という権力を得た今、何を仕出かすか心配でならなかった。
現に高子は基経の意に反して在原文子を重用し基経を軽んじた。
高子のやり方に怒りを覚えた基経は、清和天皇の譲位の詔において、基経の摂政は陽成帝の親政開始までであることを理由に自宅に引きこもり一切政務をとらなかった。
それによっておこる政局の混乱があたかも基経に楯突いた高子の責任であるかのように見せた。
基経の異母妹・藤原淑子(ふじわら の よしこ)は結婚直後に宮廷に出仕し、今では正三位に叙せられていた。
淑子は基経に
「陽成帝が元服なさり親政をはじめ遊ばした今、皇太后はご自由なお振舞を控えなさるでしょうか?」
とささやいた。
「何とか帝にご退位願わねばならんのう。淑子、策はないのか?」
「ではまず時康親王を一品に叙して親王の筆頭となさるがよいかと。」
「ほう。時康親王を後釜に据えよとな?・・確かそなたは時康親王の第七王子・定省王を猶子(ゆうし。養子のこと)とし、橘広相の娘である義子を養女を迎え、定省を娶せたと聞くが・・・ゆくゆくは定省を皇位につけることが狙いか?」
「兄上にはお見通しでございますのね。では定省王の刀を借りて事をなすがよいかと存じます。
かの人はそれぐらいの危険を冒す覚悟をお持ちですわ。」
「ふ~む。玉座が手に入るとあらばその程度のことはしてもらわねばのう。こちらの苦労も浮かばれぬわな。
ではそのように伝えよ」
その年、時康親王(光孝天皇)が一品に叙せられ親王の筆頭となった。
定省王は王府に時平を召した。
「平次。基経殿に言付けを頼む。例の件わかったとな。そして、口の堅い有能な薬師の手配を頼むと。」
時平は父・基経と定省王との例の件は知らなかったが、薬師の手配はあの赤子と関係があるのかと思い
「承知いたしました。・・・・薬師はあの赤子の・・」
と言いかけて、僭越かと思い直した。
「何だ。言いたいことは言え。」
「いえ、あの方は今、どうしていらっしゃるかと。できれば、お目通り願いたいのです。」
「はっはっは!あの姫のことか?息災だよ。乳をよくのんで丸々太っておるわ!何?気になるのか?まぁいい、会わせてやろう。そなたにはこれからも世話になるかもしれんからの。」
時平はあの赤子が『姫』であることも今知った。
「ただし、あの姫がここに居ることやどこから連れてきたかは誰にも漏らしてはならん。そなたの父にもな。」
時平は父から定省王に仕えるよう命じられたのに、定省王と父の間でも秘密があるのに少し驚いた。
基経は忙しく、時平と話す機会も少ないため、『初仕事』について幸い父には何も伝えていなかった。
「承知いたしました。」
時平が乳母から姫を手渡されて両腕で抱き、乳臭い頬の匂いをかぐと、何とも言えない幸福感が胸を満たした。
わが子ならもっと愛おしいのか?と思いながら、自分が意外にも子供好きだと分かった。
窮地を一緒に乗り越えた同士であるからか、単純にむちむちとした手足や柔らかい塊が抱き心地よいのか、
この姫のためなら我が身も惜しくないと思うほど情がわいた。
「平次どのは、何時でもいらして姫の面倒を見ていただいて構わないと王が仰ってました」
「それはありがたい。ところで乳母どの、姫は薬師が必要なのか?」
「いいえ。今のところ、どこもお悪くありませんが。なぜ?」
「そうか。いや何でもない。では別の件だろう。今度来るときは何か玩具をもってこよう!果物は?食べれるのか?」
「まぁ!お気の早いこと!まだ乳しかのみませんよ。ほっほっほ。」
姫は浄見と名付けられた。
基経の出仕拒否が収まった883年11月頃、
定省王は陽成帝の乳兄弟である源益(みなもと の まさる)に近づいた。
「そなたは帝の乳兄弟であるのに身分が低いままであるのはおかしいな。
そういえば噂で、帝がそなたは頭が回らぬばかりか力も弱いと仰ってたとか」
「私はただの乳兄弟であるので、身分が低いのは当たりまえです。
恐れ多くも帝に劣るのは全ての民において当然ではないですか?」
「忠義な飼い犬め。」
定省王は、低くつぶやいたがこう付け足した
「それと、そなたの母の乳の味は下品で不味いとも仰ってたぞ!はっはっは!」
それを聞いた源益の顔色はみるみる怒りで真っ赤になった。
源益は陽成帝のいる清涼殿にずかずかと入り込み、殿上間に伺候する公卿たちの呆気にとられた顔も無視して、帝の前に立った。
定省王も源益についていった。
陽成帝のそばには藤原基経がおり、政務について話し合っていた。
基経はあきれ顔で
「主上、このような簡単なこともお間違いになるようでは親政なされても先が思いやられますな」
といい、陽成帝は苛立った表情をみせた。
源益は割って入って
「主上、失礼仕りますが、許せぬことを申す者がおりまして、真偽を確かめとう存じます。」
陽成帝は基経に下がるよう合図を出し基経は立ち去るとき
「周りの者が愚かであるから主人もそうなるのかの・・・」
と聞こえるか聞こえぬかぐらいの声でつぶやいた。
陽成帝は苛立ちを隠さず源益に怒鳴った
「源益!何のことじゃ!無礼にもほどがある!お前のような愚か者がおるから朕が基経にあのようにバカにされるのじゃ!」
定省王はすかさず陽成帝に耳打ちした。
「何?そんなことか。本当のことであろう。そなたの母のような太った女は品がないということじゃ。」
源益は怒りのあまり反射的に言い返した
「では、皇太后さまの乳はきっと浮草のお味でしょうな」
陽成帝は怒りに打ち震え
「おのれ!!」
と言って源益に殴り掛かった。
怒りに任せて十数発も殴ると、源益はぐったりして動かなくなった。
定省王が陽成帝を制し、源益を介抱して言った
「主上、息がありません。」
さすがに陽成帝もうろたえて
「殴ったぐらいで死なぬ!いますぐ薬師に見せよ!」
定省王はもう一度源益の呼吸と脈を確かめ首を横に振った。
「基経を呼べ!やつの指示を仰げ!」
真っ青な顔でそう命じ、陽成帝は寝所へ逃げ込んだ。