Ep15:道真怨嗟
浄見に会えないので、時平は仕事に打ち込んだ。
この頃の時平の業績は以下である。
『902年荘園の新規設置を取り締まり、違法性のある荘園を停止させることで、公領を回復させて国家財政の再建を目指した荘園整理令が発布された。
この荘園整理令では、醍醐天皇が即位した寛平9年(897年)以降に開かれた勅旨田の廃止、地方民が権門や寺社に田畑や舎宅を寄進することの禁止、権門や寺社が未開の山野を不法に占拠することの禁止などが挙げられている。
また、土地所有者には相伝された公験の保持を義務付けるとともに、本来賦役令によって租税・課役の免除申請の権利を有していた国司が、土地所有者からの立荘の申請を受け付けることとなった。
これらの法令は違法な荘園を整理するとともに、国衙による国内の土地への管理権限を強化することとなった。
同時に、成立の由来がはっきりとしていて、かつ国務の妨げにならない荘園は整理の対象外としており、この方針は後の整理令にも受け継がれている。
また、この時期に「所領」「領主」などの概念が生み出されたのも、この時期に班田制が崩壊していく中で公験などの正規の文書によって土地所有者とされた者がその土地の用益権を持つことが管理権限を有する国衙によって認められたことの反映であるとみられている。
史料上で最後といわれる班田を実行した。
また『延喜式』の編纂を行った。』
つまり、税収を上げるために荘園を整理し公領を回復させ、その土地を班田し民に耕作地を与えた。
自分を含めた貴族達の私腹を肥やすより国家の税収を優先した。
時平の冷酷で無愛想な我慢のできない性格は、菅原道真派閥の恨みをあてこする格好の対象になった。
特に道真と親交の深かった弟・忠平は事あるごとに
「菅公が兄・時平の非道な仕打ちを恨んでいる。死んだら怨霊になって呪ってやると菅公が言っていた。濡れ衣を着せられた菅公が気の毒でならない。」
と言いふらしていた。
忠平は宇多上皇から皇女を降嫁されており、この皇女は菅原道真の孫であるから、三者の関係は深かった。
もし、時平が道真の怨霊に呪われて死にでもしたら、政治の実権は忠平に移るのだから、噂を流して損はなかった。




