EP100:清丸の事件簿「底闇の灯火(そこやみのともしび)」 その3
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堀河邸に帰り着いた廉子は糸毛車から降り自分の対の屋へ渡りながら、さっき小路で時平と一緒にいた侍従の恰好をした女子について思い出していた。
そして、侍従のなりをさせてまで連れて歩きたいほど寵愛するとは一体誰なんだろうと考えた。
過去に数多いた遊び相手の女房の一人なのか、『それとも』と考えた。
時平と初めて結ばれた日を思い出した。
あれはまだ霜が降りる季節の寝待月の夜。
夜気がチクチクと冷たい痛みで頬を刺すのを我慢しながらあの人を待っていた。
父さま(人康親王)のすすめで一度御簾越しにその姿を見て以来、うつむきがちで言葉少なに話す知性のにじんだ言葉や、筆で素早く引いたような涼やかな切れ長の目元、細い真っ直ぐな鼻梁やくっきりとした顎の線、大理石のように滑らかな額、酷薄そうな固く結んだ薄い唇まで、すべてが魅力的で心を奪われ、この人と結ばれたいと願った。
関白殿の思惑が混じった家同士の結びつきのための政略結婚であろうとも、椿の成長のようにたとえゆっくりでもお互いの尊敬と愛情をはぐくんでいければいいと思っていた。
結ばれた後に知ったあの
「他に想い人がいる」
という告白を廉子は今、唐突に思い出していた。
時平が宮中の女房と数えきれないほどの浮名を流していても今ほどその記憶を刺激されたことはなかった。
今あの侍従姿の女子が十六として八年前のあの頃は・・・まだ八歳。
フフフと一人で笑い、『それはあきらめるしかなかったわね』と納得した。
彼女の面影を自分に重ねたことも今ならはっきりと理解できた。
『わたくしでよければ身代わりに抱いてください』と言ったのは自分だったのに、本当に身代わりだったと気づいた今は時平の執念に呆れたし、何も知らずにいた自分の愚かさにも呆れた。
時平の足がこの屋敷から遠のいたのはほんの一年ほど前からだから、そのころから二人は付き合いだしたのね。
同時に宮中での女遊びの噂もぱったりと途絶えた。
『私の幸福な時期は過ぎ去ったのだわ。そして二度と帰ってこない。』
と廉子は思った。
庭であの時の凍りかけた椿の花がボトリと重い音をたてて落ちたのが聞こえたような気がした。
一番最近、時平が堀河邸に帰ってきた三日前のことを廉子は思い出した。
そのときはまだ侍従姿の女子の存在を知らずにいたが、宮中での女遊びがおさまったという噂は誰かからずっと以前に聞いていた廉子は着替えを手伝いながら何気なく
「近頃はお忙しいんですか?
なぜこのところ家でゆっくりお休みにならないの?
着替えに帰っていらしてすぐに出仕されるでしょう?子供たちも寂しがっているわ。」
と非難を言葉ににじませないよう注意を払いながら明るい声で尋ねると
「ああ、そうだね。やることが多くて忙しくてね。子供たちにもあなたにも申し訳ないと思っている。」
と目を泳がせながら呟くので廉子はわざと満面に笑みをたたえ
「いいえ!申し訳ないなんておっしゃらないで!
でも今度の節句は我が家でも宴を催したらどうかしら?」
時平は廉子のいつもと違う上機嫌に何かを察したらしく目を伏せ
「あの・・・あなたにも言っておかなければならないとずっと思っていたんだ。
実は半年ほど前から・・・」
廉子は醜い毛虫を胸元に投げ入れられたような激しい嫌悪に襲われ反射的に
「やめてっ!聞きたくないわ!何も言わないでっ!」
と叫んで拒絶した。
時平は驚いた顔で廉子を見つめていた。
しばらく見つめていたがそれ以上は何も言わず出かけようと決心したらしく、そのまま立ち去ろうとした。
が、少し離れて立ち止まり申し訳なさそうな声で
「あなたには感謝している。
家のために、私のために結婚してくれて子供たちを産んでくれて。
そのことだけでもあなたには返しきれないくらいの恩がある。
だから今後のことは今まで通り・・・できるだけ今まで通りにするつもりだ。
ただ・・・」
と言いかけて振り向くと廉子が耳を塞いでうずくまっているのを見て、ゴクリと言葉を飲み込み立ち去った。
時平が充分離れたことを確認すると、廉子はやっと声を出して泣くことができた。
全身を震わせる嗚咽に次々と襲われながらも
『あの人の口から聞かなければ、存在を認める事にはならない。
知らなければまだ、まだあの人は私のものだわ!
どこの馬の骨ともしらない女に奪われるはずがない!
今までだって私のもとにきちんと帰ってきたじゃない!』
と自分に言い聞かせようとした。
『でも何と言ったの?
感謝している?ですって?
恩がある?今まで通り?
ってこれからは何が変わるというの?
あぁっ信じたくない!何も信じたくない!あの人のいうことなんて全部嘘だわ!』
と袖を濡らし続けた。
そんな風に泣き崩れ、絶望し続けたことを思い出し、フフフとまた自嘲気味に笑い、今の自分が泣き崩れる気力もないことやあの女子の輝くような美しさを思い出し、女性として下り坂に差し掛かりはじめた自分と比べ、どうあがいても時平の心が二度と自分と交わることがないと実感しあきらめがついた。
着古し、何度も洗われ、日光に曝され、色が斑に抜け落ちた衣でも、洗いたての清潔さが清々しいように、時平とともに過ごした十年近くの歳月で廉子の想いは充分に酬いられていると感じた。
とても幸福だったという思い出で満たされていた。
これからの歳月が夫の愛で満たされずとも、子供と過ごし成長を見守ることができる今の環境は何よりも得難い幸福な日々だと考えることにした。
絶望の底にある闇の中で子供という一点の灯火が何よりも心の支えになった。
(その4へつづく)




