Ep10:更衣入内
醍醐天皇の更衣として時平の妻の妹(源昇の息女)が入内し、椛更衣と呼ばれた。
椛更衣付きの女房・伊予として浄見が宮中に出仕した。
もちろん伊予の素性は時平しか知らない。
この時、時平二十六歳、醍醐天皇十二歳、時平は後宮でも天皇のよき指南役といった感じだった。
この時代の後宮では殿上人達が女御や更衣といった天皇の妃たちの女房と歌を詠みあい情を交わすなど割と気軽に行っていた。
ときには天皇の妃たちとも・・・。
時平は椛更衣に、取り次ぎなどの、公達と直に接する役目を伊予にさせないようにと言いつけた。
なるべく奥の仕事を与えよと。
いくら有能でも「浮名の数が勲章」である軽薄な公卿などではなく、目立たなくても妻一人を大事にするような堅実な官人に嫁いでほしいと時平は思った。
我が子のように見守ってきたのだから当然の親心だと思った。
誰を選んでも認めることができるかどうかはさておき。
伊予が宮中に出仕して2週間もしたころには椛更衣付きの女房に姿をめったに見せない美人がいると噂になった。
時平は苦々しく聞いていたが、帝に
「朕も見てみたいので時平、一緒に椛更衣のところへいってくれ」
といわれしぶしぶ承知した。
一番北西の雷鳴壺まで、帝に御供すると、几帳の後ろに、女房がひしめき合う気配を察した。
座につくと帝が
「時平を連れてくると女房が増えるので連れてきた。
姫の女房に伊予という美人がおるのでしょう?
朕は見たいのだ」
椛更衣は
「伊予はただいま体調を壊して、寝込んでおりますゆえ、ご容赦くださいませ」
時平はこれが本当なら心配になったが、帝に見初められても困るのでよしとした。
「では、私はお先に失礼致します」
と座を立とうとすると、「きゃっ」という声とともに几帳の帷を押しだされた女房が転がり出た。
時平はすぐさま手を差し出してその女房を助け起こし
「帷一枚ではあなたの美しさは隠せませんね」
こんな遊び人の常套句も長年宮中にいるとさらりと言えるようになるのだが、このときは黄色い悲鳴とため息が入り混じった声が響いた。
一方このころ、浄見は奥で寝ていた…わけではなく、実は几帳の影にギュウギュウ詰めになってる女房の一人だった。
宮中で見る時平は、雑色姿の平次兄さまとは違って、パリッとした直衣姿で、一段と凛々しくきりりとした公達で、他の女房が憧れるのと同じように浄見もうっとり見惚れていた。
時平を見るのは浄見が出仕してから初めてのことだが、これまでにも女房同士の噂では今一番浮名を流したい殿上人として不動の人気を誇っていた。
時平の足音が遠ざかるのを聞くと、浄見はつくづく
「一緒に遊べた頃が懐かしいなぁ・・・」
と思った。
女房の仕事は雑用なので、難しいものはなかった(させてもらえなかった)が、時平に簡単に会えないのが一番の悩みだった。
どうして妻にしてくれないのかしら?と浄見はまだ怒っていた。
もちろん時平との関係は秘密なのでそんな愚痴は誰にも言えなかった。
同僚の女房が文を届けてくれたので読むと
「今夜の取次番になるように」
と書かれていた。
浄見はわくわくした。
御簾の内側で訪問者を主または女房に取り次ぐ役目も女房の仕事の一つだが、時平に禁じられていたので浄見はこれまでしたことはなかった。
その夜、御簾越しに夜空に浮かぶ月をぼんやり眺めていると
「伊予殿に御取次を」
という声が聞こえた。
浄見は答えたほうがいいのか迷ったが
「私が伊予でございます」
と答えると、御簾がめくられて時平が顔を見せ、
「月がきれいだから、出て来て一緒に見ない?」
と誘った。
浄見がドギマギして御簾から外へでると
「体調が悪かったのって本当?」
「帝に私を会わせないように椛更衣さまが言ってくださったの」
「よかった。」
と時平はにっこり笑った。
浄見は時平の笑顔を最後に見た日を思い出せないぐらいもう長い間、こんなに打ち解けたことはなかったと思うと、嬉しくて涙がこぼれた。
出仕してよかったと思った。
時平は浄見が泣き出したのを見て、笑顔からしかめ面になり、
「どうしたの?なぜ泣いてるの?」
と狼狽えた。
「平次兄さまは泣くといつもご機嫌を取ってくれたけど・・・あれって甘やかしすぎじゃない?」
と浄見は涙を拭きながら言った。
「本人が言うな。泣かれると焦るんだよ。何とかしないとって。」
浄見は悪びれず
「あれは作戦だから、そんなに気を使わなくていいの。」
時平はまたにっこりとして
「そうなの。わかった。じゃあもうひっかからないぞ。」
浄見は打ち解けてくれる平次兄さまが昔に戻ったような気がしてうれしい反面、どう考えても子ども扱いなのが気になった。
「兄さま、今日助け起こした、有馬さんとお知り合いなの?」
「そういうわけではないけど、ああいうときは無視できないんだよ」
「ふうん。すごい遊び人っていう雰囲気だった。」
「浄見の中ではあれくらいでもう好色漢ってこと?」
「じゃぁそうではないのね。兄さまは。ん?」
と言って顔を覗きこまれた時平は、また息苦しさを覚えて
「あのねぇ、あれぐらいは挨拶です。浄見も公達の誘いとかあるでしょ。それの断り方は粋じゃないとね。」
と言って目を逸らした。
「誘いを受けるときは何というの?」
浄見が面白がって聞いた。
時平は遊ばれてる気がしてイライラした。
「歌とか引用すればいいんじゃないの?」
とちょっととがった声になった。
「兄さまは、もっと誘ってくれないの?」
真面目な声で浄見が言った。
浄見は口に出した後で後悔した。
「ごめんなさい。調子に乗りました。忘れてください。」
時平が眉根をよせて
「謝ることはなにもしてないよ。なぜそんなこと言うんだ。」
時平は、浄見に謝らせるような態度をとった自分に腹が立った。
どうして大人の対応ができないんだ。
なぜ浄見の前ではこんなに余裕がないんだ。
自問自答しても答えを見つけようとしなかった。
余裕のある大人ぶることだけが自分のとるべき道だと思った。
浄見は時平がいつも話の途中で苦しそうな表情をすることが気になった。
自分と話すのが苦痛なら好きになどなってもらえない。
この恋に見込みはなかったのか。
どんどん落ち込んだ。




