Ep1:赤子誘拐
<Ep1:赤子誘拐>
時平は両手で赤子をしっかりと抱えながら、片割れ月の薄闇の中、木々の間を抜け疾走していた。
数刻前の主君の命令を思い出しながら。
「時平・・・いや、これから私用の時は平次と呼ぶことにしよう。」
「はっ。かしこまりました。」
「平次、そなたには赤子をさらう度胸はあるか?」
平安の頃、時康親王(ときやす しんのう。後の光孝天皇)の第七王子・定省王は御年15でありながら、その落ち着きは老年の諦観を、その眼光は壮年の精悍をたたえていた。
「ご命令とあらば、必ずやりとげます。」
父に太政大臣・藤原基経(ふじわら の もとつね)をもつ藤原時平(ふじわら の ときひら)は、計り知れぬ知略と野望を持ったこの定省王に仕えるように父に命じられていた。
「よい。ではこの地図にある屋敷から、昨日生まれたばかりの赤子をさらって『生かして』ここに連れて帰るのだ。わかったか?」
「はいっ。しかし・・・」
時平は『生かして』の意味を図りかねた。
「赤子を殺そうとする追手があるかもしれぬ。その一つは確実にわが父の手の者だがな。」
定省王はにやりと含み笑いをもらした。
「わかりました。必ず無事に赤子をお連れ申します。」
父の跡を継いで将来は比類ない位を極めることを、自身も周囲も期待しているこの12歳の少年にとって、
初めての仕事にしては無謀すぎたが、彼の自負はその無謀さに引けを取らぬほど強かった。
父君の 時康親王 が命を狙う赤子を定省王はなぜさらって連れてこいというのか?
などという疑問は口に上らせることもできぬほど、仕事を無事にやり遂げることに精神を集中させていた。
「手練れのものを2・3お貸しください。私一人では難しうございます。」
素直に自分の力不足を訴え、確実にやり遂げる方法を模索した。
「よし。では手配するから、早速向え!」
時平は地図にある屋敷の縁から入って蔀を少し持ち上げて母屋に入ったが、不思議なことに几帳を一枚隔てたすぐそこに、
褥に寝かされ衣でくるまれた赤子がいた。
門に見張りも母屋に乳母もおらず不用心極まりない屋敷であった。
時平は頚から三角に吊った風呂敷の中に赤子を入れ、さらに右腕でしっかりと抱いた。
林に差し掛かろうとすると、後ろから幾人かがつけてくる気配がした。
時平は、供として手配された手練れたちに目配せし、手練れたちが刀を抜いて追手を威嚇した。
追手は矢を放ち、時平ともども赤子を射殺そうとした。
時平は赤子を抱えながら矢をよけ、必死で走ったが赤子は火が付いたように泣き始めた。
「私ともども殺そうとしている・・・。赤子をさらいに来ることは折り込み済みで、なおかつ赤子の死亡の罪を私に着せたい者がいるのだな」
それが定省王なのか時康親王なのか、またはそれ以外の勢力なのかはわからなかったが自分が陰謀の渦中に巻き込まれつつあることを肌で感じた。
泣き叫ぶ赤子を抱え、それでもようやく定省王の屋敷にたどり着くと、乳母が手際よく赤子を受け取り奥へ下がった。
「ご苦労であった。追手に付けられてはおらぬか?」
「手練れたちが足止めをしておりましたゆえ。大丈夫かと思います。」
「ふむ。初仕事にしては上出来だ。下がってよい」
定省王は片方の口の端だけを上げてニヤリと笑いながら言った。
時平は今まで大事に抱えていた赤子のぬくもりが急に途絶えたことにまだぼんやりしていた。
今までこれほど何かを大事に思ったことはなかった。
極限の緊張の中で、守るべきものがあるという意識だけが時平の精神を支えていたが、それが急に開放され、
なんだか広い草原の中にポツンと一人取り残されたかのような不安に襲われた。
その赤子が誰なのか、強く知りたいと思ったが主君に対等に質問できるほどの信頼はまだ得てないと思った。
呼吸と脈の乱れが整うとともに思考も安定を取り戻し、これからいくらでも調べる機会はあると思い至った。