83 島の男
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「ノリス、着替えはいい」
コルセットの紐を丁寧に外していたノリスを、制止すると、エイヴェリーはシャツを着てベストを身に着け始めた。
「坊ちゃま、どうされました?」
「屋敷の方に行くよ。あいつにひとこと、言ってやりたいんだ」
「え、屋敷に行かれるのですか? あいつとは誰なんですか」
意味の分からない主人の言動に戸惑いつつ、ノリスは直ぐさまエイヴェリーのアスコットタイを締め直し、上着のホコリをサッと払う。
「ありがとう、ノリス」
エイヴェリーはスッと精霊になると宙を舞い、窓から外に飛び出した。それから人の気配のないところを選んで、屋敷に入った。
応接間の近くの廊下に現れたエイヴェリーに、屋敷のメイドが「ひっ」と潰れたような悲鳴を上げた。
人が壁を抜けて入り込んだ所は見ていないが、気がついたら突然現れた謎の人物である。声も上げたくなるだろう。
エイヴェリーはメイドを無視して応接間をノックした。そして許可がでる前にもにドアを開ける。
「ち――、オーウェン様、リーアム。その男だ――」
思わず「父上」と言いかけて、エイヴェリーは慌てて訂正した。そしてドアを閉める。この後の話はさっきのメイドには聞かせられない。
「その男が、客船からネヴェズ公を逃がしたやつだ」
三人が話ていた内容が何だったのか、エイヴェリーには分からない。しかしオーウェンとリーアムの表情が変わった所を見ると、エイヴェリーのもたらした情報は寝耳に水だったようだ。
正確にはオーウェンの顔から表情らしきものが消え、リーアムの全身からは強い緊張感が漂い始めた。
気の弱い人間なら、この二人に対峙しただけで怯えてしまいそうだ。しかし、群島の男は平然としていた。
エイヴェリーは改めて男を見た。
肌は日に焼け浅黒く、髪と目は黒に近い茶色。典型的な群島民の特徴を持っている。
目の下に大きな皺があるが、加齢によるものか、日にさらされた結果かは分からない。
そして男の全身からは、漲るような覇気が漏れ出している。
エイヴェリーは自分の背中が汗ばんでいるのを感じた。怒りで興奮しているからではない。男の視線に圧倒されているのだ。
「お前は――、ああ紹介はいい。ロベルタの娘が開いている店の従業員――、いや、共同経営者か」
男の言葉に、エイヴェリーは愕然とした。まさか、菓子屋の従業員の自分が知られているとは思わなかった。
男は入念な下調べをしてから、ラナンシに乗り込んだのだ。
ロベルタ商会にやって来たというのは、この男で間違いないだろうが、真の目的が分からない。醸す威圧的な雰囲気といい、闇取引をしたいだけの商人とはどうしでも思えないのだ。
「客船――と言うのは例の事件の話か? それに俺が関わっていると?」
「そうだ。お前が群島の船で客船に近づき、ネヴェズ公――元公爵や領事らを連れて逃げた」
「ほお、するとお前はあの客船のパーティー客だったのか。そして俺の姿を見たと?」
男が面白そうに話す。
どうやら、エイヴェリーが給仕として船に乗っていたことまでは知らないようだ。多分、エイヴェリーに関してはエリン通りの人々と同じ程度の知識しかないのだろう。
「ああ、見たとも。お前があの船を操っていたんだっ」
「見た」と言うのは、嘘である。肉眼はもちろん、精霊の目を通しても結界の外は見えなかったのだ。
しかしエイヴェリーは確信していた。
なぜなら、男の周りには海からやって来た金粒妖精たちがまとわりついているのだ。彼らがエイヴェリーに男のことを教えてくれた。
マクリールと名付けた海の妖精たちは、朝になると金粒に戻り、海の底に消えていった。彼らは夜の海の妖精で、日が昇り始めると光の届かない深海に潜むのだ。
海を縄張りにしている彼らが、陸に来ることは本来ならあり得ないのだが、この男は大量の昼と夜の海の妖精たちを引き連れて来た。
リーアムに森の妖精がついてきたのと同じである。妖精に愛されているのだ。
「ずいぶんと良い目をしているんだな」
男がふふんと鼻を鳴らす。
「それで、エイヴの言っていることは本当なのか、長殿」
リーアムがいつもより低い声を出す。ああ気持ちのいい低音だなあと、うっとりしながらも、エイヴェリーは重要な単語を聞き逃さなかった。
(おさ……どの?)
あまり聞かない敬称である。群島には島長、あるいは島守と呼ばれるリーダーがいるらしいが、各島で呼称も政治体系もバラバラだと言う。ラナンシのように帝国風の爵位がある島もあるとか、ないとか。
しかしリーアムがわざわざ長と呼んでいるのだ。相当の立場の人物だろう。
長と呼ばれた男は相変わらず余裕を持った笑みを浮かべている。
「ああ、事実だ」
(コイツっ!!)
怒りで全身の毛穴から何かが吹き出してきたような感覚に、エイヴェリーは襲われた。
妖精たちが怯えながら離れていく。
海の妖精たちは、男の後ろにサッと隠れた。まるで妖精が男の庇護下にあるようでエイヴェリーは気に入らない。
マクリールたちが船の周りを固めたのに、この男の操る船はやすやす金に染まった海の中に侵入してきた。
あの不可思議な現象も彼が海の妖精たちに愛されていたのなら、納得がいく。
妖精が見えなくとも、妖精に愛されて、無意識に妖精を従えてしまう存在があるのだ。それが、敵かもしれない人物だとすると厄介なことだ。
「なぜ隠していたのですか」
感情のない声でオーウェンが質問をする。
「言う必要はないだろう? あの時の依頼主は彼らだったが、約束は果たした。もうお役御免さ」
彼が頼まれたのは、客船が首尾良く結界をぬけられない時、ネイルやネヴェズ公らを小船に乗せて帝国領に連れて行くことだったようだ。
「連中との関係は切れた。もう関係ないんだ」
「そんなこと信用できるかっ」
自分でも訳が分からないくらいに激高したエイヴェリーは叫んだ。これでは外まで声が漏れてしまうだろう。
「エイヴ、君はもう帰りなさい」
オーウェンは厳かな声で言う。
気がつけば、執事がエイヴェリーの後ろに貼り付いていた。どうやら、部屋から出ろと言うことらしい。
(情報を伝えてくれてありがとう)
リーアムの優しい声が頭に伝わってくると、エイヴェリーは泣き出したい気分になった。
「無礼な振る舞いでした。お許し下さい」
頭を下げるとエイヴェリーは、執事に伴われて部屋を出る。
(ゴメンね、大きな声で君たちの友を怒鳴ってしまった。怖い思いをさせて済まなかった)
エイヴェリーは謎の男に対する不快感をグッと抑えて、海の精霊たちに謝罪した。




