74 妖精の悪用
「失礼いたしまっ……」
付き人はドアノブを回しながら、主の命に従わず、勝手に部屋に入ることを詫びようとした。が、最後まで話すことはできなかった。
ドアを開ける代わりに、体のバランスを崩して、尻もちをついたのだ。
ドスッという鈍い音と共に、うめき声が響く。
もちろん、妖精の仕業である。
エイヴェリーが使用人用のベッドにいながら、意識を飛ばして妖精たちに命じたのだ。
ルゥルゥたちのような比較的霊格の高い妖精は、物体を宙に浮かすことができる。つまり妖精の力を借りれば人間や動物も空を飛べるのだ。しかし、少しでも抵抗があれば、浮くことは出来ない。
足が突然地面から離れれば、ほとんどの生き物が本能的に抵抗するわけだから、妖精の力で飛ぶのは事実上不可能になる。(ただし、老侍女ノリスは除く)
いきなり足が浮いた付き人は、慌てて妖精の力に抵抗した。そして転んだのだ。
付き人は起き上がり、改めてドアノブに手を伸ばした。
(もう一回、飛ばしてあげよう)
エイヴェリーが妖精たちに命じると、付き人の足は一瞬に宙に浮き、こんどは前のめりに倒れた。おかげでオデコでドアを力強くノックする羽目になった。
「くっ…………」
大きな声を出すことなく静かに痛みに耐える付き人の姿は、正に高貴な人に仕える者の鏡である。
異様な事態に陥りながらも、冷静さを保とうとする彼の姿を見て、エイヴェリーは心底申し訳なく思った。
そして、上手く命令すれば妖精たちは悪気なく人を害することも出来ることに気付いた。
(今回は尻もちをついたり、オデコを打っただけで済んだ。だが、武器を持っている者たちに同じことを試したら――)
使用人用のベッドの上でエイヴェリーは頭を振った。
今、考えることではない。
付き人がなんとか立ち上がり、乱れた衣服を整えていると、部屋の内側からドアが開けられた。
「あの……先ほどの音は一体……」
怯えたような声を出したのは、部屋の主であるアシュリンだった。目元にうっすら涙を湛えていた。
付き人は、先ほどの泣き声はアシュリンのものだと思っただろう。
「お騒がせして申し訳ありません。あの……中で何が……」
「失礼致しました。私が少し取り乱して、あの……椅子に足をぶつけてしまいましたの。お恥ずかしい限りですわ」
アシュリンがそこまで言うと、ネイルが入り口までやってきた。
気脈を通じた者同士らしく、目配せをしてアシュリンを下がらせると、付き人を睨みつけた。
「お前こそ、先ほどから、なんだ? ばたばたと五月蝿いぞ。外で待機するのもまともに出来ないのか」
「はっ、大変申し訳ありませ――」
ネイルは付き人の言葉を最後まで聞くことなく、きつめにドアを閉めた。
付き人は、閉じられたドアの前で、ふうっと小さくため息をついた。
付き人の立ち尽くしている位置から、すこし離れた所に姿を現したエイヴェリーは、廊下から歩いて来たふりをしながら近づいた。
「お客様、先ほど物音がしたようですが、何か問題でもありましたでしょうか」
「ん? ああ、何もない。船が揺れたので驚いただけだ」
付き人は先ほどのおかしな現象を、船の揺れによるものと解釈したようた。
「作用でございましたか。あの、額が赤くなっているようですが大丈夫ですか?」
「ん? ああ、なんでもない」
「船内は揺れることもありますからね、そこで待機されるなら椅子をお持ちしましょう」
「ああ、頼む」
エイヴェリーは、一旦付き人のそばから離れると椅子を持ってやって来た。付き人が椅子に座るのを確認すると、一礼して、その場から離れた。
そして厨房に行き、軽食とお湯と炭酸水と例のハーブティーをワゴンに乗せて再び、アシュリンの部屋の前にやって来た。
廊下の付き人に軽く頭を下げたあと、ドアをノックすると内側からドアが開き、エイヴェリーはワゴンと一緒に部屋に入った。付き人はちらりとエイヴェリーを見たが、何も言わなかった。
「お飲みものをいかがですか? パンとビスケットもお持ちしました」
あくまで給仕として振る舞うエイヴェリーを、ネイルは睨みつける。
「あら、水とハーブティーしかないの?」
アシュリンが芝居ではなく、本当に驚いたように言う。
「申し訳ありません、本日、お出しできるのはこれだけなんです」
嘘ではない。明日の朝食用のコーヒーと紅茶を残すと、夜は酒類か水、ハーブティーしかないのだ。
それであちこちから苦情を受けたり給仕たちが頭を抱えて、厨房に駆け込んでいる状態なのだ。
「仕方ないわね、どうされます?」
アシュリンはネイルとポポロンの方を見て訊ねた。
「ハーブティーはいらん。水でいい。ポポロン、君は?」
「私も水で……」
ネイルの問いに、ポポロンは泣きはらした目で答える。表情は抜け落ち、声には張りがない。
本当に別れるのが彼女のためになるのだろうか?
精霊のポポロンに失恋の痛みを与えてもいいのだろうか?
エイヴェリーは、今更になって、そんなことをツラツラと考えた。
「私はお湯だけちょうだい、紅茶もないなんてあんまりだわ」
エイヴェリーの思考をぶった切るように、きびきびした声でアシュリンが言う。
炭酸水とお湯を入れ、さっと退出したエイヴェリーは、廊下の付き人にハーブティーを勧めた。本丸はこっちなのだ。
「はあ、そのお茶しかないんだろ? もらうよ」
付き人は諦めたようにハーブティーを受けとった。
「中の様子はどうだった?」
淡い琥珀色のお茶を見つめながら、付き人はエイヴェリーに聞いた。
「王子殿下とご令嬢がおられました」
「どんな話をしていた」
「いえ、何も。私がいる間は会話らしいものはありませんでした」
エイヴェリーの報告を聞くと、付き人は「そうか……」と、疲れたように呟いてから、ハーブティーを一口飲んだ。
「ワゴンを置いていきます。こちらをテーブル代わりに使ってください」
エイヴェリーはそれだけ言うと、一礼して去って行った。付き人の頭にはふんわりとした雲のような妖精がいる。エイヴェリーのそばですっかり強い力を持ってしまった眠りの妖精だ。
(彼は疲れている。しっかり眠らせてあげていいよ)
妖精に話しかけると、彼女はさらに膨張した。
付き人が意識を失うように眠りこけるのに、さほどの時間はかからなかった。
妖精たちが付き人の手から、カップをとりあげて静かにワゴンに乗せる。
(アシュリン、聞こえるかい?)
エイヴェリーは妖精を介してアシュリンに話しかけた。
(外の付き人は寝てるよ。聞き耳を立てるものはいないから安心して)
(分かったわ)
そんなやりとりを続けながら、エイヴェリーは使用人用のベッドルームに向かおうとした。
寝ているふりをして、船内を監視するのだ。
「君、ウィスキーがもうないんだ」
カードをしていた客に話しかけられ、エイヴェリーは仕方なく仕事に戻った。




