縒
「美月ちゃん、別れよう」
中等部卒業式の日に唐突にやってきた破局。山崎美月はこの瞬間に死んだと言っても良かった。
中高一貫の女子校に通い、高等部に上がってからはひたすら勉学に打ち込んで、親しくしていた友人とも距離を置いて、父親の経営している会社を継ぐための帝王学を学び、普通に高校生活を送っていれば手にしていたかもしれないモノを何一つ持たないまま大学へと進んだ。そこは大手企業経営者の子女が多数通う都内の名門大学であり、人脈づくりのためにそういった人たちと表向きだけでも仲良くなろうと努めた。
それでも中等部時代より楽しいと思ったことは一時たりともなかった。あの子と別れていなければもっと充実していたのだろうか……と何度自身に問うてきたかわからなかった。
大学生活最初の夏休み。同じサークルに所属する藤沢先輩から唐突にお誘いを受けた。
「山崎さん、良かったら一緒に競馬場に行かない?」
「競馬ですか?」
「実は私のお父様、馬を何頭か持っていてね。今度期待の馬がデビューするのだけどあいにくお父様が仕事の都合で行けなくなって私が代理で応援しに行くことになったの。そのついでと言ったら悪いけれど、一緒に応援しましょ?」
「私、競馬のことは一切わかりませんが」
「何も馬だけじゃないわ。馬主さんとの交流も競馬の一つの楽しみなの。馬主さんって大手企業の経営者に著名人と社会で成功された方々が多いのよ。そういう方々と触れ合うだけでもあなたにとってメリットじゃない?」
つまりはお手本にするべき人たちが大勢いる、ということ。私は藤沢先輩の善意に甘えることにした。
向かった先は札幌にある競馬場。藤沢先輩に飛行機のチケットや宿泊代と一切合切奢ってもらって恐縮の至りだが、きちんと成功者たちに顔を覚えてもらいなさいというメッセージだと解釈したので全く観光気分ではなかった。
競馬場の馬主席はドレスコードが定められていると聞いたので、私はそれなりに良いスーツを着用してきた。競馬場の中は綺麗で客層は意外と若く、カップル連れもいる。賭け事のイメージが強かったがこれにはびっくりした。
先輩と一緒に受付で馬主席章を貰って馬主席の方に向かうと、素人目でもそこはワンランク上の世界だとわかった。ガラス張りのスタンドからは楕円形のコースが一望できるし、ビュッフェコーナーは絨毯敷きでテーブルや椅子も高級なものを使っていた。
馬を見る前にまず藤沢先輩について回り、馬主さんたちにあいさつ回りをした。全く知らない人もいたが名前だけは知っている有名企業の経営者や、メディアで見たことがある方もいたから緊張した。藤沢先輩の父親は競馬界で有名なようで、娘のこともよく存じ上げている様子だった。その娘と深く関わっている私もそれなりの人間だろうと見て接してきたから全く気が抜けなかったが、私の父親に施された教育が活きてボロを出すことはなかった。
「さあ、次のレースでお父様の馬が出るからそろそろ行くわよ」
藤沢先輩について行った先はパドックと呼ばれる、要は馬を観客に披露する所だった。ここも馬主は専用のコーナーがあって間近で馬を見られる。12頭の馬がヘルメットをかぶった人たちに引かれてぐるぐると周回していた。後でこの人たちが乗るのかと思ったけど、彼らは厩舎の厩務員さんであって騎手とは違うと先輩に教えて貰った。競馬について全く何も知らない自分が少し恥ずかしかった。
「どう?」
「馬を近くで見るのは初めてではないですが、連なって歩いていると迫力がありますね」
「でしょう? で、あれがお父様の馬よ」
先輩が指し示した先には黒い馬がいて、4番の数字と「ヨリ」という二文字が書かれたゼッケンを鞍の下につけていた。
「ヨリ、ってこの馬の名前なんですか?」
「そう。『よりを戻す』の『より』から取ったらしいの。お父様が何でこんな名前をつけたのか私にもわからないけど」
と、藤沢先輩は苦笑いを浮かべた。ちなみにヨリの後ろにはキナコモチなんていう美味しそうな名前の馬がいたので、それに比べたらヨリが特段おかしい名前だとは思わなかった。
やがて「とまーれー!」という号令がどこからともなく聞こえてきて、様々な模様の服を着た人たちが出てきた。
「あの人たちが馬に乗る騎手」
藤沢先輩が教える。ヨリには青いヘルメットをつけた騎手が小走りで駆け寄っていき、ひょいと身軽にまたがった。再びゆっくり歩きだしてこちらに顔を向けたとき、つい、私は大声が出てしまった。
「璃々っ!?」
見間違うはずがなかった。四年前に別れて姿を消した山城璃々の顔が、現実にそこにあったのだから。
周りにいた人に白い目で見られているのに気づき、慌てて口を押さえて頭を下げた。
「ど、どうしたのいきなり」
「藤沢先輩、あの騎手の名前は山城璃々じゃないですか?」
打って変わって小声で耳打ちした。
「そうよ。あなた、競馬のこと知らないって言ってたのによくご存知ね」
「実は、私の元同級生なんです……」
「え? 詳しく聞かせてちょうだい」
山城璃々は中等部に入学した頃から特別視されていた。中性的な美貌と温厚な性格、頭脳明晰、しかもスポーツ万能だったからたちまちみんなの王子様となった。
スポーツ万能といってもどの部活にも所属せず、代わりに乗馬クラブに通い馬術競技の選手としてさまざまな大会に出ていた。全国大会にも出場経験があり、あのときの大会は地元で開催されていたから生徒たちが大勢応援に駆けつけてちょっとした騒動になった程だった。
私は奇跡的にというべきか三年間王子様と同じクラスで、苗字が山崎→山城の繋がりで出席番号がいつも連番だったから日直も常に一緒だった。おかげで仲良くなれたし、やがて恋心も抱くようになったが、熱狂的なファンに目をつけられることを恐れて気持ちを押し殺していた。
だけど三年に上がる直前に向こうから告白してきて、あのときは死んでも良いぐらい嬉しかった。たった一年で地獄に突き落とされるなんてこのとき思いもしなかったが。
恋人どうしだったことは伏せて、私は一切合切を藤沢先輩に話した。
「そうなの……女子校出身という異色の経歴とは聞いていたけどまさかあなたの学校だったとはね」
「騎手になっていたなんて私も知りませんでした。家の事情で他の学校に行かなくちゃいけなくなった、とは言ってましたが……」
当然、どの学校に行くのかは教えてもらっていなかった。最初の方は連絡はするからだとか、ちゃんと会いに行くからとか言ってはくれていたけれど。
「あなたに心配かけまいとしたんでしょうね。騎手になるには競馬学校に行かなくちゃいけないのだけれど、厳しい訓練と体重管理に絶えきれず退学しちゃう生徒も少なからずいるの」
「そんなリスクがあるのに何で騎手に……」
「雑誌のインタビューで見たけど、女性騎手の活躍を見て自分も騎手になりたい、と思ったそうよ」
そんな話も、恋人だった私ですら耳にしたことはなかった。騎手になりたいと匂わせるようなこともしたくなかったのかもしれない。気持ちはわかる。仮に私が競馬学校のことを知っていたら、必死で止めていただろうから。
私への配慮に加えて、私への未練を抱いたままだと騎手になれないとも思っていたのかもしれない。でもせめて、別れ際に一言私に本当のことを言ってくれても良かったじゃない。何て不器用な王子様なんだろう。
「とにかく、今は山城さんとヨリの勝利を願いましょう」
気持ちが落ち着かないまま、私は馬主席からレースを見届けることになった。
「山城さんは新人騎手の中でも一番上手いって言われているの。競馬学校を優秀な成績で卒業してるし、勝ち星も新人の中では今の所トップよ」
「そんなに……」
中等部時代の璃々の乗馬は確かに上手かったけど、騎手になってもそれが活きているようだ。
「あとは肝心のヨリの能力ね……二番人気とはいえ一番人気のマルノソレイユは超良血馬で相当強いって下馬評だけど、勝負はゴールするまでわからないもの。斤量4kg減を活かしてくれれば勝てるわ」
「斤量4kg減?」
「馬の負担重量のこと。このレースだと54kgだけど、女性の新人騎手は50勝以下だと4kg減の特典があるの」
「つまり、他の馬より身軽になれるんですね」
「そういうこと。さ、始まるわ」
ファンファーレが鳴り響いて、馬たちがゲートに入っていく。競馬場は広く肉眼では見えにくい向こう側からのスタートなので、ターフビジョンと呼ばれる大型ディスプレイで様子を確認した。ヨリはすんなりとゲートに収まった。
『全馬ゲートに入って……スタートしました。好ダッシュを決めたのはヨリ、先頭に躍り出ました』
場内実況の通り、璃々の乗ったヨリがいきなり先頭に立つ。遠目では小さく映る馬たちだが、その速さはバイク並だ。しかも50kg台の重量を背負って1000m以上走るというのだから、馬がいかにタフな生き物なのかを思い知らされる。
「さあ、このまま押し切って」
藤沢先輩が拳を握りしめた。ヨリは先頭をキープしたままコーナーを曲がり、手前側の直線に入った。馬たちが全速力で駆け抜ける様子が肉眼でもはっきりと見える。璃々が手綱をしごいてムチを振るう姿は私が知っている優雅な馬上の王子様ではなく、勝ちを目指して力を限界まで振り絞るプロのアスリートだった。
『圧倒的一番人気のマルノソレイユはまだ後方、果たしてここから届くのか! 依然としてヨリが先頭だがキナコモチがジリジリと差を詰めてきている!』
一番強いとされる馬に伸びがなく、代わりに変な名前の馬が肉薄している。私は全身に力をこめた。
「璃々ー!!」
ガラス越しの声援は聞こえるはずもない。だけどまるで璃々が、ヨリが応えたかのように、もう一伸びしたのだ。
『しかしヨリが再び突き放した! 1馬身リードを保ったままでゴールイン! 勝ったのは4番のヨリ、見事逃げ切り勝ちを決めました。鞍上はルーキー山城璃々騎手です!』
場内実況が勝利を告げる頃には、興奮した先輩が私の手を引いて再び馬主席から連れ出したのだった。
検量室と呼ばれる部屋の前に馬たちが集まってくる。ヨリが小走りで駆け寄ってきて、璃々が降りたところで声をかけた。
「璃々!!」
「み、美月!?」
目を丸くして私の名前を口に出す璃々。良かった、私のことをまだ覚えていてくれたんだ。抱きつきたかったけど、歓喜は素直に表さなかった。
「何で黙ってたのよ、このバカ!!」
私はヘルメット越しに璃々の頭を思い切り叩いた。そうしたらもうすでに枯れ果てたと思っていた涙がとめどなく溢れ出てきて、わあわあと泣き出してしまった。
そんな私の体を、璃々はそっと包み込んでくれた。
「言い訳はしないよ。自分のわがままを通すために君を裏切ってしまった。謝っても済まないことをしてしまった」
見上げると璃々の目元にも薄っすらと気持ちがにじみ出ている。
「本当にバカ! バカよあんたは……」
璃々の細身の体を強く抱き返した。あの卒業式の頃まで、私たちの時間が遡ったようだった。すぐさま咳払いが聞こえて現実に戻されたが。
「あの、ひとまず積もる話は後にしてね。記念撮影しましょうか」
藤沢先輩は顔を赤らめていた。
*
あれから私は女性騎手・山城璃々の追っかけとなって時間の許す限り応援に駆けつけた。騎手という仕事は多忙だから一緒になれる時間は少ないけれど、連絡は欠かさないようにしている。あのときみたいに毎日一緒というわけにはいかなくなったけれど、お互い前に踏み出すことはできた。
ちなみにヨリの初勝利の記念写真は私の部屋にも飾ってある。ゼッケンを手にした璃々に寄り添うようにして私が映っているけど、どっちも晴れやかな顔をしていた。
年末にはGIという大きなレースが控えていて、そこにヨリが璃々とのコンビで出場するという。藤沢先輩が言うには「お父様は他の騎手を乗せたかったみたいだけど私のわがままを押し通したわ」と。先輩には感謝してもしきれない。
青春時代に置き忘れてしまったものを、今になってようやく見つけることができた。レースが終わったら改めて、今度はこちらから告白し直そうと思っている。