迫真水泳部
「逝きますよ〜」真夏の部活動、シンガポールの短期留学から帰ってきた先輩にとっても、やはり日本の夏は不快なようだ。
蝉の声が響き渡る、屋外プールの沿ベンチで先輩はバテていた。
「やめてくださいよ先輩。こっちも死んでしまいます。」
「知らないうちに殺さないでくれよー頼むよー。」そんなどうでもいい会話を交えながら休憩をしていた。
しかし、僕の心は休まらない。彼女を好いているからだ。
最初は、先輩の技術を羨望しているだけであった。先輩のようになりたい。追い越したい。勝手にライバル視していた。
そんな僕にも先輩は優しかった。たくさん話しかけてくれ、面白く、そして美しい。声も可愛い。
単純な僕はすぐ恋に落ちてしまったのだ。
これが去年の10月のことである。
その後すぐ先輩は海外に行ってしまい、想いを伝えられなかった。いや、一ヶ月ほど猶予はあったのだから、自分に勇気がなかっただけなのだろう。
二週間前、先輩は突然戻った。家族や教師ぐらいにしか帰国を伝えていなかった。
明日は先輩の大会がある。シンガポールでも水泳を続けていたらしい。
「これが終われば、引退する。」
その言葉を聞いたのは昨日。いつも唐突な先輩だ。慣れっこではあったが、今回ばかりは焦った。その日は学校で模試がある。行こうにも行けない。
このままでは気持ちが伝えられず終わってしまう。言おうか、言うまいか。心拍数が高くなる。
ふと、先輩が言った。
「どうしたんだよ。浮かれない顔だな。」
当然だ。
「何か困ってることでもあるのか?相談乗るぞ?」
言えるわけないじゃないですか。数秒、蝉の声だけが響く。
「なんだよ。話せよ。」
一旦誤魔化すしかないか。
「少し…少し、進むべきかどうか…迷っていたんです。」
変だっただろうか。深刻に話す僕と打って変わって、先輩は気軽に返す。
「そういうときはよ、運任せとか、何か達成できたら進むとかやるといいんだよ。そうだな、例えば休憩終わったらお前、タイム測定あるだろ?あれで記録更新できたら、なんてどうだ。」
先輩の提案には、何故かすごく納得できて「いい案ですね。そうします。」
恋にうつつを抜かしていたとはいえ、水泳はずっとやってきたのだ。三ヶ月前の自分よりは、確実に上手くなっている。
休憩時間の終わりを知らせる顧問の笛が鳴った。
僕はタイム測定、先輩は大会の練習だ。
他のタイム測定の仲間が一人、二人とプールに飛び込み順調に自己ベストを更新していく。僕は五人目だ。心臓の音が聞こえる。三人目、四人目も更新。
僕の番。
体を絞り、飛び込む。クロールを無我夢中で、しかし冷静に、今までの練習を思い出しながら、折り返し…50m…どうだ?
顧問がタイマーを確認し、その手に持つ紙に記録を記す。
すぐに結果が知りたくて、僕は水から出て急いで顧問の側に向かう。
「35秒42!、お前、少し落ちたな。もっと頑張れよ?」
…終わった。それからのことは、あまり覚えてない。
先輩の大会も終わった。結果は準優勝。流石、先輩だ。
宣言の通り部活を引退し、大会後最初の部活動に先輩は来なかった。
ついに、想いを伝えられなかった。
いや、これでよかったのかもしれない。引退後は、受験勉強に専念するそうだ。そんな中で僕の存在は邪魔でしかない。これで…よかったんだ。
放課後、友人を先に帰し、一人で家路についていた。
まだ、時間が欲しかった。心を整理する時間が。
夕暮れ時に、ひぐらしが淋しく鳴く。赤く染まった空が広がる。ここまで赤くなるのかと思うほどだった。
これを背に道を行く。深く沈んだ肩を持ち上げるにはどうしたらいいだろうか。過去には戻れないのだ。ならばいっそ、先輩のことなど忘れて…
「おぅい。」
ふと、誰かを呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある、そう、僕の好きな、あの可愛い声で。
「先輩!?」
そう、これは先輩の声。
振り向くと、つい先ほどまでメラメラと燃え盛っていた夕陽は、てっぺんばかりしか見えない。
背景をこれにして、先輩は僕の方へ駆けてきた。僕の目の前で立ち止まり、ハァハァと息を切らし、膝に手のひらをつく。
「大丈夫ですか?先輩。」
「うん…大丈夫…。」
絶対に大丈夫なわけがない。先輩は水の中ではピカイチだが、陸の上では貧弱なことを、僕は知っている。
それから数分、ずっとその態勢を維持していたが、ついに頭を起こした。
「本当に大丈夫なんですか…。」
「あぁうん。もう本当に、大丈夫だから。」それならいいのだが。
とはいえ、今忘れる決心ができようとしたところなのに、絶妙なタイミングで来てくれたものだ。もう少し遅くに来てくれたなら。
日はとうに暮れ、黒い塗料が、あんなに赤かった空を上書きしていく。
「あおお前さ遠野さ、大会前日のあの日、何かを進むか否か、決め兼ねてたよな?」
やめてください。
「私もさ、おんなじように決め兼ねてたことがあったんだ。」
もう忘れたいんです。
「大会で上位3位に入ったら、しようと思ってた。」
先輩、やめて
「木村!」「あっ、はい。」
数秒、間が空く。
「お前のことが好きだったんだよ!」
空は暗く覆われた。
迫真水泳部