王都到着
「まもなく主人が参ります」
そう言って執事は、二人の前にティーカップを並べて置いた。
ベインは笑って、ありがとうございますと礼を述べた。ニーチェはカチコチに緊張して、頭を下げることしかできなかった。
ここは王都のコルザック・ベダンラ邸。邸内に招かれた二人は、まるでどこかの国の王室かと見紛うほどの、凄まじく豪華な応接室へと通された。
ルキズ村を出発してから、十日が過ぎていた。意気揚々と幕を切った二人の旅は、ニーチェが想像もしなかったほど過酷を極めたものだった。
二人が乗った、バールタウン発モール地方行きの汽車は、荒野を走る途中、巨大カマキリの群れに襲われた。魔虫ブラッドマンティスを駆る盗賊団、スピックレイダーの襲撃だった。
真っ赤な体色をした四本脚のマンティスに乗った盗賊たちは、疾風のように現れて汽車と併走し、車体に飛び移ってその内部へと侵入してきた。狩場と化した車内には乗客たちの悲鳴が響き渡り、あっという間に機関室までもが制圧されてしまったのである。
これを撃退したのがベインだった。
ベインは大斧を縦横無尽に振り回し、窓から通路から襲い来るスピックレイダーたちを次々と蹴散らしていった。車内の敵を一掃した彼は汽車の屋根に飛び乗って、コマのように回転しながら、矢継ぎ早に飛びかかってくる追撃部隊を片っ端から斬り伏せた。
破壊の大渦と化したベインを前に、盗賊どもは為す術もなくやられていった。そのままたった一人で戦うこと数十分。鬼神のごときベインの強さに戦意を削がれた残党たちは、ついに諦めて退却していったのである。
ニーチェはといえば、席の隅で手毬のように小さくなって震えることしかできなかった。
危機を脱した乗客一同だったが、汽車はそのまま走行を続けることは不可能な状態となっていた。スピックレイダーが機関室の動力部を破壊してしまっていたのである。
運転士から、とりあえずこのまま救援を待つしか手はないと言われたが、ベインはこれに同意しなかった。
「ニーチェさん、ほらほら、見てください」
ベインは、スピックレイダーが乗っていたブラッドマンティスを一匹捕まえていた。
マンティスは鋭い大鎌を振り上げてベインの首を切り落とそうとしていたが、何度か大斧の柄で顎をぶん殴られると、すっかり従順になって彼を新しい主人と認めたようだった。
「こいつに乗って、荒野を渡りましょう」
もちろんニーチェは断固拒否した。今にも獲物に食いつこうとするかのように顎をカチカチ鳴らしている化け物カマキリになど、その半径10メートル以内にも近づきたくはなかった。
「では私がニーチェさんをおんぶしましょう」ベインは真顔で言った。「それで私がこいつに乗る。それならニーチェさんは直接マンティスに乗っていることにはなりません」
そんな頓知みたいな解決案を出されたときには、ニーチェはベインの頬をひっぱたいてやりたい衝動に駆られた。
しかしこれでニーチェは二度、ベインに救われたことになる。この関係を鑑みるに、自分に彼の意見を覆す力はないように思われた。
結局ニーチェは泣きべそをかいて、震えながらマンティスに騎乗した。どうせなら可愛い顔したウサギにでも乗って現れてくれよ、と逃げ去ったスピックレイダーたちをひどく恨んだ。
走る。走る。二人を乗せたマンティスは、線路に沿って軽やかに荒野を駆け抜ける。吹きつける砂塵。照りつける太陽。水も食料も一切ない。この上なく快適(、、)な旅であった。
「ベインくん……」
「何ですか?」
「脱水症状を起こしそう……」
「うーん、そうですねぇ」
ベインは顎に手を添えて、マンティスの体をじろじろと眺めた。
「いざとなったら……こいつ食えるのかなぁ」
これがいけなかった。
もちろん魔物に人語などわかるはずもないだろう。しかし原始的本能から何らかの危機を感じ取ったのか、マンティスは大きく身をよじらせて二人を振るい落とし、ガラスのような四枚の羽根を広げて、荒野の彼方へ飛んでいった。
「うわぁ、あいつ飛べたんだぁ」
呑気な声を漏らすベインを、ニーチェは怨念をたっぷり込めた目で睨んだ。
「これから……どうするの……」
ポツンと取り残されたは荒野のど真ん中である。
「えーっと、それじゃあ……」
ベインはポリポリと指で頭を掻いた。
「どっちにしますか。歩いて荒野を進むか、走って荒野を進むか」
「それ、何か違うの?」
「走ったほうが、少し早く目的地に到着できるかと思います」
二人は歩いた。ぐいぐい歩いた。もりもり歩いた。
日が傾いて、夜の帳が訪れた頃、二人は小さな集落を発見した。
そこには水も食料もたっぷりあって、住んでいた人々は哀れな遭難者二人を快く迎えてくれた。
見ず知らずの人々に手厚くもてなしてもらえて、ニーチェは人生苦あれば楽ありだということを、しみじみと感じた。
ところがどっこい。
そこは人攫い集団の隠れ家だったのである。
風呂に入っていて完全に無防備だったところをニーチェは捕らえられた。そして下卑た笑みを浮かべた男たちに羽交い絞めにされ、危うく乙女の純潔を奪われそうになったのだ。
そこを救ってくれたのは、やはりベインだった。
半死半生に至らしめられた男たちがゴミのように積まれた人山の前で、ニーチェはベインにしがみついてわんわん泣いた。
「もう嫌! もう嫌ぁぁぁ!」
ベインは泣き喚くニーチェに毛布をかけてやり、なだめるように頭をぽんぽんと撫でた。
「ニーチェさん。人は困難に直面したとき、諦めるか立ち向かうかのどちらかしか選べません」
こんな状況でも、ベインが口にする言葉は真実そのものであった。
「このまま旅を続けるにせよ、引き返すにせよ、私は全身全霊を尽くしてあなたを守ります。さあ、どちらを選びますか?」
ニーチェは長いこと泣いていた。ベインは夜が明けるまでずっと頭を撫でてくれていた。
翌朝、二人は外に繋がれていた馬に乗って、再び王都に向かって出発した。
モール地方に入ってからは、旅はスムーズに進んだ。途中の湖畔で岩のような大蝦蟇――ギガントフロッグに遭遇したり、峠に巣食った人喰い植物――ジャベリンローズに襲われたりもしたが、ベインの敵ではなかった。彼は約束通り、ニーチェをあらゆる魔の手からしっかりと守ってくれたのである。
何匹もの魔物を倒し、いくつもの関所を通過して、ついに二人は王都へと辿り着いた。
そのときのニーチェの感動といったら、大きすぎて言葉にできないほどであった。何かをやり遂げたという達成感が、これほど甘美に思えるものだとは、彼女はついぞ知らなかった。
「すごい……」
千年の歴史を誇る王都の景観に圧倒されて、ニーチェは目を見張った。昔住んでいた頃、彼女はまだ三歳で、ほとんど屋敷から出たことはなかったのだ。
その美しさたるや、まさに豪華絢爛。
ルキズ村がすっぽり収まりそうなほど巨大な聖堂や、蛇がのたうつごとき珍妙な外観をした塔など、多種多様な建造物がきらめくように建ち並んでいる。その量はバールタウンの比ではない。
都市内に網目状に張り巡らされた大通りは、剣士や魔術師や商人など様々な人種が多量に行き交う、人の濁流となっていた。
「見て、お城が飛んでる!」
ニーチェが指差した先。半球体の台座に支えられた建物が、王都の上空に浮かんでいた。
「メルフィーナ議事堂ですね」
ベインは人の波に飲まれないよう、ニーチェの腕をしっかりと掴んでいた。
「シデュース地方の機械師が作った浮遊システムを利用して飛んでいるそうですよ。万一動力に異常をきたした場合でも建物が落ちないよう、保護用の浮遊魔法もかけてあるらしいです。まさに科学と魔術の一大合作ですね」
説明しながら、ベインはニーチェを引っ張って、人込みをかきわけていった。
「ここは王都の入口なので、特に人が多いんです。行きましょう、こっちです」
ニーチェはベインに引かれるままに進んでいった。目に付くものすべてが彼女の心をときめかせた。馬車くらいの大きさの露店一つでさえも、自分が知らない世界を閉じ込めた宝石箱のように思え、興味を惹きつけてやまなかった。
「ベインくんは、王都に来たことあるの?」
「ええ、マーケティング調査のために、何度か立ち寄ったことがあるんです」
やがて二人はようやく人通りの少ない道に出て、タイル張りの小さな公園を発見し、そこにあった噴水の淵に腰掛けた。
「はぁー、何だか目が回ったような気分」
大きく息をついて、ニーチェは自分のふくらはぎを擦った。蓄積された疲労が、ここへきてどっと出たようだった。
「どこかで休憩していきましょうか?」
ベインは笑顔で言った。戦いの連続でニーチェよりはるかに運動量は多いはずなのに、まるで体力を失っていない。
この少年は不死身かとニーチェは鼻白んだ。
「休憩?」
「はい」ベインは南西の方角を指差した。「あっちに、王都への観光客をターゲットにした娯楽施設がたくさんあるんです。たしか安価の簡易ホテルもあったと思いますから、ちょっとは寝られますよ」
――なるほど、二人で、ホテルとな。
ニーチェはぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、大丈夫だから」
別にふしだらな想像をしたわけではない。断じてそんなことは考えていない。安価とはいえ宿泊料もそれなりにかかってしまうだろう。贅沢は敵なり。限りある旅費は、節約して使わねばならないのだ。
「そうですか?」ベインは残念そうに眉を寄せた。「私はちょっと、ホテルで休みたいと思っていたんですけど」
「いや、本当に平気だから」
「最近のホテルは値段の割りに設備が充実してるんですよ。部屋もベッドも綺麗だし……」
「だから大丈夫だって」
「本当に疲れてませんか? 自分では気がついていないだけかもしれませんよ? ちょっとホテルで休憩したほうが……」
「ベインくん」
ニーチェは手をおでこに当てて下を向いた。
「女性を前にして、あまりホテルホテルと連呼しないほうがいいよ」
はあ、とベインは生返事をした。
もちろんニーチェは、彼がそのような邪念を抱く人物ではないことはじゅうぶん理解していた。しかし少しくらいは気を使って欲しい。そこまで猛烈にホテルに誘われれば、どんな女性でもさすがに引く。
「私、もう体力取り戻したから、少しでも早く目的地に向かおうよ。何ていったっけ、融資をお願いする……えーっと」
「コルザック・ベダンラ氏です」
ベインは歯を見せずに微笑した。そして彼は目を細めて王都の空を見上げた。
「正直、驚きました。フーダさんが、まさかあのコルザック卿と知り合いだったなんて」
「有名な人なの?」
ニーチェには聞き覚えのない名前だった。
ベインは優雅に脚を組んで、横目でニーチェを見た。
「まあ、そうですね。かつて、ギルサニア共和国一の悪徳政治家と呼ばれた人物です」
「それは……」ニーチェは目を丸くした。「何というか……すごそうな人だね」
ベインは神妙そうに頷いた。「ええ、かなりの大物政治家で、一代で成り上がった大資産家でもあります。貴族の地位をも金で買ったそうですよ。これまでに何度も失脚と復権を繰り返していて、今もなお彼の周りには多くのスキャンダルが囁かれています。しかし古狸すぎて、誰も彼を追い出せない」
できるなら一生関わり合いになりたくない人物ですね、とベインは嘯いた。
「そんな人と……お父さん知り合いだったんだ」
驚きですよね、とベインは笑った。
「まあ、これからそんな大物相手に大金を引き出す交渉を行おうとしてるんですから、私もちょっと緊張しちゃってて。疲れた頭で太刀打ちできる相手じゃありませんから、少し寝ておきたかったな、なんて思ったんですよ」
ああ――やはり、そうなのだ。
ニーチェは胸に針を打たれた心境だった。
ベインがホテルで休みたいと言ったのは交渉に備えるため。一緒に女性がいるかどうかなどまったく問題ではない。ただ融資のことだけを考えている。
たしかに立派だ。とても誠実な人間だ。
けれど、それはつまりニーチェのことなど微塵も意識していないということであって、ひょっとしたら自分などただの腰巾着程度にしか思われていないのではないかと、彼女はひどく索漠とした気持ちになってしまった。
「うん、じゃあ、行こうよ、ホテル」ニーチェは、うつろな目でベインを見た。「その、大変な旅だったしさ、ベインくんの言う通り、ちょっと休んどいたほうがいいよね」
そう――自分など、何でもベインの言うことに従っていればいいのだ。力も知識も及ばないくせに、意見だけ一丁前に述べるなど分不相応だ。これからはもっとわきまえを知ろうと、ニーチェは心に決めた。
しかし。
「いやぁ、でも、いざホテルに飛び込んだら、本当に寝るのかどうか怪しいものですから」
ベインは大斧を杖のようについて立ち上がった。
「思春期を迎えた男の子が、監視もない密室で女性と二人きりとなると、何しでかすかわかりませんからね」
そんなことを、彼はしれっと言った。
「ほらこれまでは、フーダさんやら誰やら、邪魔者がいたじゃないですか」
ニーチェは石のように硬直した。
が、直後、彼女は弾かれたように立ち上がった。
「なっ、にっ、をっ!」
真っ赤になって詰め寄るニーチェに対して、ベインははにかみながら手を振った。
「いや、失敬失敬。冗談です。でもまあ、こういうジョークも飛ばすような人間なんだと、覚えておいてくださいな」
大きく肩で息をしながら、ニーチェはキッとベインを睨んだ。
まったく、頭が沸騰するかと思った。例え冗談でも、そんなことを言う人間ではないと思っていたのに……。
しかしそこでニーチェは考える。
もしかしたら。
ベインは自分が消沈しているのを察して、その暗鬱を吹き飛ばすためにあんなことを言ったのかもしれない。
でなければ、自分はこれから先ずっと、彼に対して何も言えなくなってしまっていただろう。
本当に、どれだけ気が回る人間なのだ。
「ベインくんって……本当に十五歳?」
「ええ、もちろん。健常な男子ですよ」
いろいろと持て余す年頃です、とベインは言った。
ニーチェは口を尖らせた。本当かどうか怪しいものだ。同じベッドで寝たときだって、ものの二秒で熟睡してしまったではないか。
そりゃあ自分は飛び抜けて可愛いわけでもないが、それにしたって女としてのプライドというものが多少はある。
ここらで一発、この年下男を誘惑できるくらいの魅力を発揮してやろうかと、ニーチェは小さな胸に大きな闘志を燃やした。
「ニーチェさん、あの、怒ってます……?」
しかしながら、悲しいかな、ニーチェには思うままにフェロモンを振り撒けるほどの素質も経験もなかった。
ベインと見つめ合いながらも、何も言えない自分に憤慨して、ニーチェは腰の横でぐっと両手を握り締めた。
「イー、だ!」
思いっきり剥き出しの歯を見せつけて、ニーチェはプイッと横を向いた。
――うわ、何これ、まんま子供じゃん。
頬を膨らませて、ちらりとベインを見る。彼は唖然とした顔でこちらを見ていた。
「……ん?」
「ああ、いや」
ベインは俯いて髪を撫でた。ほんのわずかに、顔が赤い。
「今のは、その、ちょっと、キました」
さて。
そんな青春劇場もそこそこに、二人は再び王都巡りに出発した。
何棟ものビルが建ち並ぶ合間の小道を、ベインに導かれるままにニーチェは進んでいく。
「何だか……どの建物も大きいねぇ」
ニーチェは田舎者丸出しといった様子で、鉄骨造りの巨大なビルを上から下までじっくり眺めた。
「こういうビルが増えたのは最近のことです」ベインが滑らかな口調で説明する。「昔は魔術師が好むような、神殿や祭壇ばかりだったそうですが、機械技術が発達して、システム制御できる建築物が爆発的に増えました」
「科学の進歩だねぇ」
「ええ、いつかは我々のギルドにも、優秀な機械師を抱えたいものです」
二人はまた人の流れが激しい大通りに出た。
「この辺りは官庁街ですね。この北はたくさんのビジネスギルド本社があるダダールド地区で、通称ワークスフィールドと呼ばれています。そして我々が今立っているのがキルーネ通り。王都の最南端まで達していて、目指しているラピリーカ地区はこの道の果てにあります」
「へー」
せっかくだが、そんな一気に名称を出されても覚えられる自信がない。
適当に返事をしながら、ニーチェはビルとビルの間を浮遊しながら移動する円盤型の乗り物を眺めていた。
「あれは何?」
「ああ、ターボリフトですね。メルフィーナ議事堂と同じ浮遊システムで飛んでいます。いちいち下まで降りなくてもビル間を移動できるから便利なんですよ」
「あんなの、もし落っこちたら大変だよ」
「そこはまあ、保険のための浮遊魔法がかかっていますから。科学が進歩しても、まだまだ魔法の時代は終わりませんよ」
ベインは本当に王都について詳しかった。
聞くところによると、自分たちが向かっているラピリーカ地区は、王都の富豪や元老院議員が暮らす、上流階級層の居住地区であるらしかった。
「私……そこ知ってるかもしれない」
ニーチェの脳裏に、幼少期の記憶がおぼろげに蘇った。
「ええ、サウザンドクロスの重役ともあろう方なら、きっとラピリーカ地区に住んでらっしゃったはずです」
「そっか……。じゃあ私にとっては、ちょっとした里帰りになるんだね」
浮かれた気持ちでそんなことを言うニーチェだったが、いざラピリーカ地区に到着すると、あまりの威容に度肝を抜かれてしまった。
宮殿のような屋敷――ではない。建ち並んでいるのは、本物の宮殿そのものだ。
五層からなる階段のような地盤の上にいくつもの御殿がそびえ立つ様は、世界中のあらゆる城や宮殿を一ヶ所に集めた博覧会のようでもあった。
「さすがに……これほどのお屋敷に住んでいた記憶はないなぁ」
もしここいらに住居を構えたいと願うなら、いったいどれほど巨額の資金が必要なのだろうか。
「そうですねぇ、大体の相場で……一坪当たり2億リッスくらいで買えると思いますよ」
「におきゅっ!」
すると一枚1500リッスのドラーム・プレートを何枚売ればいいのか。
――いや、やめよう。計算するのも馬鹿馬鹿しい。
「いくらお父さんがサウザンドクロスの重役だったからって、そんなにお金持ってたとは思えないけどなぁ……」
「王都は日々発展していますから、土地の値段も昔とは比べ物にならないほど高騰しているんですよ」
格差社会の現実に直面して肩を落とすニーチェを見ながら、ベインは頭を振って答えた。
「二十年くらい前なら、年収5千万もあればじゅうぶん王都で暮らしていけたそうです。しかし今や本当に特別な人間しか住めない、上流階級層の聖域となっています」
ニーチェは力なく笑った。
「はは……何だか私たちには永遠に無縁の世界みたいだね」
「そうは思いません」ベインは厳しい声で返した。「私は、いつか自分もこの聖域に到達してやるぞって、俄然燃えてきますけどね」
彼は普段の温厚な性格からは想像もできないような、野心に満ちた不敵な笑みを浮かべた。
「……っ!」
たまにベインが見せる、このような凛々しい風貌に、ニーチェはドキリとやられてしまう。
まったく、もう。
年下のくせに。
「さて……それじゃいよいよ乗り込みますか」
ベインとニーチェは足を止めた。二人の目前には、旧時代の遺産のごとき石造りの宮殿が悠然とそびえ立っていた。敷地への入口は鉄製の門でがっちりと塞がれ、さらに門の前には黒服を着た屈強な男が二人、長槍を手にして立っていた。
「うおぅ、何だか門を守るガーディアンみたいな人がいるよ」
「というか、それそのものでしょう」
ニーチェは門番が放つ威圧に尻込みしていたが、ベインは悠々と門に向かって歩いていった。
「止まれ」
「近づくな」
門番二人はベインに気づくと、互いの槍を門の前で交差させて、重い声で命令した。
「何者だ」
「何用だ」
ベインは立ち止まって、その場で一礼した。
「失礼。私はベイン・リミットと申します」
ニーチェがそろそろと近づいて、ベインの後ろについた。
「わ、私はニーチェ・ドラームです」
「我々は、所以あってエグザ地方から参りました。コルザック・ベダンラ氏にお取次ぎを願いたい」
門番は特に大斧を持ったベインを強く睨んでいた。
「お前たちのような得体の知れぬ者を、コルザック様には会わせられぬ」
「会談のアポは取ってあるのか」
「いいえ」
ニーチェにとっては睨み殺されるかと思うほどの眼光で射抜かれながらも、ベインは堂々とした態度を崩さずに答えた。
「そのような約束はしておりません」
「帰れ」
「失せろ」
はい帰ります、とニーチェは即答しそうになった。いったいどんな訓練を受けたら、これほどまでに絶対的な命令口調を身につけることができるのか。
「まあ……待ってください」
そう言ってベインが懐に手を忍ばせた、その瞬間。
門番はザッと一歩前に出て、槍の切っ先を二人に向けた。
ひゃん、と鳴いてニーチェがベインの後ろに隠れる。
しかしベインは落ち着いた態度で咳払いし、懐から一枚の封書を取り出した。
「エグザ地方のフーダ・ドラーム氏からの紹介状です。これをお渡し願いたい」
その封書は、出発の朝にフーダから預かったものだった。
これがないとまずコルザックには会えないから絶対なくすなよ、と念を押されていたのだが、ニーチェはそのことをすっかり忘れてしまっていた。
「フーダ・ドラーム? 聞き覚えがないな」
「かつてはここ王都でもその名が通った名士です。コルザック・ベダンラ氏とは旧知の間柄で、我々は彼の推薦で参りました」
門番は訝しげな目で封書を眺めていたが、ベインが大斧を地面に置いて手を差し出すと、槍を天に向けてそれを受け取った。
「コルザック様は多忙なお方だ。取り次ぐのに時間がかかるかもしれんが、それでも構わぬのならこの場で待つがいい」
ありがとうございます、とベインは返した。
封書を受け取った門番は踵を返し、槍をもう一方の門番に渡すと、身を捻って跳躍し、身長の倍はあろうかという高さの正門を易々と飛び越えて、敷地内へと消えた。
ニーチェは溜息をついた。「門……開けてくれないんだね」
「当然だ」残った門番が答える。
そのまま待つこと約30分。誰一人として喋らない無言の重圧にニーチェが耐えかねたとき、激しい振動とともに正門が内側に向かって開かれた。
現れたのは、先程封書を預けた門番と、黒い燕尾服を着た老人だった。
「お待たせいたしました」
ヤギを思わせる細まった輪郭の老人は、一本線のような細目でベインとニーチェを見た。
「ベイン様に、ニーチェ様ですね。私はコルザック様に仕える執事のイアン・ドーリオと申す者でございます。主人より伝言を託って参りました」
「恐れ入ります」
ベインは背筋をピンと伸ばしてイアンに向き合った。ニーチェも同じように気をつけの姿勢を取ったつもりだったが、腹を突き出しすぎてペンギンの物真似みたいな格好になってしまった。
「主人はお二方との面会を望んでおられます。しかしながら本日はスケジュールがいっぱいに詰まっておりまして、まことに恐縮ですが後日改めてご足労願いたい」
「恐縮なのはこちらこそです。我々のような若輩者に貴重なお時間を割いていただけるなど幸甚の至り。感謝いたします」
イアンとベインは互いに深々と頭を下げた。
「遠路はるばるお越しいただいて申し訳ない。ところでお二方は、王都滞在のご予定は?」
「いえ……それが、まだ泊まる宿も決まっていない次第でして」
イアンは朗らかな笑みを浮かべた。「でしたら、手前どもにお任せください。ジアルカス地区の一流ホテルを用意させていただきます。会談の日まで、そちらでごゆるりと羽をお休めくださいませ」
さて。
この申し出により、ベインとニーチェは腰が抜けるほど豪華なホテル生活を味わうこととなった。
イアンが用意してくれた四頭立ての馬車――遺伝子改造されたバイオホース――に乗ってホテル街に直行した二人は、絵にも描けない美しさ、というものを生まれて初めて目にした。ジアルカス地区一帯を埋め尽くす多彩な建物は、どれも水に沈めた宝石のようにまばゆくきらめいており、あらゆる語句を並べてみても、そのきらびやかな光景はとても表現しきれなかった。
二人が泊まることになったのは、先月プレオープンしたばかりの新品ホテルだった。これまたニーチェが眼を剥くほどとびきり豪華なホテルで、その外装は虹で作られていた。虹のように塗装されているのではなく、壁や支柱がすべて本物の虹でできているのだ。さらに周囲には赤や黄色の光を閉じ込めた水泡が浮かび、幻想的なイルミネーションの役割を果たしていた。
「すごい、すごい、すごい、すごい!」
ニーチェは人智を超越した美しさに圧倒されて、理性さえも吹き飛んでしまったかのように、瞳を潤ませ、はしゃぎまくっていた。
「何、すごい、これ、すごい、ほら虹、すごい、どうして、すごい、触れる、すごい、綺麗、すごい、素敵、すごい」
「これは……科学の力では無理ですね。きっと光を操る魔法を利用したんでしょう」
ベインも、芸術的作品とさえ言える超高級ホテルに目を見張っていた。
中に入ると、内装も虹や水流に彩られており、自然が見せる神秘的超常現象の真っ只中に迷い込んでしまったかのようだった。
「ひゃあ、ふえぇ、あり得ない、すごすぎる、マジ半端ねぇ」
ここに至ってニーチェは感動が限界を突破してしまったようで、金魚みたいに口をパクパクさせてひたすらに何かを呟いていた。
「こちらをお召しになられてはいかがでしょうか」
滑らかなレッドカーペットが敷かれたロビーのフロントで、ベインはタキシードを、ニーチェは紫のスパンコールドレスを渡された。
見れば、周りの客たちはパーティ来賓者のようにきっちりと正装しており、私服姿の二人はたしかに場から浮いていた。
着替えを済ませ、ロビーに並び立った二人は、生まれ変わった互いの姿を凝視した。
「うわぁ、ベインくん、キマってるねぇ」
「ニーチェさんこそ、とても綺麗ですよ」
形だけとはいえ、晴れてセレブの仲間入りを果たした二人は、ボーイに案内されて部屋へと向かった。
「あれ、ベインくん、斧は?」
「フロントに預けました。ここなら、武器は必要ないでしょう」
「冒険者やハンターの方々もお泊りになられますので――」
装備品はホテルの金庫で厳重に保管させていただきます、とボーイが説明した。
部屋の前に到着すると、ボーイはベインにルームキーを渡した。
「では御用の際は何なりとお申しつけください」
「ありがとうございます」
ベインはこんなときでも気配りを忘れず、なけなしの路銀からボーイにチップを渡した。
ドアを開くと、そこは天上の夢殿であった。
「うっぴょろほえーっ!」
部屋に入るなり、ニーチェは奇声を上げてキングサイズのベッドにダイブした。恥も外聞もない。身が弾けそうなほどの喜びを全身で表現したくてたまらないのだ。
部屋の窓からは王都を一望できる、最高の眺めだ。宿泊費はタダ。さらにルームサービスも取り放題。おまけに部屋のクローゼットにあるドレスから好きなものを選んでいいときては、ニーチェの自制心が臨界点突破してしまったのも無理なかろう。
「よかった! 私、王都に来て本当によかった!」
これまでに味わった艱難辛苦も何のその、ニーチェは歓喜に打ち震えてベッドの上を転げ回った。
「あの、ニーチェさん。せっかくのドレスが皺になっちゃいますよ」
言われて、ニーチェはがばっと身を起こした。そしてベッドに腰掛けて、ベインに見せつけるように優雅に生脚を絡ませた。
「あら、私としたことがはしたないわ。ごめんあそばせ」
一瞬にして口調まで上流貴族化してしまった。
人間というものは、周りの環境次第で何と簡単に変貌してしまうものか。
しかしそれも当然かもしれない。
ここでは給仕にベッドメイキングを任せられるし、頼めば舌がとろけそうになるほどおいしいルームサービスを届けてもらえる。自分でベッドシーツを洗って、固いスズ麦パンをかじっていたルキズ村の生活とは雲泥の差だった。
苦節十五年。ニーチェは見事王都に返り咲き、今ここに夢の左うちわ生活を手に入れたのであった。
「ベインくん……」
イブニングドレスに着替え、ベリー系のサワーを片手に、ニーチェは黄昏ながらバルコニーの空気を吸い込んだ。
「はい?」
「私……もう死んでもいい」
今この瞬間、世界の時間がぴたりと止まってしまえばいいのにとニーチェは願った。
しかし悲しいかな。
幸福であればあるほど、その時間は瞬く間に過ぎ去ってしまうものだ。
光陰矢のごとし。コルザック・ベダンラとの会談日はあっという間に訪れた。
「さあ、チェックアウトですよ、ニーチェさん」
フロントから大斧を回収したベインが普段着でニーチェに催促する。しかし彼女は着替えたものの、接着されたかのようにベッドにしがみついて、ピクリとも動こうとはしなかった。
「私……行かないもん」
溜息をついて、ベインは腕ずくでニーチェをベッドからひっぺがした。
「お願い、放して! もうちょっとだけ! もうちょっとだけぇぇぇ!」
「駄目です。約束の時間に遅れるわけには、絶対いきません」
結局ニーチェは強制連行される囚人のごとく、泣き喚きながらベインに引っ張られて、迎えの馬車に乗せられた。
無念――ここにニーチェのセレブ生活は、短き夢幻と消えて終わったのであった。
さて場面は、二人が執事にティーカップを出されたコルザック・べダンラ邸の応接室へと返る。
雲のようなソファーに座ったニーチェは、落ち着かない様子でうろうろと応接室の中を見回していた。学のない彼女でさえ、この部屋に飾られている数々の美術品がどれほど高級な代物なのかはじゅうぶんに察することができた。
右手をご覧ください、国宝級の絵画でございます。左手をご覧ください、シルバーベアードの剥製でございます。正面をご覧ください、よくわからないくねくねした抽象彫刻でございます。
どれも見事だが、絶対に近づきたくはなかった。もし好奇心からあれらの所蔵品に手を伸ばして、うっかり傷でもつけてしまったなら、自分はその場で自決するだろうとニーチェは思った。
「ああ、この紅茶、とてもおいしいですよ」
ベインは落ち着き払ってティーカップを口に運んだ。
ニーチェは小さく首を振った。
「いい。トイレに行きたくなったら困るから」
そのとき。
応接室のドアが静かに開かれた。