いざ旅立ちのとき
屋根裏部屋。ニーチェとベインは背を向け合いベッドに座っていた。結局、フーダが謀った通り、二人は同じベッドで寝るはめになってしまったのだ。
まだ異性と手を繋いだこともないニーチェは、これほどの局面が自分に訪れたことに、動揺を抑えられずにいた。
部屋の中は無音の世界だった。ランタンの暗い光が脈打つように揺らめいている。この息苦しい雰囲気を何とか打破しようと、ニーチェはぐるぐる回る頭の中で、適当な話題を見つけ出そうとした。
だが、先に口を開いたのはベインだった。
「ニーチェさんのお父さんは、名状しがたいほどの器量人ですね」
「え……?」
「すごい人、ってことですよ」
ニーチェは振り向いて、ぽかんと口を開けた。
「あれが?」
どこがどうすごいのかさっぱりわからない。娘である自分には、無神経で破廉恥な父親としか思えなかった。
「あの事業計画書には……それなりの自信がありました」ベインは静かにそう言った。「あれがあれば、これから先自分の道を切り開いていける、そう思っていたんです。でも甘かった。あんなもの、自己満足の作品でしかなかったんです」
ベインの声は沈んでいた。ニーチェは、どうして彼がそんなに落ち込むのかわからなかった。結局はフーダも、あの計画書を褒めていたではないか。
「自分の力量を見誤っていました。フーダさんに言われて目が覚めましたよ。この世界はお前の夢を叶えてやるほど甘くない、か。箴言ですね。ガツンと来ました」
「ベインくんこそ、すごいよ」ニーチェは思ったことを素直に述べた。
「そうですか?」
「だってベインくん、すごく強いし、賢いしさ。私だったらビジネスギルドを立ち上げようなんて大きな夢、絶対に持てないよ」
――すごいよ、本当にすごい。
言いながら、そんな安っぽい褒め言葉を連発することしかできない自分に、ニーチェはうんざりした。何と語彙の乏しいことか。常に知性と品格を漂わせているベインに比べたら、ずっと矮小な人間に思えてしまう。
年上として情けないとさえ感じてしまった。
「ニーチェさんには、夢とかないんですか?」
「うん? うーん……」
ニーチェは我が身を振り返って考えた。おいしいものを食べたいとか、綺麗な服を着たいとか、そんな望みは夢とは呼べないだろう。しかもそれらは、彼女が王都での思い出に固執しているがゆえの望みだ。三歳程度の幼少期から、まったく成長していないことになる。
素敵な人と結婚して家庭を持ちたいというのは無難な答えかもしれないが――この状況でそれを言うのはさすがに抵抗があった。
例えばそう言って、ベインが――
「じゃあニーチェさんを幸せにできるような、立派な男になってみせますから」
なんて返してきて、そこから何となく濃密な雰囲気になって、不意に手と手が触れ合って、思わず離そうとしたニーチェの手をベインがぎゅっと握って、見つめ合って、押し倒されて、もよもよもよもよ。
「バ、バールタウン辺りに自分の店を持ちたいなんて願ってたりしたよ」ニーチェはカチカチの口調で言った。
「へえ!」ベインは弾んだ声で叫んだ。「それじゃ利害関係が一致していますね。店を開いたら、私がオーナーで、ニーチェさんが店長。それでどうですか?」
「は、はあ」
いいんじゃないかな、とニーチェは曖昧な返事をした。
「いいですよね、理想的な経営形態だ。これでいつか、私とニーチェさんが夫婦になれればもっといい」
何。
何あっけらかんと言っているの、この人は。
「家族に給料を払うのは、税金対策の基本ですから」
――税金対策のために夫婦になるって、何だそのロマンスのかけらもない話は。
ニーチェはげんなりと顔を歪めた。
「ああ、いや」
明らかに嫌そうな態度を示したニーチェの心境を察したのか、ベインは慌てた様子で取り繕った。
「もちろんニーチェさんが、私を一人前の男と認めてくれたらそのときは、という話です」ベインはベッドに飛び乗り、正座してニーチェを見つめた。「きっとニーチェさんを幸せにできるような、立派な男になってみせますから」
言われた。
たった今、かすかに期待した台詞をそのまま言われた。
そんなにあっさり誓いを立ててもいいのだろうか。普通なら、出会って、付き合って、何度かデートを繰り返して、その上で結婚という概念も話題に上るものだ。彼はあまりに即物的すぎるとニーチェは思った。
「えぇと、じゃあ……」ニーチェは汗をかきながら俯いた。「いざとなったら、よろしくお願いします」
――いざとなったらって、どんな状況だそれは。
自分の言葉に対して心の中で突っ込みを入れつつ、彼女はしゅんと身を縮込めた。
「はい」ベインは少年らしい快活な笑みを浮かべた。
まったく。
こんな甘酸っぱい空気、とても耐えられない。
完全に相手にリードされてしまっている。
鳴り止まぬ心臓の鼓動音がベインに聞こえてしまいそうで、ニーチェは煙になって消えてしまいたいと願った。
「それじゃあ、そろそろ寝ましょうか」ベインはやはりあっさりと言った。「明日は早いですからね」
「う……」ニーチェは朱色に染まった顔を隠すように頷いた「うん」
さて。
いよいよここが正念場。
ニーチェ・ドラーム十八歳。生まれて初めて殿方とベッドをともにします。
ランタンを消して、髪飾りを外し、そそくさとベッドに潜る。
しゅるりとシーツの擦れる音。ベインも入ってきたらしい。
「あの、そんな端っこに寄らなくても」
「あ……うん」
ニーチェは口から心臓が飛び出そうな気分だった。もぞもぞ動くと、自分とベインの背中がぴったり密着して、温かいやらくすぐったいやら。こんなときばかり神経が研ぎ澄まされるのは、まったく勘弁してもらいたいと願った。
ああせめてイメージトレーニングでも済ませていれば――いやいや何を馬鹿なことを考えているのか。
寝よう。余計なことは考えずに、気絶するように眠ってしまおう。
そう思ったが、興奮する気持ちは収まってくれず、変な薬でも飲んだときのように意識は覚醒するばかりだった。
「ニーチェさん」
「はいっ」
呼びかけられて、なぜか謙譲的な返事をしてしまった。
自分のほうが年上だぞ。ニーチェは自分にそう言い聞かせた。
「ドキドキしていますか?」
憂い声でそんな核心を突いた質問をされては、もはやニーチェの平常心は維持不可能であった。
「……うん、してる」
考えるより先に答えてしまった。体が震える。心が溶けそうだ。ニーチェはシーツをぎゅっと握り締め、ただ時が流れるのを待つことしかできなかった。
「私もです」
もう駄目だ、何も考えられない。このあと何が起こるのか。何が待ち受けているのか。それを想像するだけで、体の芯まで燃え尽きてしまいそうだ。
いや駄目だ。それだけは絶対に駄目。もしものときは、例え相手を傷つけてしまうことになっても、はっきり拒否すべきだとニーチェは決意した。
ところが。
「王都で融資金は得られるのか。無事に店を開くことができるのか。計画に齟齬が生じたとき、それに対処できるのか。拭おうとしても不安が泡のように湧いてきて、動悸が収まってくれないんです」
ベインは、まるっきりとんちんかんなことを言った。
「でも、この動悸は不安だけから生じているものではないと思います。これから先、自分がどうなるのかわからない。どんな人生になるのかもわからない。けれどその人生の先には、自分の知らない未来が待っていて、自分の知らない自分がいると思うと、そこに向かって飛んでいきたくなるんです。そんな高揚に満ちたドキドキが止まらない。今は何の形も持たない将来像が、自分の心を捕らえて放さないんです」
ニーチェは深く息を吸い込んだ。いつの間にか、体の震えはすっかり治まっていた。
「大丈夫。必ず融資の約束を取り付けてみせますよ」ベインは強く言いきった。「おやすみなさい」
ニーチェは返事ができなかった。
ベインの言葉は立派なものだ。強い信念をしっかりと抱いた、見上げた精神でもあるのだろう。
しかしニーチェにとっては、肩透かしを食らったという思いは否めない。
仮にも年頃の少年が、年上のお姉様と一緒に寝ているのだ。それなのに考えるのは融資についての心配だけか?
ちらりとベインを見ると、彼はもう寝息を立てていた。
その顔はあどけなく、十五歳の少年そのものであった。
ニーチェは怒っていた。途方もないほど大きな憤りを感じていた。しかし自分がなぜ怒っているのかわからない。これではまるで、何かされるのを期待していたようではないか。
「おやすみっ」
聞こえないだろうということはわかっていたが、彼女はそう言ってシーツをかぶった。
その夜、結局ニーチェは一睡もできなかった。
「じゃあ行ってくるから」
翌朝、ニーチェはベインと家の前に並んで、見送るフーダに別れを告げた。
持っていくのは最低限の荷物だけだ。
ニーチェにしてみれば、フーダを残して長期間家を開けるなどこれが初めてのことである。はたして自分がいない間に、父がきちんと生活していけるのかどうか、心配でたまらなかった。
ご飯をちゃんと食べて。あまりお酒を飲みすぎないで。夜は早めに寝て。
忠言は次から次へと湧いてきたが、フーダは笑って、オイラのことは一切心配しなくていい、と言いきった。
「お前は自分の役目を果たすことだけに専念しろ。しっかりやれよ」
「ニーチェさんのことは、私にお任せください」大斧を手にしたベインが、穏やかな声で言った。
フーダはその斧をちらりと見た。
「いい斧だな」
「父の形見です」
「ああ」フーダは顔を歪めて頷いた。「あいつも若い頃は、バリバリの武闘派だったもんなぁ」
ニーチェは昨夜の、大斧を振るうベインの勇姿を思い出した。
「そうだ、くれぐれもトロールウルフには気をつけてね」
「分かったよ。その件についちゃ、オイラが自警団を通して警聖本部に連絡入れとくから」
こうして立っているだけで、いくらでも話題は湧いてきそうだった。しかし長々と話してはいられない。
ニーチェとベインは一礼し、踵を返して出発した。
山頂から差し込む朝の日差しが眩しくて、思わずニーチェは手をかざす。寝不足のはずだったが、頭は爽快なほどにすっきりしていた。
つい昨日まで、自分はこれから先ずっと盾を売るためにこの山道を歩むのだと思っていた。しかし今、自分はベインとともに、新たな目標に向かって旅立とうとしている。
人生の転機とは、自分が意識するかどうかにかかわらず、突然訪れるものだということをニーチェは知った。
だがその転機が、はたして自分をよい方向へと導いてくれるのかどうかはわからない。
然り、これから先ニーチェは、盾売りだった頃とは比べ物にならないほどの苦悩と絶望を味わうことになる。
ともあれ――やがて世界最大となるビジネスギルド、『ベイン』が築かれる物語の幕が、今ここに開かれたのである。