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サクシード  作者: 川北
第一章 夢の始まり
7/11

ビジネスギルド設立計画

 ベインの口から父の名が出たとき、ニーチェはたいそう驚いた。あの父親に訪問者がやってきたことなど、これまでただの一度もなかったのだ。


 フーダ・ドラームが自分の父親であることを説明すると、同じくベインも驚いた様子だった。


 「それにしても、父に何の用で……?」


 「実はちょっとお願いしたいことがありまして」


 聞けばフーダは、ベインの父親の旧友であるらしかった。


 お願いと言われても、あんな父親に何か頼れることがあるとは到底思えなかったが、ともあれニーチェはベインをルキズ村まで案内し、自分の部屋へと招き入れたのであった。


 ニーチェは少し緊張していた。考えてみれば、自分の部屋に異性を入れたのは初めてのことだ。


 しかしベインは砕けた態度で、大陸各地を巡って、はるばるエグザ地方まで旅してきた経緯を、面白おかしく話してくれた。


 「ウィンガ大河を渡るときに、船が沈んでしまいましてね。斧を担いでいましたから、危うく溺れてしまうところでした」


 「それで、どうしたの?」


 「仕方ないので、河の底を歩いて渡りました」


 ニーチェは大いに笑った。


 そうこうしているうちにフーダが帰ってきた。


 そして今、三人は階下に降りて、テーブルを囲い座っていた。


 「本当に怖かったんだから、トロールウルフ!」


 ニーチェはフーダに、どのようにしてベインと出会ったのか、これまでの経緯を説明した。


 「そんなわきゃねぇだろう。トロールウルフは二十年以上も昔に絶滅したはずだ」


 「でも本当にいたんだもん! 私、もう少しで食べられちゃうとこだったんだから!」


 相槌を打ってはいたものの、フーダは落ち着かない様子で、ベインばかりをチラチラ見ていた。


 「それにしても」フーダは好々爺のような笑みを浮かべた。「本当に、お前はゴラーダのガキの頃にそっくりだよ。マジで亡霊が蘇ったのかと思ったぜ」


 ベインも笑って頷いた。「母にもよく言われていました。でも父は私が生まれてすぐに死んでしまったので、その顔を知らないんです」


 フーダは目を閉じ、固く拳を握り締めた。


 「馬鹿なことしたもんだよなぁ……本当に……」


 父の目尻に涙が浮かんでいることに、ニーチェは気づいた。


 「それで、これまでどうしていた?」


 「母と、ティラノ地方に住んでいました」


 「ティラノ地方!」


 飛び上がるかと思うほどの勢いで、フーダは叫んだ。


 「あそこはイーガスゴッド大陸でもっとも危険な地方だぜ。魔王クラスの、恐ろしく強い魔物がうじゃうじゃいやがる。無法地帯同然で、犯罪者なんかもあそこを根城にしているらしいが」


 ベインは小さく頷いた。


 「あそこしか、なかったんです」彼の目には、青白い炎が燃えていた。「ある男によって、私と母は住処を奪われましたから」


 「ああ、なるほどな……」フーダは肩を落とした。「わかるよ、説明されずともな」


 二人の間には、ニーチェには掴めない異様な空気が渦巻いていた。その間に入ろうとして、彼女は不覚にも質問を誤った。


 「それで、ベインくんのお母さんは?」


 ベインはしばし黙ったが、ややあって自然な口調で語り始めた。


 「私はティラノ地方で生きていくため、力を身につけました。魔物や犯罪者から母を守る力が必要だった。けれど――」


 だが、そこから先は言葉が続かなかった。


 ニーチェは自分がどれほど愚かな質問をしたのかを察し、目を伏せた。


 「お前の母さんは……綺麗な人だったな。オイラも昔はゴラーダに妬いたもんだ」


 ありがとうございます、とベインは言った。


 「それで私は、生前母に言われていたんです。何か困ったことがあったら、あなたを頼るようにと。あなたは父にとって無二の親友だったから、きっと力になってくれると」


 フーダは笑って、何度も頷いた。


 「ああ……。あいつの友であれたことが、オイラにとっちゃ人生最高の誇りだ」


 数奇なもんだな、とフーダは口の中で呟いた。


 「昔、オイラはゴラーダを頼ってばかりだったよ。かつて王都であれほど華やかな生活を送れたのも、すべてはあいつのおかげだ。そのゴラーダの息子が、今度はオイラを頼ってやってきたか」


 フーダは、遠い過去の記憶をさらっているかのように、細まった目で天井を見上げていた。


 「十五年前、あいつは――ゴラーダは、サウザンドクロスの常務だった」


 サウザンドクロス。


 その名はニーチェも知っている。世界を股にかける、業界最大のビジネスギルドだ。


「まったく信じられねぇよ。三十代半ばにして、世界最大のビジネスギルドの重役に就任するなんて」


「あなたもそうだったと聞いていますが」


 フーダは頭を振った。「オイラは常務補佐だった。たしかに重役会議の末席に座っちゃいたが、ゴラーダが引っ張り上げてくれたようなもんさ。本当にあいつは経営に関しちゃ天才的だった。その気になりゃ、自分でビジネスギルドも持てたのに」


「上には上がいることを知っていたのでしょう」ベインはにこりともせず言った。「最大の組織の中にいるならば、そこを離れるのは大きなリスクを伴いますから」


「その通りだ」


 フーダは低い声で言って、身をかがめた。その様は、悲しみに打ちひしがれた老人のようでもあった。


 「上には上がいる……か。たしかにいたよ、とんでもない怪物がな。ゴラーダは、その才気ゆえに、サウザンドクロスの中枢を担っていた男を敵に回した。そして最終的に失脚し……自殺しちまった」


 フーダの瞳からは、涙が流れていた。彼はそれを拭おうともせず、言葉を続けた。


 「ゴラーダは、頂点を目指して突っ走っていた。オイラもあいつについていけば、いつか頂上を見られるような気がして、必死で仕事をこなしていたさ。だがあいつの遺体を見たとき、それまで積み上げてきたものが、跡形もなく崩れ去っちまったんだよ」


 瞬きすれば、テーブルに涙が落ちる。


「毎日毎日仕事に追われ、体がボロボロになるまで働いて、限りある人生の時間をすべてギルドのために捧げてきた。そうして辿り着いた果てが――あんな……あんな姿だなんて……」


 フーダの言葉は尻すぼみになり、悲しみと怒りに震えていた。


 ニーチェはただ父を見つめることしかできなかった。彼女にとってフーダは、飲んだくれの馬鹿親父というイメージしかない。そんな過去があったなんて、今このとき、初めて聞いた。


 「そしてオイラは王都を去った。仕事や働くという言葉の意味を見失っちまったんだよ。それまで自分がしてきたことも、馬鹿らしく思えてなぁ……。あとはまあ――見ての通りのザマだ」


 語り終えて、フーダは涙と洟でぐしょぐしょになった顔を、手元にあった布で拭いた。


 ニーチェもベインも黙っていた。


 が、ややあってベインがテーブルの上に分厚いファイルを置いた。


 「父のために涙を流してくれて、ありがとうございます」


 フーダは苦笑した。「馬鹿野郎、こんなみっともねぇ顔、見るんじゃねぇよ」


 ところでそりゃ何だ、とフーダが尋ねた。


 「事業計画書です」


 「ふむ?」


 「私は、ビジネスギルドを立ち上げようと考えているんです」


 そのために私はここへ来ました、とベインは言った。


 「ビジネスギルド……だと?」


 「生前の父は、サウザンドクロスのトップに上り詰めることが夢だったと聞きました。それがすなわち、ビジネスギルド業界の頂点に君臨することを意味するからです。しかし私は自分の手でビジネスギルドを作り、それを世界一のギルドにしようと考えています」


 フーダは眉を寄せた。


 「ゴラーダの遺志を引き継ぐつもりか?」


 「そうかもしれません」ベインはまっすぐにフーダの目を見据えた。「そう思い至ったのは、たしかに父の死が背景にあるからだと思います。しかしやると決めたのは自分の意思です。その協力を仰ぐため、私はあなたに会いに来ました」


 「ふむ、事業資金の融資か?」


 「第一の目的は、それを期待していました」


 ならば残念ながらその期待は的外れだ。ニーチェはそう思った。


 フーダが莫大な財産を所有していたのははるか昔のこと。今やただのアル中親父である。融資できるような金など、爪の先ほども残っていない。


 「それと、もしよければ私の事業計画について意見をいただこうと思っていました」


 「もしよければ?」フーダはすっと手を差し出した。「無粋なこと言うなよ」


 見せてみな、とフーダは言った。


 ベインは頷き、ファイルをフーダに渡した。


 「一番上のページにサマリーが」


 「構わん」


 ニーチェは息を呑んだ。これまでフーダが見せたことのない、刃のように研ぎ澄まされた敏腕ビジネスマンとしての顔が、そこにあった。


 しばらくページをめくってから、彼はファイルを閉じた。


 「バールタウンに店舗を構えるつもりか」


 「はい、すでに目星はつけてあります」


 「マーケティングリサーチも、念入りに行ったようだな」


 「バールタウンのマーケットは、エグザ地方でも最大規模です。ライバルとなる大手ビジネスギルドも少ない。現時点では一番の狙い目だと確信しています」


 「リスクも大きいと思うが」


 「リスクのない事業などない。そう思います」


 フーダは目を鋭く光らせ、ファイルをテーブルの上に投げた。


 「詰めが甘い!」


 一喝、だった。


 それは彼がかつてサウザンドクロスにいた頃、部下たちを震え上がらせた、鬼上司としての大喝であった。


 「たしかに何事においてもリクスを伴うのは当然だ。そんなことは経営者も投資家もじゅうぶん理解している。だが、コンプライアンスに関するリスクとなると話は別だ」


 「コンプライアンスって何?」


 横から口を出したニーチェを、フーダがギロリと睨んだ。


 「あ……ごめんなさい」ニーチェは頭を下げた。


 フーダは低い声で言った。「コンプライアンスとはつまり、法令を遵守することだ。ざっと目を通したが、扱う商品の中に、規制品が多く含まれているな」


 「その対処もちゃんと考えて――」


 ベインの言葉を遮って、フーダは続けた。


 「ああ、読んだよ。だが、いささかお粗末だ。現状じゃ、その対応策もまだ完成されていないんだろう。もしギルドのトップが逮捕でもされたら、それで何もかもおしまいだ。かといってすべての法律を調べて、細かな対策を練るには時間がかかりすぎる。法律家の顧問でもいればいいが、それほどのキャパシティを持っていないことは、わかっているな?」


 ベインは頷いた。


「そうこうしているうちに市場も変動するだろう。後手後手に回れば資本金などあっという間に雲散霧消。経営破綻は目に見えている」


「規制品への対処は必ず追いつかせます」ベインは必死に食い下がった。「対処を済ませてから行動に移るような積み上げ式のスケジュールではたしかに後手に回ることになる。だからこそ、他の競合相手に先んじるためにも、今動かねばならないんです」


「競合相手も、同じことを考えているだろう」


 フーダはあっさり言い捨てた。


「コンプライアンスによる問題は、往々にして事業のネックとして立ちはだかる。それを打破した者が勝つんだ。その先手の取り合いに、お前が勝てるのか?」


「それは――」


「そうとも、経営とは経営者同士の戦い、食い合いだ。多くの者が、お前の進路を妨げようとするだろう。あるいは再起不能になるまで叩き潰そうとする。お前がそれに対抗できるだけの力を身につけるよりも、はるかに早くな。逃れる術はない。そんな弱肉強食の業界で、お前のようなひよっこが世界一のビジネスギルドを作るだと? 寝言は寝て言え!」


 ダン!

 と、フーダが拳でテーブルを叩いた。


「お前ごときの夢を叶えてやるほど、この世界は甘くねぇんだ、小僧」


 フーダは憤怒の形相でベインを睨んでいた。


 ベインはもはや何も言えず、俯いてテーブルの上のファイルだけを見ていた。


 そのまましばらく時間が流れたが、やがてフーダは表情を緩め、朗らかな笑みを浮かべた。


 「何だ、もう諦めるのか?」フーダは楽しそうに言った。「もしゴラーダなら、ここから巻き返そうと、俄然やる気を出すところだぜ」


 ベインは顔を上げた。


 「私を……試したんですか?」


 「んん……。どうだ、オイラのこと、怖いと思ったか?」


 ベインは口をへの字に曲げた。「ええ、少し」


 クスクス笑いながら、フーダはファイルを手に取り、ベインに渡した。


 「そんなこっちゃ、これから先、とてもやっていけねぇぜ。海千山千の競合相手がうじゃうじゃいるからな」


 「それにしても、あなたは大物すぎました」


 馬鹿野郎、と笑いながらフーダは言った。


 「ハッパかけるつもりで厳しいことも言ったが、事業計画自体はなかなか面白かった。お前、経営者としての才能あるぜ」


 ベインはかすかに目に光を宿らせた。「では融資の依頼も引き受けてくれますか?」


 フーダは鼻を鳴らした。「おうおう、即座に切り返すしたたかさも持っているか。だがこの家を見て、まだそんな話を持ち出してくるようじゃ、もっと洞察力を磨いたほうがいいな」


 古びた木造の小屋は、あちこちガタがきている。長年伸縮を繰り返した壁板には亀裂が入り、天井の梁と梁の間には、蜘蛛が巣でアーチを作っていた。


 「腐っても鯛、と言いますから」ベインは肩をすくめた。「いや失礼。例えが適切ではなかったですね」


 カカカッ、と笑ってフーダは立ち上がった。そして腰の後ろで手を組んで、彼は部屋の中を歩き始めた。


 「ニーチェ、今うちに蓄えはどれくらいある?」


 この問いに、ニーチェはげんなりと顔を歪めた。ほんのわずかでも蓄えが貯まったことなど一度もない。


 「蓄えどころか、明日のご飯をどうしようか悩んでたところだよ」


 「ふむ?」


 「まあでも……いざというときのために、5万リッスくらい隠してあるけど」


 その程度の金では、貸し店舗の家賃一月分にもなりはしない。


 だがフーダは目を細めて、何かを思案するように顎を擦っていた。


 「ま、じゅうぶんだろう」彼は振り向いて、まっすぐベインを見据えた。「融資の件だが、ご覧の通りオイラは無一文も同然だ。だがお前の言った通り、そこは腐っても鯛。融資を乞うためのあてくらいはある。王都に一人、友人がいてな、政治家だがかなりの資産を持っているはずだ。そいつをお前に紹介してやる」


 そいつから金を引き出せるかどうかはお前次第だがな、とフーダは言った。


 ベインも立ち上がった。


 「ありが――」


 「ただし」


 ベインが礼を述べようとするのを押し込むように、フーダは睨みを利かせて言った。


 「条件がある」


 条件? と聞き返すベインを、フーダは強く睨みつけていた。まるで憎悪の感情でもこもっているかのような眼差しだ。


 彼は手で、すっとニーチェを示した。


 「そいつはニーチェ。オイラの娘だ」


 そんな今更なことを、フーダは言った。


 「一人娘で、何もかも失ったオイラにとっちゃ、唯一の家族だ」


 「はい」


 「けっしてじゅうぶんな愛情を注いできたとは言えねぇが、それでもかけがえのないほど大切な、自慢の娘だ」


 「はい」


 「そいつを、嫁に貰ってやってくれ」


 一瞬だけ、静寂が流れた。


 誰も動かなかった。


 誰も喋らなかった。


 が、直後ニーチェは顔を真っ赤にして、すっ転ぶような勢いで立ち上がった。


 「な、な、な、な、な、な、な、」


 朱に染まった顔が、ピクピクと痙攣していた。だだ漏れの汗が止まらない。


 「何を言い出しゅりのよ、お父さん!」


 勢い余って噛んでしまったが、構わずニーチェはありったけの罵詈雑言を父にぶつける。


 「いきなり馬鹿なこと言わないでよ! 本当に馬鹿で阿呆で無神経で下衆で愚鈍で痴人で変態でボケナスでトンチキですっとこどっこいなんだから! 酔っ払った頭で、くだらないこと言わないでよ! この恥知らず!」


 一気に吐き出して酸欠寸前に陥ったニーチェは、小刻みに呼吸を繰り返した。


 「オイラぁ、素面だ」


 フーダはしかし、落ち着いた口調で、じっとニーチェを見ながら返した。


 「お前、いつまでこんな村にいるつもりだ?」


 その目は、ひどく濁った老人の瞳そのものだった。まるでこれまで生きてきた五十余年という歳月が、そのまま霜となって瞳に映し出されているかのようだ。


 「オイラを見ろ。こんな衰えた年寄りに未来があると思うか? もう人生やり直す力も時間も失って、せいぜい安らかに死ねるのを待つだけの憐れな男だ。心は完全に折れて、働く意欲なんざ微塵も湧きゃしねぇ。オイラはな、もう終わった人間なんだよ」


 ニーチェはそんな父親の目に、吸い込まれてしまうような感覚に襲われた。凍てついた沼のような瞳が、彼女の視線を捕らえて放さなかった。父の目がこれほど濁っていたことに、どうしてこれまで気がつかなかったのだろう。


 「口では働く奴のことを馬鹿にしていてもな……実のところはわかってんだ、誰が本物の馬鹿なのか」ぎりっと拳を握り締める。「だがお前は違う。お前は若い。まだまだこれから明るく燃え続けることができるんだ。ベインと一緒にビジネスギルドを興し、外界へ巣立っていけ」


 涙声で訴えて、フーダはベインに目を向けた。


 「5万リッスありゃ、旅費にはなるだろう。後生の頼みだ。こいつの身柄を引き受けて、王都へ連れていってやってくれ」


 ニーチェもベインを見た。


 ベインはしばらく神妙な面持ちで黙っていたが、やがて背筋を伸ばして、フーダを見返した。


 「申し訳ありませんが、その条件はお引き受けできかねます」


 ニーチェの体から力が抜けた。

 当然だろう。いくらなんでも今日会ったばかりの女を嫁にするなど馬鹿げている。彼女は安堵して息を吐いた。


 しかしベインは石のような表情を崩さずに、今度はニーチェに目を向けた。


 「なぜなら、それは私一人の問題ではないからです。こんな若輩者と結婚するなど、今はとても望んではもらえないでしょう。けれどいつか、ニーチェさんが私を夫とするにふさわしい男だと認めてくれたなら、そのときは生涯かけてあなたを守ることを誓います」


 ニーチェの周りで、ぐるりと世界が反転したようだった。


 「それまでは私の事業のパートナーとして、そばにいてもらいたいと願います」


 ふわふわと身が浮き上がりそうになる感覚の中で、ニーチェは何度もベインの言葉を思い出した。


 ――生涯かけてあなたを守ることを誓います。


 何とまあ歯の浮くような台詞か。そんな恋物語で使われる決め台詞みたいな言葉、現実で聞いたのは初めてだ。


 まさか自分が、若干十五歳の少年から、これほどの殺し文句を食らうことになろうとは夢にも思わなかった。


 「あの……ベインくん、それ本気で言ってるの?」


 ニーチェが必死に冷静を装って言うと、ベインは残念そうに肩を落とした。


 「やはり……私では不服でしょうか?」


 不服でしょうか、とはこちらの台詞だ。


 これからビジネスギルドのトップに立とうとしている男が、こんな田舎娘と婚約を結んでもいいのか。


 ニーチェはうろうろと視点を動かした。


 「だって、でも、その……」


 パン、とフーダが手を叩いた。


 「よし、決まりだ」彼はきっぱりと言いきった。「ニーチェ、お前はベインが興すビジネスギルドの、ギルドメンバー第一号だ」


 新入社員にして重役就任だぜ、とフーダは嘯いた。


 「それとな、その事業計画書、ちょいとオイラに預けちゃくれねぇか」


 フーダは穏やかな笑みを浮かべて、ベインに手を差し出した。


 「粗い部分を直してやる。何、大筋は元のままにするからよ。事業計画書にも、通りやすく書くコツがあってな、こればかりは経験を積まねぇと掴めねぇよ」


 ベインは頷いて、ファイルを手渡した。


 そのファイルを愛でるように撫でながら、フーダは大きく息を吐いた。


 「こいつがオイラの――最後の仕事だ」


 フーダの中に、かすかな火が灯った。それはとうの昔に消えてしまったはずの火。彼が挑戦的な課題に取りかかる際に、身に纏っていた闘志の炎だった。


 ――この事業計画書を、最高のものに仕上げてみせる。元サウザンドクロス常務補佐の名にかけて。


 ファイルを手にしたフーダの瞳が、刃のように鋭くなった。


 「それじゃあお前らはもう部屋に戻れ。出発は明日の早朝にするといい。バールタウンから、モール地方行きの汽車に乗れ」


 ニーチェは目を丸くした。「部屋……って?」


 「だから屋根裏部屋だっつの。他にベインを泊める部屋があるか?」フーダはあっさりと言った。「あのベッドなら、お前ら二人くらい何とか寝られるだろう」


 ニーチェはもう少しで父に掴みかかるところだった。


 「ばっ!」またしても顔が紅潮する。「馬鹿ぁっ! ふ、ふ、ふ、二人で寝るとか、そんな、そんなことできるわけないじゃない!」


 父親が娘に何ということを奨めるのか。こちとら背中を撫でられただけで飛び上がるほど多感な時期の女の子である。


 「うるせぇなぁ」フーダは面倒そうに首を回した。「オイラはもう、孫を抱く覚悟はできてる」


 蹴り飛ばすぞこのクソ親父が、という台詞も省略して、ニーチェは黙って父親に飛び蹴りを食らわせた。


 「あの、私は土間でもどこででも寝ますけど」


 ベインが恐縮そうに言ったが、フーダは仰向けに床に倒れた状態で、チッチッチッと舌を鳴らした。


 「おいニーチェ、ベインは大事な客人だぜ。もっと言えば、もうお前の上司に当たるわけだ。そんな御仁をまさか土間に寝かせるわけにゃいかねぇだろ」


 じゃあ私が別の場所で寝る! とニーチェが言うと、今度はベインが首を振った。


 「とんでもない。女性を追い出して寝室を奪うことなどできません。そんなやり方は、男として最低です」


 じゃあどうすればいいのか、とニーチェが迷っていると、フーダがむくりと起き上がった。


 「だからよぉ、言ってるじゃねぇか」


 肩をすくめて、彼は会心の笑みを浮かべた。


 「二人で仲良くお寝んねしやがれ、若造ども」



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