一人娘が男を家に連れ込んでいたときの親父の心境とは
その夜、フーダはいつにも増して酔っていた。
コップに注がれた濁り酒を、舌にも触れさせず一気に飲み下す。そんなことをもう何回繰り返しただろうか。
飲んでも飲んでも酔えない。いや、もうじゅうぶんに酔ってはいるのだが、この程度の酔いでは足りないのだ。もっと酔いたい。もっとはるかに心地よい酔いの世界に入り込みたい。
フーダの酒好きは昔からのことである。かつてはグラスに注がれたウイスキーを少し舐めただけで、意識がふわふわ浮き上がって、蜂蜜の海にでも浸かっているような気分になれたものだ。
しかしルキズ村に来てからというもの、意識がどろどろに溶けるほど飲んでも、心の一部が隙間風に晒されているようで、酒が体に満ちていかないのだ。
気体となった酒を口から吐き出して、フーダはカウンターの向かいに立つ老婆にコップを突き出した。
「もう一杯だ、オババ」
オババと呼ばれた老婆は、この店のあるじ――ポリーだった。
「いい加減にしたらどうかね」
ポリーの忠言など耳にも入っていない様子で、フーダはコップの底でカウンターをガンガンと叩いた。
「うるせぇ! オイラぁ飲まなきゃ手が震えるんだよ」
「あんた、そりゃ病気じゃないかね」
何を言ってもフーダはコップが割れるほどカウンターを叩くばかりで、ポリーはやむなく最後の一本を棚から出してやった。
「毎晩毎晩浴びるほど飲んで……。父親がそんなんじゃニーチェちゃんが可哀相だよ」
「うるせぇっつってんだろうが!」
ポリーは顔をしかめて店の奥に引っ込んでいった。
「畜生が!」
畜生が。畜生が。畜生が。畜生が。畜生が。畜生が。
頭の中に、自分の声が何度も響いた。
気持ちが悪くなり、それを鎮めるためにまた酒を飲む。するとまた頭の中でぐわんぐわんと音が鳴る。
どれほど長いこと、こんな生活を続けているのだろうか。
こうして酒を飲むための金は、すべてニーチェの稼ぎである。
ただでさえ苦しい家計なのに、自分の深酒は槍で貫かれるごとき大打撃であろう。
なのにあの娘は、こんな屑を父親と認め、毎日生活費を稼ぐため盾を売って、きちんと家事までこなしてくれているのである。
――まったく馬鹿な娘だ。
いやニーチェに限らず、この世で働いている人間は皆等しく大馬鹿者だと、フーダの目には映っていた。
そしてかつては自分もそんな馬鹿者であった。
王都にいた頃のことを、フーダは思い出す。
あの頃のフーダは、何千万リッスという大金を、右から左に動かす大物ビジネスマンだった。巨大ビジネスギルドの重役の地位を得ていた彼には、常に多くの人間が薮蚊みたいに群がって、その権力を吸いにきていたものだ。
フーダにとってはそれが自分の誇りでもあった。肩書きを武器に多くの人間を思うがままに操り、涎を垂らしておこぼれを願う部下どもの上に心地よく座っていられる。
まさに人生の成功者であった。そうであると信じて疑わなかった。
だが結局、今にして思えば、自分自身もまたギルドに利益を提供するための、ただの道具に過ぎなかったのだ。
フーダは親友を一人失うことで、それに気がついた。
どれほど金を稼いでも、その金を使う暇もなく働いている自分の愚かしさを理解した。そんな生き様に何の価値もない。
ニーチェにも気づいてもらいたい。働かない父親など見捨てて、街で男でも引っ掛ければいいのだ。そのほうが今よりずっと人生を謳歌できる。
なのにあの娘は――
例え酔い潰れて正体を失っていたとしても、ニーチェの顔なら思い出すことができる。
街での話を聞かせてくれるときの楽しげな顔。二日酔いで呻いている自分を気遣ってくれるときの心配そうな顔。懲りずに向かい酒に挑む自分を諌めるときの怒った顔。
フーダにとって、ニーチェは何にも代えがたい宝物であった。
だからこそ。
こんなガラクタ同然の父親など、さっさと見捨てて離れていって欲しい。
ならば働けばいいじゃないか、と他人は言う。
しかしもはやそんなことはできない。フーダの心は、十五年前、粉々に砕けてしまっていた。
「畜生……もうなくなっちめぇやんの」
空になった酒瓶を転がして、フーダは席から立った。
「帰るぜ、オババ」
ポリーが伝票を持って出てきた。
「ちょっと、お勘定」
「ツケといてくれや。あとでニーチェが払いにくるからよ」
「やめておくれよ。私にゃあの子に支払いを催促するなんてできゃしないよう」
聞こえないふりをして、フーダは店から出た。
すぐによろめいて倒れそうになる。歩き方まで忘れてしまいそうだ。
静かな夜だった。空には満月。雲も流れず風もない。
狭い村なので家にはすぐに帰り着いた。昨夜の二の徹を踏まぬよう、玄関から中に入る。見ると、ドラーム・プレートが入口の脇に置いてあった。もうニーチェは帰っているらしい。
屋根裏部屋にいるのだろうか、と思ったとき、フーダの耳に話し声が聞こえた。
誰か連れてきているのか。この声は――
フーダの呼吸が止まった。
「――男……?」
数秒硬直して、彼は溜息をついた。
何を自分は動揺しているのか。
娘が、男を、家に連れてきている。
ただそれだけのこと。
さて。
どうしよう。
「……ゴホン、ゴホン」
無駄に咳払いしてみた。
何を自分は動揺しているのか。
一人娘が、自分の知らない男を、部屋に連れ込んでいる。
ただそれだけのこと。
さて。
引き返そうかな。
「……馬鹿馬鹿しい」
そうとも、ここは自分の家だ。なぜ引き返す必要があるのか。
さんざん男を作れだの嫁に行けだのとのたまっているのに、いざこの状況になって父親としての性が出てしまったのか?
フーダは意を決して階段に足を乗せた。一歩一歩、踏みしめる感触を確かめながら、彼は注意深く上っていった。
そして――フーダは自分に躊躇する暇を与えずに、扉を開いた。
部屋にはやはり、ニーチェと男がいた。二人ともベッドに座っている。
「あ、お父さん」
ニーチェはハッとした顔で自分を見ていた。
「ああ――」
フーダは何か言おうとして――そこで硬直した。
ニーチェの隣に座っていた金髪の少年。
その顔を見たとき、自分の中の何もかもが、吹き飛んでしまったかのようだった。
フーダはその少年の顔を知っていた。ずっと昔から知っていたのだ。
忘れるはずのない顔。今そこにあるはずのない顔。
そう。その男が、こうして存在し得るはずがないのだ。なぜならその男は、もう自分の心の中にしかいないのだから。
フーダは震える声で、十五年前に死んだ親友の名を口にした。
「ゴラーダ――」
少年は悲しげな笑みを浮かべて、首を横に振った。
「いえ……私はゴラーダではありません」
フーダは叫びそうになった。少年の声も口調も、まさにかつての親友そのままだったのだ。
「お前は……?」
「はじめましてフーダさん。ゴラーダ・リミットの息子の、ベインです」