トロールウルフと謎の少年
日が暮れ、夕闇に侵食されるバールタウンを背に、ニーチェはグリッグ山に向かって荒野を歩いていた。
背負ったドラーム・プレートは十二枚。
朝から一枚も減っていない。
これで明日は早起きして盾を作る必要がないかな、とニーチェは明るく考えてみた。
それが愚かしい考えであることくらい、じゅうぶんわかっている。
なぜ売れないのだろうか。やはり値段が1500リッスというのは高すぎるのか。しかし利益を考えると、これでもぎりぎりの良心価格なのだ。丈夫なブルベアードの皮を使っているため、品質にも絶対の自信がある。
そうとも。昨日は六枚、おとといは四枚売れたのだ。今日は運が悪かっただけに違いない。
明日になればきっと売れてくれる。
明日になれば――
ニーチェは思う。
明日、自分はきっといつものようにバールタウンで盾を売っているだろう。そして明後日も。その次の日も。
繰り返してきた日々。これからも続く日々。
十八歳。世の中の娘たちは、まだ遊びたい盛りだろう。友達や恋人と、いろんな場所に出掛け、いろんなものを買って、いろんなことを知る年頃だ。
しかし自分には、そんな娯楽に走ることは許されない。毎日必死で商品を売り、わずかな稼ぎで生活をやりくりせねばならない。
それが続くのだ。永遠に。
このまま歳を取って、恋愛も経験もせず、ただ盾を売る。そんな人生を送るしかない。
だが構わない。それが自分の選んだ道なのだから。
山道に差しかかり、ニーチェは空を見上げた。
美しい満月が輝いていた。
ニーチェの頬に雫が伝う。
満月のせいだ。満月があまりにも綺麗だから、涙がこぼれてしまったのだ。
彼女は服の袖で顔を拭い、小石が散らばる山道を歩き続けた。
そのとき、何かが聞こえたような気がして、ニーチェは立ち止まった。
周囲を見渡しても虫の一匹さえ見当たらない。付近一帯、透徹した静寂に包まれて、時さえ死んだようだった。
数秒――
前方の闇の中から、何者かが猛然とニーチェのほうに駆けてきた。
現れたのは、バンダナを巻いた剣士だった。必死の形相で矢のごとく走ってくる剣士が、昼間に出会ったタチノネという男だと気づいたとき、二人の間はほんの数メートルに迫っていた。
「危なっ!」
ニーチェが叫んだときにはもう手遅れで、真っ向から激突され、突き飛ばされた彼女は、地面に背中をしたたか打ちつけた。
「痛ぁ……っ」
倒れた衝撃で、背負っていたドラーム・プレートが散らばった。
呻きつつニーチェが起き上がると、タチノネは恐ろしいものでも見るような目をこちらに向けていた。
「あ、あんた……。昼間の盾売り……」
「何っ……何ですか?」
実際、彼はひどく怯えているようだった。脚は力が入らないかのように震えており、噛み合わない歯がカチカチと音を鳴らしていた。
「逃げろ、逃げろっ!」
突然マーガスはニーチェの肩を掴み、激しく揺さぶった。
「えっ、えっ、逃げるって?」
「あれが来る! あれが!」
あれって何ですか、とニーチェが問おうとしたとき。
それは来た。
空から、巨大な影が降ってきて、轟音とともに着地する。
家ほどもある巨体。月光を反射する滑らかな漆黒の毛並み。雷鳴を思わせる、ゴロゴロという身の毛もよだつ唸り声。
ニーチェにとってそれと相対したのは初めてであったが、彼女はそれの正体を瞬時に理解した。
「トロールウルフ……」
絶滅したはずの、エグザ地方最強の魔物。こんなものがグリッグ山にいるわけがない。まさかまだ生き残っていたというのか。
なぜ、どうして。
ニーチェの頭に様々な疑問がよぎったが、そんなもの、トロールウルフの口を見た瞬間に、いっぺんに吹き飛んでしまった。
それはきっと、これまでのニーチェの人生の中で、もっともおぞましい光景だっただろう。
トロールウルフは突き出た口に、タチノネのパートナーだったリユースを咥えていたのである。
リユースは、剥き出しの牙に腹をがっちりと捕らえられ、その下半身のほとんどがすでに飲み込まれていた。纏っていた布ははがれてほぼ全裸状態。だらんと両手を垂らし、口から血の泡を吹いている。まるで壊れたマネキン人形のようだった。
「か……は」驚いたことに、かすかにリユースの口が動いた。「ダズ……けて……」
まだ息があるのだ。
ニーチェは呼吸さえも忘れた。
トロールウルフの口から逆さまに生えているかのような状態で、リユースは助けを懇願する目をニーチェに向けていた。
「ぐ……ばっ……」
ずるずると、何かを啜る音が聞こえた。
トロールウルフが、潰れたリユースの下半身から、熟れた果実を吸うように内臓を啜っているのだ。
「あひっ、ギッ、吸わないで、ずワないデっ」
リユースは舌を突き出してしばらく痙攣していたが、やがて白目を剥いて動かなくなった。
――地獄絵図だ。本当に地獄絵図だ。
ニーチェは、失神してしまいそうになるのを必死に堪えていた。
「ひいいいいいいッ!」
タチノネが狂ったように絶叫し、ニーチェを突き飛ばしてその場から逸走する。これまで連れ添った相棒をあっさり見捨てて、若く自信に満ちていた剣士は脱兎のごとく逃げ出した。
それを、トロールウルフの悪魔のような眼光が捉えた。
魔獣は咥えていた食い残しを一口で飲み込むと、その巨体を大きく震わせた。
次の瞬間、地盤を踏み抜くほどの勢いでトロールウルフが跳んだ。その跳躍力は羽根でも生えているのかと思うほど驚異的なもので、全速力で逃げていたタチノネをあっさりと飛び越え、その前にズドンと着地した。
「ぐっ……!」
剣士としての誇りが残っていたのか、それとも追い詰められた獲物の防衛本能か、タチノネは剣を抜いた。
「うわああああああッ!」
悲鳴にも似た必死の気合を放ち、タチノネは全身全力を込めた一閃をトロールウルフに向かって放った。
神速の一撃が、たしかにトロールウルフの首元を捉えたかに見えたが――魔獣は人間の瞬発力をはるかに凌駕するそれで、飛来した剣をがっきりと牙で受け止めていた。
そして次の瞬間、鋼の剣はまるで焼き物であるかのように、パキリと噛み砕かれた。
タチノネは折れた剣を見て固まった。
彼は思い出す。リユースと二人、泥棒市場を離れたあと、せめて一匹くらいトロールウルフが残っていないものかとこの山に向かったのだ。あのとき、大人しく帰ることを選択していれば――
魔獣と剣士の――捕食者と獲物の目が合う。
これがタチノネの最期だった。
トロールウルフが雷の速度でタチノネに噛みつき、その上半身を一撃で食いちぎった。もちろん断末魔の叫びなど聞こえなかった。
そして、肉塊となったタチノネがバリバリと食われていく様を、ニーチェはただ呆然と眺めていた。
彼女は動けなかった。
ひょっとしたら、さっきトロールウルフが自分ではなくタチノネに狙いを定めたとき、逃げるチャンスがあったのかもしれない。しかし彼女は思考回路が凍結してしまったかのように、指一本さえ動かすことができなかったのである。
そして――トロールウルフが双眸をニーチェに向けた。
もはや、活路は断たれていた。
ニーチェは死を覚悟した。いや、それは覚悟と呼べるほどはっきり意識したものではなく、ただ何となく、自分はこれから食われるのだという漠然とした予感だった。
人生最大の窮地だというのに、ニーチェの頭は幻惑に陥ったかのようにぼんやりとしていた。それはもしかしたら恐怖を和らげるために、脳がわざと意識を朦朧とさせているのかもしれない。
いっそ失神してしまえば、苦しむことなく逝けるだろうか。
ニーチェは目を閉じた。
人は死ぬ直前に、これまでの人生を走馬灯のように振り返るというが、自分にはわざわざ記憶の底から蘇らせるような思い出など何もない。毎日毎日、ドラーム・プレートを売ってきた。ただそれだけの人生だ。くだらない。何が、明日は盾が売れるかな、だ。気にするのはそんなどうでもいいことばかりか?自分に明日など来ない。ここであっけなく死んでしまうのだ。友達も恋人も作らず、盾を作って売って作って売って、馬鹿馬鹿しい、つまらない人生だった。
何を惜しむことがあろうか?
「や……」
それでも。
今このとき、自分の正直な本心と向き合ってみれば、ニーチェはかすかに希望を抱いていた。
もしかしたら。
いつかもっと大きな店を持って、たくさんのお客に恵まれるかもしれない。
いつか絵本に出てくるような王子様が現れて、自分を幸せにしてくれるかもしれない。
そんな誰しもが夢見る将来の希望を、彼女は持っていた。信じたかった。いつか王都で過ごしたあの華やかな生活に戻れる日が来ることを。いや、あれほどの富に恵まれなくとも、せめて生活に困らない程度の収入を得て、人並みな、幸福な家庭を持てれば。
「いや……」
だがそんな希望は、もはや滑稽なジョークと成り果てた。将来などない。未来など見えない。目を開けて見えるのは、死をもたらす漆黒の狼のみだ。
トロールウルフが身を震わせる。来る、とわかっていても動けない。これで終わる。避ける術はない。
魔獣の巨体が、宙を飛んで、ニーチェ目掛けて降ってきた。
こんなことなら。
今日死ぬのだとわかっていたなら。
もっとやりたいこともたくさんあったのに。
後悔の念に包まれながら、ニーチェは迫り来る鋭牙を見据えた。これが自分の視界に映る、最後の光景。
涙が、こぼれ落ちる。
嫌だ。
死にたく、ない。
「いやああああああッ!」
だが。
「でいやああああああッ!」
自分の悲鳴の直後に、咆哮が聞こえた。
と同時に。
目前まで迫ったトロールウルフが、突然後方に吹き飛んだ。
「えっ……?」
ニーチェには何が起きたのかわからなかった。
――吹き飛んだ? トロールウルフが? 助かった? そんなまさか。
頭を振って意識をはっきりさせると、自分のすぐ隣に誰かが立っていた。
「ふうっ」
それは、少年だった。
ニーチェより一回りくらい若い金髪の少年が、身の丈ほどもある大斧を構え、悠然と佇んでいた。
「大丈夫ですか?」
少年はちらりとニーチェを見た。三日月のごとき優美な形をした大斧の刃は、大岩に叩きつけられてのた打つトロールウルフに向けられたままだ。
「あ、えっと、その」
ニーチェは何か言おうとしたが、その言葉を遮るように、少年が手を突き出した。
「下がっていてください」
見ると、起き上がったトロールウルフが、潰れるほど体勢を低くして唸り声を上げていた。
表情から獣の感情を読み取ることなどできはしないが、間違いなく激怒しているのだろう。
しかし少年はまったく臆することなく、大斧を高く掲げて数歩前に出た。
「トロールウルフ……ですか。なかなか珍しい魔物がいたものだ」
呟く口調に危機感はない。むしろこの状況を楽しんでいるようだ。
ニーチェは現状把握が追いつかなかった。突然現れた彼は、いったい何者なのだろうか。
「あの、今、何が起きて……?」
「いいのを一発食らわせたんですけどね。まるで鋼みたいに強靭な筋肉だ。この斧で切り裂けなかった魔物は初めてですよ」
ニーチェの問いに、少年は飄々と答える。
緊張している様子も脅えている気配もまったくない。
「あのっ」
「大丈夫、ここは私に任せてください」
年齢に似合わぬ紳士的な口調で少年は言った。
トロールウルフが身を震わせる。
その呼吸に合わせるように、少年も身をかがめた。
「あの巨体に傷を負わせることは、まず不可能。しかし」
次の瞬間、魔獣の体が爆ぜ、隕石のごとき速度でニーチェたちに向かって突進してきた。
と同時に、少年も飛んでいた。その跳躍力はトロールウルフに及ぶべくもないが、それでも彼は常人の身体能力をはるかに上回る高さまで身を浮き上がらせていた。
少年と魔獣の体が激突しようかという瞬間、彼は手にした大斧を振り上げていた。
「ただ――一部を除いては」
大斧が横薙ぎに払われて、美しい弧を描く。
その直後、トロールウルフは地を裂くような叫びを上げて、横倒れに地面に沈んだ。
ニーチェは我が目を疑った。
少年が放った大斧の一閃が、トロールウルフの両眼を切り裂いていたのである。
雷のような絶叫が轟く。
双眸を切り裂かれ、光を失ったトロールウルフは、しばらく牙を剥き出しにしてのた打ち回っていたが、やがて地を蹴って跳躍し、山の向こうへと逃げていった。
「……すごい」
ニーチェは、今起きたことが信じられなかった。こんな年端も行かぬ少年が、あのトロールウルフを撃退したのである。彼女はにわかにこれが現実の出来事なのかどうか判断できなかった。
静寂が戻った山道で、ニーチェと少年は向かい合った。
「あの……あなたは、いったい?」
「ベインです」
少年はさらりと言った。
「私の名はベイン・リミットです。わけあって、この山の向こうのルキズ村に向かっていたのですが、途中であなたが襲われるのを発見し、馳せ参じました」
本当に、少年とは思えない口ぶりだった。
ニーチェはベインの目を見ながら、何度も瞬きした。
「えっと、ありがとうございました、ベインさん」
彼は苦笑した。「さん付けはやめてください。きっと私のほうが年下ですから。えっと……」
あなたは? とベインが問う。
「私はニーチェ。本当に助けてくれてありがとう、ベインくん」
「いえいえどういたしまして、ニーチェさん。むしろ、申し訳ありませんでした。もう少し早ければ、お連れの方を助けることができたのに……」
一瞬ニーチェは首を傾げたが、ややあってそれがタチノネたちのことを言っているのだと察した。
「あ、ううん。連れっていうか……ほとんど知らない人たちだったから。だけど可哀相……。二人ともまだ若かったのに……」
他人といえど、尊い命が失われたことには心が痛む。彼女は心の中で二人の冥福を祈った。
「ところで」ベインが、地面に転がっていたドラーム・プレートを指差した。「それらの盾は、あなたのものですか?」
ニーチェは頷いた。「あ、うん。私が売ってる商品なの」
「へえ、それじゃひょっとして行商人?」
「うん、そう。ルキズ村に店を開いているんだけど、こんなところにお客さんなんて来ないから……」
それを聞いて、ベインはパッと顔を輝かせた。
「ああ、それじゃ地元の人なんですね。ちょうどよかった。迷わず村に辿り着ける自信がなかったんですよ。よければ案内していただけませんか?」
ニーチェはクスッと笑った。
「ええ、もちろん。ベインくんと一緒なら、心強いから」
ニーチェの中にはもう、さっきまで感じていた死の恐怖はなくなっていた。こうしてベインと話しているだけで安心できて、心に力がみなぎってくる。彼女にとっては彼が、まさに救世主のように感じられた。
盾をすべて拾い集めて、二人は並んで歩き出した。
「それにしても、本当にベインくんって強いんだね。まだ子供なのに」
ニーチェの言葉に、ベインは少しだけ口を尖らせた。
「子供でもないですよ。もう十五歳ですから」
じゅうぶん子供だとニーチェは思った。自分自身でさえ、まだ完全に大人としてのわきまえを会得したとは思っていないのだから。命の恩人とはいえ、三つ下の子にそんなことを言われては立つ瀬がない。
「十五歳は、えっと……」
「ああ、大丈夫ですよ」ベインは、真剣な顔をニーチェに向けた。「女性に年齢を尋ねたりはしませんから」
ニーチェは笑ってしまいそうになった。大真面目な顔で、そんなことを気遣われるのは何やらおかしく思えてしまう。
口調もそうだが、ちょっと変わった子かもしれない。そうニーチェは思った。もちろん不快な意味ではなく。
「ところで……ベインくんはルキズ村に何の用で来たの?」
ルキズ村は本当に何もない村なのだ。今たまたま人が住んでいるだけで、いつかは自然に飲み込まれてしまう予感さえニーチェは抱いていた。
「ああ、ちょっと人を捜していまして」
ベインは、服のポケットからメモを取り出した。
「名前しかわからないんですけど、もしかしてニーチェさん知っていますか?」
彼は目を細めて、そのメモを読んだ。
「えっと……フーダ・ドラームという人なんですけど」
ニーチェは足を止めた。その小さな偶然は、一瞬彼女の心を脈打たせ、思考を奪った。
ベインが振り向く。
「ニーチェさん?」
ニーチェは呆けたような顔で、ベインを見返した。
「知ってる――かもしれない」