第一話 ニーチェ
「ドラーム・プレートはいかがでしょうかぁ」
もごもご動く口の隙間からそんな声が漏れた。
意識が睡眠下にありながらも、商人としての根性が、商品を売ることを求めているのだろうか。
「強度は抜群、何年も長持ち、一枚たった1500リッスです」
ごろりと寝返りを打ち、彼女は毎日繰り返してきた台詞を寝言として吐き出す。顔の筋肉を伸ばして丸めて歪めてねじって、商売用の表情作りも忘れない。これらはもう彼女にとって、呼吸と同じくらい身についているものだ。それは夢の中でも変わらない。
「いらっしゃいませぇ」
口元が大きく歪んだ。まぶたがピクピクと動いている。夢が終わるまであと数秒――
「ありがとうございました、またご利用くださいませ!」
一際大きく叫び、彼女はがばっと起き上がった。
そのまま制止すること約五秒。
起きたばかりでとろんと垂れた目は、見慣れた屋根裏部屋をぼんやりと映している。さっきまで自分を囲んでいたはずの、札束を振り上げて商品を求める客たちの姿は、影も形も消え失せていた。
「……売れ行きがよすぎると思った」
大きく息を吐き出し、彼女――ニーチェ・ドラームは、両腕を広げてばったりとベッドに倒れ込んだ。
さあ新しい朝が来た。服を着替えて屋根裏部屋から降りたら、テーブルに置かれた母の写真を見ながらスズ麦パンを食べる。喉に詰まったミルクがないぞと騒いだあとで、玄関扉を開き、今日の朝日にこんにちは。井戸から水を汲み上げるのは、この細腕じゃ重労働。薪の残りを確認して、家に戻ればまた一仕事。埃っぽい土間に道具を広げて職人作業。五角形の赤樫板に粘着ロウを垂らして、ブルベアードの皮を貼り付ける。ムラがないようにロウを伸ばす作業が神経を削るけれど、大事な商品の品質に手は抜けない。店印を押して完成。これがドラーム・プレート、当店自慢の盾でござい。五枚ほど完成させて一休み。昨日の売れ残りと合わせて十二枚。少し作りすぎたかもしれない。それから後片付けをして――朝のお仕事完了。
これが、ニーチェの日課だった。
ニーチェ・ドラーム。
低い背丈に、細めの体躯。色白の肌。群青色の髪。ポンチョのような布の服。蝶々のような金の髪飾り。
ギルサニア共和国イーガスゴッド大陸エグザ地方ルキズ村にて、小さな防具店を経営している十八歳の女の子である。
ルキズ村は山岳地帯に囲まれた、大陸と比較すれば麦粒のような村だ。その人口は年々目減りし、今や百人足らず。農耕を生活の主とし、各地で魔物が跋扈する今の世でも、武具より農具のほうが重宝されていた。
そんなところで店を構えていても当然客など来るわけもなく、ゆえにニーチェは作った盾を抱え、一山越えたバールタウンまで行商に出向かねばならなかった。
「これでよし」
重ねた盾十二枚をずしりと背負い、大鞄を持って、ニーチェは玄関扉に手をかけた。昼過ぎにバールタウンに到着するには、もう出なければならない。だが、そこで彼女はふと気づいた。もう一つ、所用を残している。
ニーチェはまずトイレに回り、それから風呂場を確認し、続いて階段下の物置を覗いた。
――いない。
――どこにもいない。
しばし思案を巡らせて、ニーチェは裏口から外に出た。家の壁に沿ってぐるりと歩き、彼女は自分が数日前に新しく掘った、ゴミ捨て用の穴を注意深く覗いた。
――いた。
穴の底で、ゴミにまみれた男が、空っぽの酒樽を抱えて眠りこけていた。
「お父さん!」
ニーチェが穴の上から呼びかける。何と情けない光景か。もう五十過ぎにもなる男がゴミのベッドでお寝んねとは。
フーダ・ドラーム。ニーチェの父親だった。
「んん……ニーチェか……?」
何度か呼びかけられて、フーダは酒樽を抱き締めたまま、むくりと起き上がった。
「んぁ……何だぁ……? オイラぁ、どうしてこんなとこにいるんだぁ……?」
「こっちが聞きたいよ。その酒樽は何?」
フーダは酔っ払い特有のうらめしそうな目つきで、ニーチェと酒樽を交互に見比べていた。
「さあなぁ。昨日の晩、オババの店で飲んで……そっから覚えてねぇや」
ニーチェは溜息をついた。またか、という思いである。
ルキズ村にはポリーという婆さんがいて、自家製の酒を村の男たちに振舞っている。フーダはその常連客だった。
大方昨夜もそこで馬鹿のように馬鹿飲みして、馬鹿みたいな千鳥足で帰る途中、お馬鹿にもゴミ捨て用の穴にはまってそのまま寝てしまったのだろう。馬鹿そのものである。
「本当に馬鹿なんだから、もう」
「あんだとぉ!」
フーダは穴から這い出ようと手を伸ばしたが、掴んだ土が手の中で崩れ、そのまま彼はもんどりうって再びゴミの上にぶっ倒れた。
ニーチェは頭を振って穴から離れた。
「じゃあ私はもうバールタウンに行くからさ、ちゃんと綺麗にしてから家の中に入ってね」
穴の底から、獣のような唸り声が聞こえた。
「何でぇ……お前まだそんな盾売りに出掛けてんのか」
「しょうがないじゃない。だってお父さん仕事しないんだもん。この盾売らずに、どうやって生活するのよ」
振り向くと、フーダの頭だけがひょっこり穴の淵から見えていた。
「うるせぇ! 何が仕事だ。仕事なんざくだらねぇ。この世の中、働いてる奴らぁ皆、馬鹿ばっかりだ!」
――働く奴らは皆馬鹿だ。
それがフーダの口癖だった。
ニーチェは思う。ゴミ捨て用の穴から叫んでいる男より馬鹿な人間が、この世の中にいったいどれほどいるのだろうか。
「お前もいつまでもこんな村にいねぇで、さっさとどっか嫁にでも行っちまえ!」
もうニーチェは、返す言葉を考えるのも馬鹿馬鹿しかった。やれやれとばかりに肩をすくめ、踵を返して、彼女は村を囲う柵の出口へと向かったのだった。
グリッグ山は、自然を感じるための散歩道として選ぶにはまったく適していないハゲ山だった。青々とした木々などどこにも生えてはおらず、剥き出しになった岩石ばかりが散らばる、美しくも面白くもない景観であった。
ニーチェはこの山をほぼ毎日通っていたが、リュックを背負った登山者とお辞儀を交わしたことなど一度もなかった。ときたますれ違う相手といえば、頭上を飛んでいくハゲタカ――グリッグバルチャーがせいぜいである。
もっとも昔はエグザ地方にも多くの魔物が生息していたと聞く。特にトロールウルフという狼が生息していたのはこの山だけで、高級素材となるその毛皮を求め、各地からハンターたちが押し寄せてきていたらしい。トロールウルフが絶滅した今となっては、それも関係のない話であるが。
もし自分がその頃に生まれていれば、ドラーム・プレートも飛ぶように売れたのかな、とニーチェは考える。
あるいはこの山にまたトロールウルフが復活してくれたなら、それを狩るために訪れるハンターたちで村が賑わい、商売も繁盛してくれるかもしれない。
そうなれば、ひょっとしたら――また王都で暮らす生活を取り戻せるかもしれないのに。ニーチェはそんな思いを馳せる。
もう十五年も昔のこと。
ニーチェはお嬢様だった。
王都に大きな屋敷を構え、たくさんの使用人を召抱え、綺麗なドレスを着て、豪華な食事を食べる。そんな上流階級の暮らしを、彼女は手にしていたのだ。
今の酔っ払い馬鹿親父の姿からは想像もできないが、フーダはその屋敷のあるじで、両手いっぱいの富と権力を持った経済界の巨人だったのである。
それはかつてフーダが、世界最大と呼ばれたビジネスギルドの重役だったからなのだが――すべては過去の栄光に過ぎない。
十五年前、あの父親は、ある日突然、家族に何の説明もなしにビジネスギルドを辞めてしまったのである。そればかりか、その日を境にフーダはまったく働かなくなってしまったのだ。いきなりあるじが無職無収入となったドラーム家はそれまでの暮らしを維持することなどできず、泣く泣く屋敷を引き払い、ルキズ村へと引っ越した。まさに惨めな都落ちであった。
引っ越してからもフーダは一向に働かなかった。ニーチェの母ニーナは、なぜ仕事をしないのかと夫に詰め寄ったが、彼は――
「仕事なんざくだらねぇ」
と、あっさり言い放ったのである。
かつては巨万の富を掴んでいた男が、どうしてそこまで落ちぶれてしまったのか、それは娘であるニーチェも知らない。しかしどうあれ、生きていくには物が必要、物を買うには金が必要、金を稼ぐには仕事が必要なのである。
やむなくニーナは残った資金で防具店を開いて、一人切り盛りすることとなった。その仕事をニーチェも率先して手伝った。フーダだけは変わらず何もしなかった。
そんな夫としても父親としても最低な男フーダ・ドラームであったが、結局彼とニーナの間に離婚調停が結ばれることはなかった。
ニーナ・ドラームはある日、雷に打たれてあっけなく他界してしまったのである。
突然母親を失ったニーチェは、もちろん傷つき悲しんだ。周囲の人間も、不幸に見舞われた少女を哀れみ、様々な慰めの言葉をかけてくれた。
しかしニーチェの心が傷ついたことを察してはくれても、その傷がどれだけ深いのか、どれほどの血を流しているのかは、誰一人として真に理解してくれなかったのである。もっともそれは当然のことかもしれないが。
残った家族は稼ぎのない父親一人だけ。いったいこれからどうすればいいのかもわからず、ニーチェはただひたすらに泣いた。
泣いて泣いて、涙が枯れるほど泣いて――
そして、ニーチェは気づいた。自分は、一人で泣いているということに。
自分は、一人で悲しんでいる。当然だ。
泣くのも一人。
喜ぶのも一人。
怒るのも一人。
人は一人で生きている。これからどうするのか、それを決めるのは自分しかいない。このまま朽ちるまで泣き続けているか? それとも生きるためにパンを食べるか? どちらを選ぶのか、その決定権は自分にある。
そしてニーチェは決めた。母の分まで生きるぞと、そう決めたのである。
以来ニーチェは防具店を受け継いで、一人、自分と父親の生活を支えている。
朝早くドラーム・プレートを作ることも、こうしてグリッグ山の砂利道を歩むことも、華奢な娘であるニーチェにとっては、けっして楽な生活ではない。しかし彼女は、そんな毎日を繰り返す自分に対して異議を唱えたことは一度もなかった。
すべては自分自身が決めたことだから。
これが自分の生きる道なのだ。