20 妻と父と花の種
ある日の船の上、ヘルメスが思い出したかのようにイオに尋ねた。
「ああ、ときにイオポッサ。イアソンはどうしていますか?」
「イアソン様は、メデイア様のお部屋にずっと篭もっていらっしゃいます。私はメデイア様のお世話係を外されてしまったので詳しくは分かりませんが……。お部屋に食事を運ぶ係の方に私が行きたいと頼んだら、あなたにはまだ早いと言われました。洗濯物の回収に行きたいと言った時には、生娘には酷だと言われました。」
「……うん。私はコルキスには行かなくてもいい気がしてきました。次の有人島で別れましょう。」
途中の島でヘルメスと別れて、また二人きりになったイオとレウスは、愛を育みながら進んでいた。
有人島、特に大きな島に寄るのは、イオにとって特別な経験だった。沢山の人に会い、初めて宿にも泊まった。
そして有色差別を目の当たりにした。二人共身なりが良かったせいか、排斥はされなかったが、恭しく扱われると同時に、人々は恐怖感と嫌悪感を漂わせていた。
「なんだか寂しいですね。」
疎外感には慣れているイオも、活気のある街で腫れ物に触るように恐る恐る特別扱いされるのは、なんとも言えない気持ちになった。
「俺はもう慣れたよ。コルキスじゃ王族と思われてたおかげで、もうちょっと好意的だったけどね。それってつまり、あの王家はそれなりにマシな土地管理を代々してきたってことだよね。茶色の平民が色持ちを怖がるには訳があるんだ。酷い目にあったことがなければ、そんなに怖がるわけがないからね。」
「そうなんですね……」
「俺たちの子も色持ちになる可能性が高い。横暴な振る舞いをさせないように、ちゃんと教育しよう。魔法は自衛ならともかく、暴力に使うものじゃないよ。」
「そうですね、分かりました。」
そうしてやっとコルキス島が見えてきた頃、レウスはメデイアと師匠にフクロウを送った。けれど二人から返信は来なかった。
イオとレウスがコルキスの港についた時、そこは閑散としていた。アリエス号を係留して上陸する。
「フクロウの返事がこなかったことといい、なんだか嫌な感じがするな。……イオ、何があっても俺たちは夫婦だ。十月十日は産まれないが、お腹には子が宿ってるかもしれない。問題が起きても必ず迎えに行くから、信じて待っていてくれ。」
「はい、分かりました。」
徒歩で王の館へ向かうと、門の周りに見慣れない見張りがいた。かつてイオが門まで出て来ることはなかったので、そもそも見慣れた見張りなどいないのだが、それでも異様に感じる何かが見張りをしていた。警戒し、木の陰から二人で観察する。
「レウス様、あれは一体……」
姿勢を低くして木陰から様子を伺うレウスの後ろで、同じように屈みながらイオは尋ねた。
「あの肌……。考えられるとすれば、あれは神話のスパルトイだな。持ち主である国王が見張りなんかに使うわけがない。つまりは、現在館は国王の管理下にないってことだ。」
レウスは門から目を離さないまま、イオに説明する。
「スパルトイ、ですか? それは一体……」
「ギリシャ神話では、蒔かれた竜の歯から生まれた戦士だけど……」
その時、イオは後ろから口を塞がれ持ち上げられた。
「?!」
「イオ?」
振り返ったレウスが目にしたのは、拘束されたイオだった。
「アイギアレウス、よくも我が花嫁を強奪してくれたな。殺される覚悟はできているか?」
「ペルセース!!」
叔父の名を呼びながら立ち上がり、レウスが周りを見回すと、数人のスパルトイと思しき兵たちに囲まれていた。魔術の研究はしていても、立ち回りなどしたこともないレウスには、周囲の気配を察することなどできなかった。
「兄上は既に王座から引きずり下ろした。この国の王は私だ! この娘には私の後継者を産んでもらおう。」
「何?! ……でも遅かったですね。鷹の伝言を聞きましたか? イオは俺の妻になった。腹には俺の子がいる。叔父上の野望は潰えました。」
子供のことはレウスのハッタリであったが、女神ともされる魔女たちの決定を覆す勇気のあるものは、これまでこの館にはいなかった。
「ほざけ! そんなものメデイアの薬草で堕ろせばいい。お前は終わりだ。スパルトイに殺され、我が国土の肥やしとなればいい。わはははははっ! ……ヤれ!」
レウスの思惑も虚しく、奇妙な兵士スパルトイたちがレウスに向かって行った。
「イオ! 必ず助ける! 待ってて! 愛してる!」
戦う術のないレウスは、スパルトイたちの攻撃をかわしながら、イオに愛を叫んで森へと消えていった。
「はっ! 口ほどにもない。お前の妻は私のものだ!」
ペルセースはイオを抱えたまま馬に乗り、王の館へと駆けていった。
「メデイア! 生かしてやった約束通り、言うことを聞け! 堕胎薬を作るのだ!」
館に到着早々、ペルセースはイオを引きずり部屋に行き、ベッドにいるメデイアに命令した。
「ペルセース、カエルにされたいの? 部屋に入るなと言ったでしょ?」
露わな肌をガウンで隠し、メデイアは不機嫌な声を上げた。
「私は王だ! なぜ敬意を払わん!」
メデイアは、目を泳がせながら横たわるイアソンの肌を指でなぞりながら、ペルセースの顔も見ずに答える。
「私は誰にも敬意なんて払わないわ。私をイアソンと好きにさせるのが約束のはずよ。なぜ邪魔をするの? 変身は豚がいいかしら?」
「……邪魔はしない。この娘には私の子を産んでもらう。そのためにアイギアレウスの子を流す堕胎薬を作って欲しい。」
「そんな無駄なもの、作ったことありませんわ。キルケー姉上に頼んだら?」
メデイアからキルケーの名を聞くと、先ほどとは打って変わって、ペルセースは慌てだした。
「あ、あいつは駄目だ! アイギアレウスの味方だと宣言した。側妃は塔に引き篭もって出てこないし入れない。お前しかいないんだ。」
「そんな娘に拘らず、勝手に王位を継いだらいいじゃありませんの? なぜ私に面倒なことを頼むのよ。」
「私は前王の子だ。……王妃の子であっても神の血を継いでいない。神の血筋が必要なんだ。」
「神? そんなの、単なる異世界の侵略者でしょ? 王になりたいならあなたの責任と裁量で王になればいいわ。歴とした王の子じゃない。誰も止めないわよ。」
「それでは……それでは駄目なのだ! 太陽神ヘリオスの子である、兄上の娘が産んだ後継者を得なくては!」
「はっ! とんだ小心者ですこと。いいですわ、薬は作りましょう。でも満月を待つ必要があります。それまでその子はここで働かせましょう。私の侍女ですもの。」
「そうか! ……いや、駄目だ。薬ができるまで……娘は父親と同じ部屋で拘束する。それならば別の男と間違いは起きないだろう。」
「さすがはゲス男。とんだゲスの勘ぐりですこと。私の夫に別の女を触らせるわけがありませんのに。……好きになさい、とにかく出ていって! 邪魔をしないで!」
「わ、分かった。」
ペルセースはイオを抱えて、すごすごと退散した。口を塞がれていたイオには、扉が閉まる直前、メデイアの金の瞳が意味ありげに光ったようなに見えた。
「満月までお前はここにいろ! 私への輿入れ前に、父親へ結婚の暇乞いでもするがいい!」
入り口をスパルトイ兵が守る部屋にイオを押入れると、ペルセースは去っていった。
急展開にイオは理解がついていかなかったが、部屋の奥にいたのは、質素な格好でソファに座る青い髪の初老の男性、コルキス国王アイエテスだった。
「あの……国王、陛下……」
「もう知っているのだろう? 父と呼びなさい。」
「おとう……様?」
「そなたは幼かったゆえ、覚えてなかろうがな。母の臨終には共に立ち会ったのだ。」
「赤が……散った、時に?」
思わず足を前に進めながら、イオは国王の側まで寄った。
「そなたの母は美しかった。……大切な坊やのために種を残したいと言ってな。たった一夜のことであったが、それ以来忘れられぬ。臨終の際もそれは美しかった。……本来はわしの手など届かぬような、花の精霊であったよ。」
「花の、精霊……」
「覚えてはおらぬか……。王妃の嫉妬で手元で育てることは叶わなかったが、そなたのことはずっと気に掛けていた。アイギアレウスとの縁組は願ってもないものに思われたのだがな……」
「レウス様……。あの方は私に愛を教えてくださいました。お腹には子がいるかもしれません。……ペルセース様の子を産むために、堕胎薬を飲まされるのは嫌です。」
「そうか……。わしが不甲斐ないばかりに、すまない……」
「お父様……本当にお父様なのですね。」
「あぁ、父として会うのは、あの日以来だな。そなたを抱きしめさせてくれ。」
「あの……夫以外には体を触れさせてはいけないと教えられたのですが、親子ならばいいのですか?」
「ふっ、アイギアレウスは嫉妬深い男だったのか。……いつも気のない様子であちこちフラフラしとったが、存外情の深い男であったのだな。あの赤い花の精が、心を砕いて種を残そうとするだけのことはあったということだ。」
伸ばした手を寂しげに下ろしながらも、レウスのことを語る国王は笑んでいた。
「花の精……お母さんが、レウス様に種を……残したんですか?」
母親が花の精だという驚き事実の上に、イオは更なる衝撃を受けた。
「あの時、金髪の男の子はアイギアレウスだけだった。だから金の髪の坊やはレウスなのだろう。一粒種のイオポッサを、あれの希望通り、そろそろアイギアレウスと娶せようとは思っておったが……自ずと惹かれ合ったのだな。共にキルケーの島に行ったと聞いた時には内心喜んだのだ。それがこんな……」
「島でのレウス様との日々は幸せでした。あの方は空っぽな器の私に、愛の水を注いでくれました。」
自分の不甲斐なさにうなだれていた国王は、無邪気な娘イオポッサの発言に、姿勢を正して真顔で言った。
「……あまり男親にそういった話をするものではない。それよりこちらに座って、そなたの昔の話を教えてくれんか。確かアルゴスの子守をしておったな。」
「はい。私がまだ幼かった頃……」