十九 姫と義母と死(Aigialeus)
俺たちの船、アリエス号は小さい手漕ぎ船だ。魔法を使うにしても時間がかかる。だから無人島をいくつも経由してコルキスに向かっていた。
「ところで君の母君は、塔から全然出てきませんね。水盤でも覗いて高みの見物ですか。東の友人も岩山から全然降りてこないし、あくせく地表を動き回っているのは私だけのようですね。」
薄々気付いてはいたが、俺の母役にして魔術の師匠である大魔女は、ヘルメスの同類だったようだ。
「そういえば私、側妃様にはお会いしたことがありません。」
イオがかわいく首を傾げながらそう言った。
「広いとはいえ俺も同じ敷地内にいたのに、イオと顔を合わせたこと、なかったよね? どこに住んでたの?」
「使用人棟とカルオキペー様の別棟だけ、行き来してました。」
「それじゃ会わなかったのも当然か……。でも姉上はイオを外出に同行させたりはしなかったの?」
「私はアルゴス様の子守でしたので。」
「そうか……。俺はさ、どうしてイオの知識がそんなに偏ってるのかが不思議なんだよね。」
焚き火を眺めながら、俺は考え込んだ。親代わりからも、周囲の者からも、これほど情報を制限されて育つことなどあるのだろうか?
大陸と東の島の存在くらいは、平民でも知ってる。イオはそれどころか、コルキス島のこと、仕えてる王家のことについても詳しく知らなかった。
そのくらいの情報は、使用人同士の話から、子供でも知り得そうなものだ。つまりイオは、使用人同士の交流もほとんどなかったということだ。
なぜそこまで? やはり髪のせいで倦厭されていたのか。それとも実は王の庶子であることが知られていたのか。
だが、イオのことは館ではほとんど知られてなかったはずだ。
周知の事実は、短い間、赤い髪の女性が療養していたということ。女性を見かけなくなったため、療養の甲斐なく他界したのだろうとされていただけで、事実は誰も知らなかった。
王妃は「その娘はカルオキペーに預けたはず」と言っていた。それは夫の愛人の子供を、自分の娘に預けたということだが、王妃が手元で育てたくなかった気持ちは、まあ少しは分かる。
それにあの大魔女殿に子育ては無理だ。キルケー姉上もメデイアも、塔ではなく館で乳母が育てたはず。
イオを姫として育てない以上、年の離れたカルオキペー姉上は、無難な預け先として唯一だったのだろう。さすがに保護者のカルオキペー姉上はイオの素性を知っていたはずだ。
神話では、俺のアイギアレウスも、イオのイオポッサもほとんど情報がない。だから姫として育てなくても済んだのだろう。
それでも状況が変わることもある。神話をなぞる以外の政略結婚もありうる以上、カルオキペー姉上ほどの方がイオをちゃんと教育しなかったわけがない。
事実、読み書きや作法は問題がない。一方、政略結婚に必須の島々の情報や性教育がまっさらなのが解せない。
それにもしイオを姫として公表せず、ずっと侍女としてひっそり生活させるつもりだったなら、姉上はなぜイオをメデイアのところに出したのだろうか? 矛盾している。メデイアが連れ回すことなど、目に見えていたはずなのに。
「カルオキペー様は……私を疎んでおいでだったのです。そのお心を隠して、親切にしてくださっていたのに、私が言いつけを破ったせいで、ご不快にさせてしまいました。」
沈黙を破るようにイオが打ち明けてくれた。だが素直で控え目なイオが、主を不快にさせるとは……。
「……どういう言いつけを破ったの?」
「殿方の部屋に入ってはいけないという言いつけです。」
まさか。いや、でもイオは……。未遂? でもあの義兄上に限って……。アルゴスか?
「イオ……どういうこと?」
恐る恐る俺は尋ねた。
「あの、ごめんなさい! あの時私、体や頬を触らせていいのは恋人と結婚相手だけって知らなくて。……だからカルオキペー様もあんなに怒ってらしたんですね。……だからキスはご家族同士でしかしなかったんですね。」
イオは、キスされたかったのか? 家族のように愛されたくて? それで……?
「イオは……あの三人と一緒にいて寂しかったの? 何か酷い目に、あったりは……」
「いいえ! あのご家族は本当に優しくて、親切で。侍女の私にも、子供部屋でちゃんと色々教えてくれました。……あの日もプリクソス様は、泣いていた私の涙を拭ってくださっただけなんです。娘のように思ってるとまで言ってくださいました。」
子供部屋で色々教える? 泣いていたイオを、義兄上の部屋に?? さすがに娘と思う相手に手出しは……。だがアプシュルトスも妹に……。
「……イオは、なんで泣いてたの?」
「それは……。メデイア様はイアソン様とご一緒で、レウス様は港にいらしたので……」
つまり俺のせいか! 俺がイオを泣かせたんだ。あの頃、乏しい表情の中でも、時折花が咲くような笑みを向けてくれるようになってたのに。……俺はイオの寂しさにも孤独にも気付けてなかったんだ。
「イオ……」
義兄上への嫉妬など、もうどうでもよくなった。イオは酷い目には合ってないと言ったんだから。
俺はどうしたらイオの憂いを晴らすことができるのだろうか。イオを抱き寄せながら、俺は歯噛みする。
「神話とされる書物には、事実が書かれているとは限りません。伝聞による差違、創作、政治的介入もあるでしょう。そしてこの世界では、例え役者を揃えていても、同じ様にストーリーが進むとは限りません。」
静かに俺たちの話を聞いていたヘルメスが、ゆっくりと話し始めた。
「一部の神話には、アルゴスを産んだのはイオポッサだという記録があるようですね。カルオキペーが、イオポッサに男の部屋に入るなと教えたのは、プリクソスの部屋に入るなという意味だったのでしょうね。」
「あの淑女の姉上が……」
「イオポッサが美しく成長するのを側で見守るのは、カルオキペーも辛かったのでしょう。性知識をはじめ、情報を制限して可能性を減らすことくらいしか、彼女にはできなかったのかもしれませんね。」
「私は、カルオキペー様を苦しませて……」
「それは違うよ、イオ! アルゴスが出立するまで姉上が手元に置いたのは、イオへ愛情があったからじゃないかな? ……子煩悩なプリクソス義兄上と接触させないように、外向きの仕事ばかりさせることだってできたはずだよ。
それにもっと早く、それこそアプシュルトスが入れ替わった時にでも、メデイア付きとして、別棟から出すことはできたはず。」
「そうでしょうか……。そうなら嬉しいです。私にはお母様みたいな方ですから。」
そう。イオの母親。赤が飛び散ったというイオの記憶。それが事実なら尋常じゃない。
愛人とはいっても、簡易の葬送もなかった。もしいなくなったのが病死じゃなかったのだとしたら……。
「ヘルメス様は、イオの実の母親について何かご存知ですか?」
「さあ……。私とコルキスとの関わりは、息子キュドーンの母であるパーシパエの出身地ということと、ひ孫たちが王女たちと子を成すってことくらいですね。知りたければ君の母君に聞くといいですよ。」
「やはり母上に会うのが先決ですか。」
「しかし、何でも知ればいいという道理はありません。それが君たちの未来にとって必要なものかどうか、よく考えてから調べるといいでしょう。」
「そうですね。」
殺害犯行現場にイオがいて、そのショックで記憶が封印されているのなら、下手に掘り返さない方がいいのかもしれない。それに逆上した王妃が、イオにまで危害を加えかねない。調べるとしても、慎重に事を運ばなくては。
「イオはお母さんのこと知りたい?」
「私は……分かりません。小さい時に身の回りの世話をしてくれたのは使用人棟の方々で、母親代わりになってくださったのはカルオキペー様です。
父である王様とはいつかお話してみたいとは思いますが……。母について思い出そうとすると、なぜかとても悲しい気持ちになるんです。……わたしを、おいて、いっちゃったの……」
イオは悲しげに空を見上げた。
母に先立たれるだけでもショックなのに、それが目の前での殺害行為による他界なら、思い出さないように自己防衛しているのかもしれない。
「分かった、じゃあ調べるのはやめよう。とりあえず島に戻ったら、アプシュルトスの求婚を退け、王に俺との結婚を認めさせるってことでいいかな?」
「はい。妹を恋しがって泣いていたアプシュルトス様には申し訳ありませんが、私の前世はギリシャ人ではないと分かりましたし、何より……あれをするのはレウス様とだけです。」
「そうだね。それにしても、泣く……。もしもイオの前世がギリシア人だったとしても、あいつには渡さないよ。 ……後は叔父上か。ペルセースもイオのこと狙ってたよね。」
「そういえば! あの時馬車でペルセース様は、正当な後継者を得て王座につくとおっしゃられました。役のレウス様でも、転移者のアプシュルトスさまでもなく、王弟のペルセース様が継がれるのですか?」
「いや……。ペルセース叔父上の父は前王で、ヘリオス神、とされる人じゃなかったはずだ。もしかしたら役かもしれない。だから神の血筋の子を得た上で、次の王座を得るつもりなんだろう。
そうすれば神話のようにメデイアに奪還される可能性も減ると考えてるんじゃないかな。キルケー姉上とメデイアがあんな感じだから、イオは危険だ。戻ったら俺とメデイアから離れないでくれ。」
「分かりました。」