18 妻と役とジョブチェンジ
キルケーに出立の挨拶をして部屋を出た所で、イオとレウスは件の執事に会った。
「執事さん、この前はありがとうございました。あの……お仕置きは大丈夫でしたか?」
「はい、それはもう。忘れられないものになりました。」
そう言って執事はチラッとレウスを見た後、イオの手を取り口づけた。その口を離さないまま、上目遣いにイオを見つめた。
「イオポッサ様はすっかり人妻になられたご様子……。これでもう、通行料を払えばトンネルは通り放題ですね?」
「この島には有料道路があるんですか?」
「……私は優良物件ですよ? 試してみませんか?」
「この島の土地ですか?」
「……私という物件を乗せる土地に、イオポッサ様がなってください。私の種を蒔かせて欲しいのです。」
「うーん、畑付きの一軒家でしたらお高いんでしょう?」
「今なら無料でお試しいただけますよ。」
「えっ、無料? レウス様、無料ですって!」
執事に唇で触れられていた手をするりと抜き取り、レウスの方に向き直って満面の笑みで報告したイオだった。
「セバスチャン……名うてのお前が形無しだな。」
ドアに片腕で寄りかかるように半身を出し、様子を覗っていたキルケーが苦笑混じりに執事に言った。今日のキルケーは本当に表情豊かだ。
「キルケー様のお仕置きも楽しみですが、イオポッサ様の仕打ちも癖になります。」
すると、終始黙って見ていたレウスがキルケーには呆れた声を出し、始めて名前を知った執事には真面目に言う。
「ネーミングがベタですね、姉上……。セバスチャン、これで借りは返したからな。」
「はい、存分にいただきました。それに私はあくまで本人です。」
キリッと決め顔で言った執事セバスチャンに、レウスはさらに呆れを深めた声を出す。
「姉上……」
「見損なうな! 仕込んでない! 役じゃなく本名だってことだ。……セバスも私に説明させるとは偉くなったものだな。お前にはお預けという罰をやろう。」
「はい。ありがたき幸せ!」
「私は泳ぐ、お前らは帰れ!」
そう言ってキルケーが館から一歩出ると、島中の動物が人間になっていった。豚が農夫に、山羊は漁師に、羊は執事に。
「ものども! 働け! 食い扶持を稼げ!」
キルケーが声を上げると、彼らは働き始めた。
「スローライフ……」
イオがつぶやいた。
「確かに……。Mっ気があって、都会に疲れた人にとっては、ある意味楽園なのかもな。」
「あ、また私……」
口に手を当て、不安を振り払うようにレウスを見上げる。
「イオ、気にしないで。どんどん口に出していこう! 俺はイオの言葉、聞いてて楽しいよ? それに姉上が言ったのと同じことを俺も思う。前世は関係ない。紫の女神も花の精も関係ない。俺は目の前の、このイオが好きなんだ。愛してるよ、俺だけのイオポッサ。」
「レウス様……。私の王子様。」
「本当はイオの方が姫だけどね。」
「いいえ、執事さんに習いました。愛を交わし合う相手が姫であり、王子だそうですよ。」
「本当にあの人、どこであんな言葉を覚えるんだろう……。でもいいね! 愛を交わし合う相手か。では姫、お手をどうぞ。」
「はい、王子様!」
全裸で泳ぐキルケーを尻目に、イオとレウスが砂浜を進むと、砂の上のアリエスに、ヘルメスが笛を吹きながら座っていた。
「ヘルメス様。その節は竪琴と婚礼の祝歌をありがとうございました。」
レウスがあの夜の礼を言うと、あくまでヘルメスはしらを切った。
「竪琴? 何のことだい? 私は最近、息子が作ったこのパンパイプがお気に入りなんです。」
ヘルメスの言葉に、イオが首を傾げて質問する。
「息子さんというと、オデュッセウス様のお父さんですか? イアソン様のお父さんですか?」
「ああ、よく覚えていたね。そっちの息子はアルゴー船に乗ってたアウトリュコスです。イアソンたちは彼の孫にあたります。そしてこの笛はパンの笛です。」
「……山羊座のアイギパーンですか?」
色々考えていたレウスが、思いついたように顔を上げて言った。
「おお! カプリコーンと言わない辺り勉強しているね。そう、そのパンですよ。」
「ヘルメス様はひいお祖父様なのにお若いですね。」
イオは不思議に思って、ヘルメスの顔を見つめる。
「うん。まあ、そうですね。……若いですから、あなたに子供を授けることもできますよ?」
「子供を? まあ、まるで神様みたいですね! 私たち最近子供を作ってるんですけど、まだ産まれないんです。是非レウス様の赤ちゃんを私のお腹に授けてください。」
イオは顔の前で手を組んで、目の前のヘルメスにお願いをする。
「あー、うん。そっち方面のご利益は持ってないな。私は結構多彩なんだけどね……。でも物理的に授けるのは得意だよ?」
妻にその手の興味を示され、本来は怒るべきレウスであったが、そんな気も起きない程にイオは清々しくスルーしていた。
「あの……なんだかすいません。記憶が封印されてるのか、知識を制限されて育ったのか、信じられないくらいに純真無垢なんです。」
「そうだね……。でも今後のために、子供の生まれ方についてくらいは、君の母君にでも習ったほうがいいですね。」
「……イオの母、と言わないあたり、俺たちの家族関係までご存知なんですね。その杖もサンダルも、あからさまな程にヘルメス然としてますが、役のコスプレでしょうか? それとも……」
「それは聞かない約束でしょう? 私たちのようなものがここでバカンスを過ごすルールでもあります。それにわざとらしいくらいの方がかえってバレないと、東の友人が言っていました。」
「なるほど。ほとんど黒なグレーの情報、ありがとうございます。」
レウスとヘルメスのやり取りを、分からないながら微笑みながら聞いていたイオは、ため息を一つ付いて感嘆の声を上げた。
「やはり皆さん役を演じてるんですね……。コテージで執事さんは羊になっていても執事役を全うされてました。逆に豚と山羊さんたちは、姿に合わせて振る舞いを変えていましたね。」
「確かに……。この魔法は屈辱を与える変身だしね。中途半端な暗示に掛かった俺と違って、彼らの意識はずっと人間なはずなのに、豚と山羊は動物っぽい振る舞いをしてたなあ。」
遠くで彼らが人として働く姿を目にしながら、レウスも感心した声を上げた。
「メデイア様もいつも悪ぶって……。そう、悪役令嬢を演じてらっしゃいました。カルオキペー様は、アルゴス様がいる時は良き母で、プリクソス様といる時は恋する乙女みたいでした。だけどお二人とも部屋の外では姫としての振る舞いをなさってます。レウス様だってそう、私と俺を使い分けて……。本当に皆さんすごいです。」
侍女の役を割り振られていたイオは、今更王の娘の役はこなせそうにもなかった。その点、姿形に関わらず役割を全うするこの島の人たちや、役割を演じ分ける王家の人たちを尊敬したのだ。
「まあ……誰しも役を演じてるようなもの、なのかもな。」
「そう、ロールプレイングゲームです! ……何でしたっけ、これ?」
同意してくれたレウスに、うれしくなって思い付いた言葉を告げたイオであったが、それはまたいつもの知らない言葉だった。
「自分で言ったことを質問するとは、斬新な手法ですね。」
しかしヘルメスに苦笑されようとも、イオは前世のことではもう悩まない。
「いいんだよ、イオ。気にしないで。でもロールプレイングか……。主役の転移者はロールを、役割を選べるかもしれないけど、モブはジョブチェンジできないしな。」
「ジョブ、役割……。でもキルケー様はお姫様を止めて女王様になってますよ?」
「ぐふっ!」
「確かに。」
ヘルメスが重々しく頷いた。
「生き方は変えられる。それを捨てる覚悟があれば……。真理ですね。」
「そうだな。安穏な生を有り難がってるだけじゃ、大事なものは守れないしな。」
明るく同意したレウスに、イオは大事なことを確認する。
「レウス様、私はメデイア様の侍女役ですか? それとも紫の花の女神役ですか?」
「イオは俺のお嫁さんだよ。……王に認められなくても、いざとなったら俺もジョブチェンジするからさ。」
「いいですね。駆け落ちですか? 旅をするなら加護は任せてください。」
ヘルメスが、ドンと胸を叩いて請け負ったが、自分のためにレウスを困らせることはイオには考えられなかった。
「そんな……あの、村のご家族はどうなるんですか?」
「親は早くからいないよ。育ててくれたばあちゃんは、侍女として一緒に王の館に住んでたけど、他界してもう結構経つな……。俺は天涯孤独だよ。」
人に囲まれた中の孤独を知っているイオは、明るく話しながらも寂しげなレウスの様子を見過ごさなかった。
「あの……私がいます。私が家族になりますから。もう孤独じゃありません!」
「ありがとう、イオ。愛してるよ。…………ところで今更ながら、ヘルメス様はなぜそこに?」
折角の夫婦の抱擁も、間近でじっくり観察されると落ち着かなかった。
「もしかして、ご自分の船をオデュッセウス様に盗られちゃったんですか?」
「ご明察! 盗人の神の名折れですね。……というわけで、コルキス島まで乗せてください。これでも旅人の守護神。乗せれば航海の安全は間違いなしですよ。」
三人を乗せて狭くなった手漕ぎ船は、神話に登場するというカリュブディスにもスキュラにも遭遇しなかった。ヘルメスの加護か、怪物の役が足りてなかったのか……