17 妻と代わりと女同士
「姉上、長らくお世話になりました。」
レウスが本館で出立の挨拶をすると、ソファに深く腰掛けたキルケーが嫌そうな顔で返す。
「ツヤツヤしやがって、どんだけ溜まってたんだよ。イオポッサがうちの筆頭執事を誘惑してから何日経ってると思ってるんだ。」
イオと執事に目を向けながら、キルケーが体を起こした。
「いやあ、長年の想いが叶ったのでつい……」
レウスが照れ笑いしながら答えると、ダルそうにしていたキルケーの様子が豹変した。
「おい、アイギアレウス。……お前何を言ってるんだ?」
低い声で言い、キルケーは立ち上がってレウスにゆっくりと詰め寄る。
「あ、姉上? ……どうなさったのですか?」
ゆっくりと自分より背の高いレウスの襟首を両手で掴み、普段のキルケーとは違って全く色の無い様子でレウスを睨めつけた。
「長年の想いだと? 出会ってから日も浅いと聞いたが、お前は一体誰を愛してたんだ?」
「……」
ハッとした顔で黙ったレウスに、キルケーが畳み掛ける。
「お前、まさかここをアニメの世界とごっちゃにしてないだろうな。紫の髪の女神を崇拝するのはバカ父だけで充分なんだよ。」
「……」
「イオポッサを誰かの代わりにするんなら、私が貰い受ける。……天然過ぎてイジメ甲斐はないけどな。」
それまで黙って聞いていたイオは、レウスの襟首を掴むキルケーの手に、自分の手をそっと当ててキルケーに訴えた。
「私、レウス様の夢の女神の代わりでもいいです! 女神の役をやります!」
「なんだ。もうすっかり奴に骨抜きか?」
キルケーはレウスから手を離し、いつものニヤリとした笑みを浮かべて腕を組んだ。
「はい、脱力です。温かくて夢のように気持ちが良くて……」
「わーわーわー!」
レウスは、うっとりとキルケーに説明しようとするイオの、肩を掴んで自分の方に顔を向けさせて、冷や汗をかきながら慌てて教え諭す。
「そういうのは夫婦の秘密だから。よそで話しちゃいけません。」
そして真面目な顔で姿勢を正し、キルケーに説明をする。
「それから姉上。俺はマンガ派でした。父上が執心しているという紫の女神は、僕の守備範囲外です。俺の女神は夢に出て来た花の精ですよ。」
「女だろ? 同じことじゃないか。」
ふんと鼻で笑って嘲るように指摘するキルケーに、レウスは神妙に答える。
「そう、ですね……。確かに初恋ではありましたが、女神は恩人でもあるんです。だからもらった恩を誰かに返したいって気持ちもあって……。それに長年の想いっていうのは、心から愛する相手と身も心も結ばれたいっていう願望であって、決して花の精に邪な思いは……」
「女々しいな。もういいからイオポッサは置いていけ。代わりに私が存分に気持ちよくしてやるぞ?」
イオの顎に手を当てたキルケーを払いのけ、レウスは断言する。
「止めてください! へんなこと教えないでくれ! イオは俺が連れて行く!」
「ふん。じゃあイオポッサはどうなんだ? 他の女を心にひそませてる夫なんて嫌だろ? 奴が死ぬ時に思い浮かべるのは、別の女かもしれないぞ?」
「死ぬ時……」
キルケーに言われて、イオは自分が死ぬ時は何を思い浮かべるのか考えてみた。
するとまた頭がモヤモヤしだしたが、振り払わずに目を閉じて心の目を向けた。
――赤……。赤い、何か……赤が散って……
「あ……。おかあ、さん……」
開いたイオの目から、涙が堰を切ったように溢れ出した。
「イオ? 大丈夫か?! 何を思い出した? 無理に思い出さなくてもいいんだよ?」
レウスを見つめるイオの瞳は、レウスを見てはいなかった。
「レウス様……赤が、周りに赤が散りました。お母さんが……」
「赤が飛び散った?! 母君は病死じゃなかったのか? しかもイオもその場に……。恐怖体験のせいで記憶が封印されたのかもしれないな。……姉上、過去のこと何かご存知ですか?」
先程までの雰囲気を一変させて、レウスとキルケーが深刻に向き合った。
「興醒めだな。うーん……父上の火遊びの相手は、確か母上がどこからか連れて来たはずだ。だから嫉妬などするわけがない。とすると、害するとしたら相手は一人だな。」
「王妃ですか? いくらなんでも……」
「……待てよ? ゼウスとアテナに執心していた父……。紫の女神のことを教えた誰か……。赤髪の女性を連れてきた母……。つまり紫の女神の仕込みは母だな! だが何のために?」
笑いを収め、腕組みをして考え込むキルケーは、別人のように怜悧さと美貌が際立った。
「まだ可能性としては、叔父上が手を出して拒まれて危害を、ということもありえますよ。……あ! そうでした! メデイアからの情報で、その叔父上がコルキス島で不審な動きをしているそうです。その上……アプシュルトスが父上に、イオとの結婚を申し込みました。」
「えっ!?」
イオポッサは初めて聞く驚くべき話に、途端に涙が引っ込んだ。
「イオ。アプシュルトスと何かあった?」
肩に手を当て顔を覗き込むようにして、レウスはイオに尋ねた。
「何か? え、と……夕食を何度かご一緒して、元の世界にいる同じ名前の妹の代わりに、愛していいかと聞かれました。でも実際妹だったんですけど、アプシュルトス様は役だから、それに私の前世はギリシャ人じゃないし、でももそれはこの島で分かったことなので……」
急な求婚話と、元々よくわからないアプシュルトスのことを聞かれて、イオはしどろもどろになった。
「それで求婚か。閨で実の妹の名前を呼ぶつもりとは……。さすがの私も萎えるな。」
「どシスコンですね……。ないわー。俺的にマジ無理です。」
物凄く嫌そうな顔していたレウスとキルケーが、キリッと切り替わった。
「よし、私もお前たちの結婚に賛成してやろう! 奴はキモすぎる。」
「幸い、王にはこの島に来る許可は取っていましたので、俺は母上と姉上に許可を貰ってから結婚の報告をするつもりだったということで、今回の滞在を活用します。」
「いいだろう。アイギアレウスは母上とメデイアにも話を通しておけ。」
そう言ってキルケーは手首に鷹を出現させ、話しかけるように言った。
「我はキルケー。性愛の女神である。出産の女神である母上と共に、アイギアレウスとイオポッサとの結婚を承認する。出遅れた男どもよ。紫の髪の乙女は、アイギアレウスの元で花の女神となった。以後手出しは罷りならぬ。」
キルケーが手首を振ると、鷹は頭上を旋回した。
「王と王弟とアプシュルトスが揃っている時に言葉を話せ。」
それだけ聞くと、鷹は窓をすり抜け、高く空へと昇っていった。
「姉上、ありがとうございました。」
「後は自分たちでなんとかしろ。……いいか、アイギアレウス。ここはマンガの世界じゃない。沢山のヒーローで一人のヒロインを守るわけじゃない。お前一人で守るんだ。無敵のアイテムなんてない。他人の力をあてにするな。前世や来世を考えるんじゃない、今を生きろ。目の前の女だけを見るんだ。」
猥談をしている時ですらどこか達観しているようなキルケーが、まるで心の奥の何かを訴えるかのように熱を込めてレウスに言い聞かせた。
「姉上の言葉、しかと胸に刻みました。……いつもとは別人のようです。」
「キルケー様、カッコいいです。」
手招きをするキルケーにイオが近づくと、細くて長い指がするりと頬を撫で、顎に止まった。
「ああ、可愛いお花ちゃん。出遅れた男の手出しはならぬが、私は女だ。アイギアレウスに飽きたらいつでも私が咲かせてやろう。」
ニヤニヤした笑みではない、凛々しい表情でもない、キルケーに初めて優しい微笑を向けられたイオは、嬉しくなって元気に答えた。
「はい。花の女神に相応しくなれるように、頑張って咲きますね。」
ガクリと脱力し、ソファにしなだれかかったキルケーは、しっしと手を振った。
「……もう行け。」
今度は止めずに成り行きを見ていたレウスは、可笑しそうな顔をこらえて挨拶する。
「では、姉上。失礼します。」
「失礼します。」