16 妹と兄とキスの種類
「えうふふぁあ〜」
イオは、レウスの唇に自分の唇をつけたまま、もう一度レウスを呼んだ。
「ん? うむっ?」
レウスが目覚めた気配がするが、イオからはレウスの喉から下しか見えない。慌てて唇を離してレウスの顔を覗き込む。
「レウス様! 目が覚めましたか?」
「う、ん……俺は、一体……」
「起きてください。お水を飲んで。丸一日何も口にしていませんから。」
体を起こして水を飲むレウスに、イオはこれまでのことを説明した。
イオにもレウスにも変身の魔法は掛かっていないこと。レウスは暗示にかかって魂が抜けたようになっていたこと。目を閉じさせて眠らせたら起きなくなったこと。
それから、執事の提案で姫がキスすることになったこと。愛があれば王妃の娘じゃなくてもいいこと。愛は兄弟愛でもいいこと。鼻が当たって失敗したので逆さまにキスしたこと。
イオは懸命にレウスに語って聞かせた。安堵から、熱心に語りかけていた。
まだぼんやりしているレウスは気づいていないが、やっと手にした温もりが失われるかもしれない、という恐怖を味わったイオは、今までになくレウスへ親愛が表情に現れていた。
「ああ、そうか……キルケーの館。ヘルメスのモーリュ……。お姫様のキスで目覚めて……。ん? キス? さっきの……」
何かに気付いたようにレウスが自らの口に手を当てる。
「私のキスでお役に立てて良かったです。」
少し恥ずかしそうに告げるイオ。
「イオ!」
レウスはイオを抱きしめ、再びキスをした。逆さまではなくても鼻は当たらなかった。コップも置かず、器用に手に持ったままだった。
「イオ、愛してる。俺はイオを愛してるよ。」
「レウス様。私にも愛はありました。だからレウス様は目覚めたんですね。」
イオが微笑みながら言うと、レウスも満面の笑みを見せた。
「そうだね。ありがとう。あ、でも……。頬に涙の跡がある。心配かけたのかな? 泣かせてごめんよ。」
レウスはやっとコップを置き、今度は強くイオを抱きしめた。そして真面目な顔でイオの頬の涙の跡を親指でなぞると、先程よりも深く深くキスをした。
「イオ……」
熱の籠もった目でイオを見つめるレウスに、イオも胸がいっぱいになってその思いを伝える。
「私……夫婦が頬にするキスと、親が子のおでこにするキスしか見たことありませんでした。兄弟のキスは、こんなにも熱心なものなんですね。」
「ん? ……えっ?!」
表情を一変させてレウスが変な声を出した。
――やっぱり……。
寂しさを感じながら、イオはレウスに真実を告げた。
「……レウス様、ご存知なかったんですね。……私たちは、兄弟です。」
「え? ……いや、俺たちは兄弟じゃないよ?」
「お兄様……お伝えするのが遅くなって申し訳ありませんでした。」
「え……? えっ、まさか!?」
「私……私は……コルキス王の娘みたいなんです。」
「…………」
先程までの不安と、レウスが目覚めた喜びと、兄弟だとレウスが気づいていなかった事実に、イオは頭を混乱させながらいつになく捲し立てた。
「馬車でパーシパエ様とペルセース様から知らされた時には、兄弟ができて嬉しい気持ちと、レウス様をお慕いしちゃいけないと知って胸が張り裂けそうに辛い気持ちだったのですが……」
イオの知る兄弟の姿、それはメデイアとその兄弟とのやり取りであり、自分もそこに加わらなくてはならないことが衝撃だったのだ。
その他の兄弟同士も、仲良く語り合うことなど見たことがなかった。
「でもここでの暮らしで兄弟の触れ合いの素晴らしさを知って、しかもこんなに温かくて気持ちのいいキスができるなんて、兄弟って素敵って思ったんですけど……」
「ちょ……ちょっと待って。色々待って。」
「はい。」
「何から言えば……。あー。……このコテージでの触れ合いも、今のキスも、兄弟用のものじゃないよ。」
「じゃあ私たちは、ペルセース様のようにいけないことを……」
メデイアの薫陶を受け、叔父と姪が触れ合うのはいけないことだと理解しているイオだった。
「違う違う! 俺はイオを愛してる。兄弟としてじゃなく、一人の女性として。」
「でも……私は王様の……」
「うん……多分そうだね。色々話をまとめると、イオは赤髪の女性とコルキス王との間の娘だと思う。早くに病で亡くなったはずだ。昔俺も、窓辺に立つ姿を見かけたことがあると思う。」
「そうですか……。やはり母は亡くなってるんですね。でも……それじゃあ……」
「いや俺は、コルキス王の息子じゃないんだ。役なんだよ。」
「役、なんですか? レウス様が? パーシパエ様みたいな?」
「そう、まるで同じ。髪色で選ばれた、村の子供だよ。」
「そう、だったんですね……。私はてっきり……。でも、よかった。本当に。」
イオは自分が初めて知った、好きだけじゃ足りない愛する気持ちを、いけないものだと制限しなくてもよくなったことが、本当に嬉しかった。
「……あの、イオ? 一つ確認なんだけど……まだ前世は思い出してないんだよね?」
「はい。……キルケー様には古代ギリシャの転生者ではないから、イオポッサ本人の転生者ではないって言われました。だからアプシュルトス様の本当の妹ではありません。」
そういえばアプシュルトスは妹の代わりといって頭を撫でてきた。異世界の兄弟は罵り合わずに済むのか、それともイオが他人だったからそうしたのか……。
「うん、そうだろうね。うん……。イオがあの妹かと思ってちょっとビビったけど、とりあえずは今のところ、何も問題はないよね?」
「問題?」
「うん。……イオ。……イオポッサ! ……俺と結婚してください!」
「え? えっ! 私、私など……結婚なんて、そんな……」
「などじゃないよ。本当は俺が村の子で、イオが姫なんだから。……俺たちが結婚すれば、色々丸く収まるし。さっきイオ、俺のことをお慕いしてたって言ってなかった?」
「はい。兄弟と知る前から、優しくて素敵な方だなって思ってました。」
「俺は初めて会った時からずっと好きだよ。どんどん好きになっていた。愛してるよ。……結婚して、ここでの生活みたいに、ずっと幸せに暮らそうよ。」
ここでの生活、それはイオにとって初めての満ち足りた時間だった。
侍女として妹としてではなく、夫婦としてのこれからのレウスとの生活……。カルオキペーとプリクソスの仲睦まじい様子を、イオは思い浮かべた。
「さっきのキスは、恋人や結婚相手とのキスだよ。他の兄弟とキスするなんてありえない! もう俺以外の誰ともしちゃだめだ!」
「知りませんでした。でも分かりました。……あ、レウス様。お食事してください。一日何も食べていませんよ。」
「そんなの後で……いや、先に済ませよう。」
席についたレウスに夕食の給仕をしながら、イオは羊じゃない執事のおかげで、レウスを目覚めさせることができたけれど、そのせいで彼がお仕置きを受けることになってしまった顛末を話した。
「うーん……。執事が筋金入りっていうのは分かったけど……。イオ。手以外の体を触らせたり頬を触らせていい男は、恋人と結婚相手だけだよ。つまりこれからは俺だけってこと!」
「そうなんですね。分かりました。」
「今まで足りてなかった愛情は、全部俺と……俺たちの子供から受け取ればいいから。他の男からはもらっちゃだめだよ。」
「子供……。私たちの子供は何色になるんでしょうか。」
「何色だっていいさ。魔法は使えたほうが便利だけど、横暴に使わないようにちゃんと教えてさ。俺たちの子供は魔法がない人にも怖がられないように育てよう。」
「はい、そうですね。」
食事と身支度を終えたレウスが、居住まいを正してイオに告げた。
「じゃあ、イオ。結婚の契りを結ぼう。そうじゃないと俺たち、引き離されるところだったんだ。」
「そうなんですね。分かりました。」
「うん。ありがとう。じゃあ浄化して、明かりを消そう。」
外から差し込む仄かな明かりの中、イオとレウスはベッドに上がった。
いつものようにすぐに布団に入るのではなく、向かい合って座り、イオの手をレウスが取った。
「メデイアの神話に倣いたいところだけど、金羊の毛皮も敷けないし、オルペウスの祝福の曲もない。だけど恋人のキスも知らなかったイオには、優しくゆっくり夫婦の愛を教えるから。……もちろんこれからすることは、夫婦以外とはしちゃいけないことだよ。分かったかい?」
「はい。分かりました。」
* * * * *
婚礼の曲がかすかに海岸から聞こえてくる。
メデイアの神話とは違うが、ヘルメスが甥のオルペウスの代わりに、砂浜の金羊の船首像の船に腰掛けて、竪琴を爪弾いているのだ。
満天の星の下、今宵アイギアレウスは宇宙を超えた初恋を実らせ、イオポッサは夫婦の愛の営みを、余す所なく知ることになったのだった。