十五 星と花と妹(Aigialeus)
俺は物心がついた時にはもう入院していた。
学校に通ったことはあっただろうか……。友達が見舞いに来てくれたこともあるから、調子のいい時には通ったこともあったのかもしれない。
親からの差し入れで、一番気に入っていたのはマンガだ。星座やギリシャ神話をモチーフにしたものを、何度も繰り返し読んだ。
日中寝すぎて夜に目が冴えた時には、カーテンをこっそり開けて星を眺めた。ずっと見ていると、空が回っていくのがよくわかる。代わり映えのしない生活の中で、日々少しずつ、でも確実に星座が移り変わっていくのが見えるのだ。
ある日、見舞いに来てくれた友達が、鉢植えを持ってきた。親や花屋が知れば止めただろう。だが彼は、家の庭に咲いた花を、きれいだったからと抱えて持ってきてくれたのだった。
気を利かせた看護士が、「こんなにきれいに咲いている花は、せっかくだから他のみんなにも見せたいし、ここから見える庭に植えていいか聞いてくる」と言って、俺にウインクを一つして鉢を持って病室を出た。
数日後、親に叱られた友達が謝ってくれたが、花は窓の外、俺のベッドから見えるところに元気に咲いていた。
それから毎年毎年、その花は咲いた。微妙に色を変え、いくつもいくつも花を咲かせた。
ある日、院内学級でリトマス試験紙を扱った時。その日の夜に夢を見た。
その人は、髪が紫の花でできていた。手に赤紫の花と青紫の花を持って、楽しそうに言った。
「私の色と間違えないで。」
次の朝、目を開けた俺は、もはや堂々とカーテンを開けっ放しの窓から外を見た。そこには今年も、赤と青が混ざった紫陽花の花が咲き始めていた。
もらったマンガの影響で、星座やギリシャ神話の本を読むようになった俺は、どんどんそれにのめり込んでいった。
ギリシャ神話は、読んでみると決してお硬いものではなく、欲にまみれた人間臭い話だった。不倫、嫉妬、誘拐、強姦、継母のいじめに近親相姦、少年愛。神になりたい、もっと崇めろ、私の方が美しい。
学問の本とは思えない内容だった。だが、歴史は古い。普段日本で使っている言葉の、語源となる語も数多い。パニック、プログラム、エコー、ドラマ、ファンタジーにミステリー。そしてハイドランジア。意味は水と器。
夢にまた、紫の髪の彼女が出てきた。
水差しを持って、土に水を流しながら、呪文のようにつぶやいた。
「ハイドロアンジア。ハイドロ、アンゲイオン。ヒドラ、アンジェリオン。ヒュドラ、天使、リオン。……うみへびとレオは兄弟星。獅子宮の天使はウェルキエル。ヒュドラの切り口、燃やせば生えぬ。WELL消える、良く消える……なんちゃって〜」
目が覚めたとき、俺は思わず笑ってしまった。どうしたのかと看護士に聞かれたが、もちろん内緒だ。数日後に予定されていた手術を、内心俺は怖がっていたが、あのダジャレを思い出して乗り切った。
行われた手術は成功した。電気メスが使用されたのかもしれない。
つかの間の青春、遅咲きの花。
青春の女神へべーの加護、青年男子の守護神ユウェンタスの恩恵は、あっという間に終わった。
俺が病院に戻ってきた時、まだあの紫陽花は生えていた。新しい病室から花は少し見にくくなったが、その分星が見やすくなった。
悲しげな親を見ていたくなくて、俺はよく、昼寝をして夜通し星空を眺めた。うみへび座を眺めながら、つぶやく。
「ヒュドラは手強いな……」
ある日また、夢にあの彼女が出てきた。一色じゃない、グラデーションの紫の花でできた、背中を覆うほどに長い髪。顔はいつもはっきりとしない。
またダジャレで笑わせてくれないものか。
自分の潜在意識が見せている夢だとは分かっていても、彼女の楽しそうな声がまた聞きたくなる。
紫の彼女は、南に高く上り始めたへびつかい座をじっと見つめていた。アスクレピオスに俺のことを頼んでくれているんだろうか。
目が覚めたら、今年も紫陽花が咲き始めていた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
俺に妹なんていたっけか、と思いながら目を開けると、そこに妹がいた。俺は寝ぼけていた。
小さい子供は小児科の入院病棟には入れない。だから俺が一度退院するまでは、会う機会が少なかったのだ。
「本を持ってきたよ。これでいいの?」
「ああ、ありがとう。……なあ。……小さい頃、母さん独り占めして、悪かったな。」
「な、何言ってんの? 熱でもあるの? ……そりゃ、淋しい時もあったけどさ。ばあばもいたし。……元気になってお母さんに親孝行すれば、それでいいんじゃん?」
「ああ……そうだな。ギリシャ旅行とか行きたいよな。」
「え? ギリシャって何語? ヤバい! 私、英語もしゃべれないよ。」
「じゃあ、俺の分も勉強しておいてくれ。」
「……じゃ、じゃあ、お兄ちゃんは観光案内よろしくね。ほら、本!」
「ああ。……いい場所探しとく。」
今年の紫陽花が終わった。
彼女は最近現れない。ヒュドラを退治したヘラクレス座も見えづらくなってきた。俺が一番好きな射手座も、寝たままだと見るのが難しい。
季節外れに、彼女がやっと現れた。水差しを2つ持って。
「ムネモシュネの水を飲みますか? レテの水を飲みますか?」
「俺は……あなたを忘れたくない。水を飲まずに輪廻の道を行くことはできますか?」
初めて彼女に話しかけることが出来た。これが最後なのかもしれない。彼女は俺の初恋だ。花の精だろうと死神だろうと構わない。紫の花の人。俺の女神。俺はどうしてもまた、彼女に会いたかった。
俺の女神は、最後に声だけで笑って言った。
「共にフェニックスに祈りましょう。」
俺は生まれ変わった。
前世の記憶を持ったまま生まれ変わった。嬉しかった。
申し分のないこの生を、ありがたく享受しよう。多くを望んではバチが当たりそうだ。
そう思っていても、何かもの足りない気持ちになった。
紫の女神はもう夢には現れない。
前世の享年をとっくに過ぎても、俺の心は乾いたままだった。
結婚もしていない。魔女に弟子入りして魔術を研究する日々だった。
そんなある朝。
唐突に俺の腕の中に飛び込んできた紫。可憐な口からこぼれた言葉。
「あ、イケメン……」
彼女だ。やっと見つけた。
再会の実感がわくまで俺は腑抜けていた。そのせいで一度はこの手から逃してしまっていた。
無事にまた捕まえて、口実を作り、共に時間を過ごす。
彼女は前世の記憶がないらしい。でも時折聞き覚えのある言葉を口にする。不安げで、記憶が不安定。感情の乏しい様子が、より彼女を夢の中の花の精に思わせた。
イオ……。
諸説あるギリシャ神話のうちの一説では、イオポッサはコルキス王の娘で、プリクソスとの間にアルゴスを作ったことになっている。
しかしこのイオポッサは誰の娘でもなく、まだ誰のものでもない。俺のイオ。俺の女神だ。
イオは幼少時の記憶を持っていないが、どうやらあまり愛情を受けて育たなかったようだ。
俺は前世では入院ばかりで迷惑を掛けてはいても、家族の愛情を疑ったことはなかった。今世は……まあそれなりに。不満はない。楽しくやってきた。
だからこそ紫の女神への恩を返したい。例えイオが本人でなかったとしても。辛かった時に励ましてもらえた分を、代わりにイオにも渡してあげたい。
もしかして、と思うことはある。でもそれは問題ない。イオを愛してる。
彼女の前世の記憶は、あってもなくてもどちらでもいい。
思い出した瞬間に嫌われる、なんてことになったら立ち直れないが……。例えばイオが前世のあの妹だった、なんてことがない限り、何の問題もないはずだ……。
まぶたに明るい光。
また昼間に眠ってしまったのだろうか。妹に怒られる……。
「レウス様! お兄様! 目を覚ましてください!」
いや、兄ちゃんは夜に起きてたから、まだ眠いんだよ……。