14 妹と密室と執事
イオは途方に暮れていた。
王と王妃の娘はカルオキペーだけだ。側妃の娘でも可能ならばキルケーもメデイアもいる。
――私は王様の娘みたいだけど、お姫様ではないし。どうしよう……。それにキス……。プリクソス様はカルオキペー様の頬によくしてらしたけど、カルオキペー様はアルゴス様のおでこにいつもしていた。どっちが正しいの? あ、でも船で「いい夢を」ってレウスさまがおでこにしてくださったことがある! ……ってこれ以上寝ちゃったら困るし!
泣きながら、悩みながら、レウスを揺すって、呼びかけて、また途方に暮れて……。
そうするうちにまた、ドアを叩く音がした。
ドアを開けると執事がまたカートを押して、立っていた。羊ではなかったので、先程と同じ執事だということがイオにも分かった。
執事はイオの隣をすり抜けて部屋に入っていき、全く手のつけられていない先程のカートの前で足を止めた。ため息を一つつき、イオの顔を見る。
「こちらにおかけください。」
小さい部屋に一つあるテーブルの、椅子のひとつを引いて言った。
「はい。」
レウスの顔が見える位置であることを確認して、イオは座った。執事は黙って食器を整え、イオの夕食の給仕をする。
「……キスは試さなかったのですか?」
イオが食事を口にしてから、執事が静かに声を掛けた。
「お姫様がいません。……キルケー様にお頼みすればしてもらえますか?」
「しないでしょうね。……あなたはしないのですか?」
「私はお妃様の子供ではありません。」
訝しげに質問をしていた執事が、イオの返答を聞いて手を止めた。
「……。私の説明が足りませんでした。お姫様というのは、アイギアレウス様にとってのお姫様。愛を交わし合う相手ということです。」
「愛を交わし合う……。レウス様はまだご結婚されていません。」
「……。結婚はせずとも愛し合っていればよいのです。」
「愛し合う? 兄弟の愛情でもいいということですか?」
「兄弟……。他に適当な相手がいなければ、兄弟愛でも……ないよりはましだと思います。」
「それじゃあ、あの……キスとはどこにするものですか? 頬ですか? おでこにでしょうか?」
「……。この場合は、唇と唇でするのがよいでしょう。……まずはお食べください。」
「はい。」
イオはレウスから目を離さないまま、それでも素直に食事を続けた。
イオが一通り食べ終わるのを待って、執事はレウスの分を残してカートを片付ける。室内の設備も確認し、リネンなども補充する。イオはそれを手伝いながら、執事に礼を言った。
「あの……色々教えてくださり、ありがとうございました。」
「あなたは……」
仕事を終えた執事は、イオのそばまで歩み寄り、ジッとイオの顔を見つめた。そして手袋を外し、執事を見上げるイオの、涙の跡が残る頬を長い指でゆっくりと撫でた。
「穢れを知らない無垢なる仔羊よ。あなたのような人も、この世界にはいるのですね……」
そのまま頬に手を当てて言う。
「類稀なる紫の乙女よ。そのたおやかな手で、私の羊毛をむしり取ってください。」
不思議なことを言う執事の顔を、よく観察しながらイオは質問した。
「……毛刈りをするのですか?」
「……。いいえ。衣を剥ぎ取りあい、あなたに愛の秘薬を注ぎ込みたいのです。」
秘薬という言葉に、イオはハッとした。
「あ! きのこのおつまみを、あなたも食べたいんですか? まだ確かそこに……」
イオがきのこを取ろうと動くよりも早く、きっぱりと執事は否定した。そして一歩近づいて反対の手をイオの肩に乗せ、ゆっくりと指だけで撫でた。
「乙女よ。私たちは、暗い夜に狭い小屋で二人きりなのですよ。」
――もしかして執事さんにはレウス様が見えてないのかな。……そうか! ロバに見えてるんだ。それでもレウス様がこの部屋にいることには違いないし。
「ここにはレウス様もいますし……。それにここは殿方の部屋ではありませんので、カルオキペー様の言いつけを破ったことにはなりません。」
「……。では、心置きなくこれから二人で愛を営めますね。」
「愛を? 営む? ……誰とですか?」
「私とあなたですよ、紫の乙女。」
イオには全く分からなかった。愛は営むものなのか。そばにいて触れ合って、優しく親切にしてくれるレウスは、イオを愛してくれていると思っていた。イオも同じように愛を返したいと思っていた。でもあれは愛じゃなかった?
「愛? 初めて合った人と愛を営む? ……愛とは一体何なのでしょうか?」
イオの肩と頬に手を当てていた執事が、もう一歩近づいて愛とは何かを教えようとした時、窓をすり抜けて一羽の鷹が執事の肩に止まった。
「いい度胸をしてるな、二人とも。」
不思議そうに鷹と執事を見上げるイオを尻目に、執事は腕に移した鷹に向かって熱心に語りかける。
「ああ、キルケー様。愚かな私めに、どうかお仕置きを。罪深き私は、キルケー様の島で他の女と、しかもあなた様の弟の前で、あなた様の弟嫁と関係を持とうといたしました。汚らわしきこの私めに、罰をお与えください。」
低い声でゆっくり優しくイオに語りかけていた執事が、早口で生き生きと鷹にまくしたてる様子に、イオは驚きを隠せなかった。
「関係……」
執事はキルケーの妹と関係を持とうとしたと言った。執事もイオとキルケーとレウスが兄弟だと知っていたのか。それはつまり、キルケーも知っているということだ。イオが変身の幻術に掛かっていないことにも気が付いていたし、本当にキルケーは凄い魔女だった。
「イオポッサ……。ねんねも大概にしな。さっさとアイギアレウスにキスして愛に目覚めな!」
やはり執事にキスのことを言わせたのもキルケーだったのか。本当にこれで、ねんねを終わらせ兄弟愛でレウスを目覚めさせられるのだ。
「はい、分かりました。レウス様が起きるように頑張ります!」
「……ああ。せいぜい元気に起こしてやりなよ、あっちの方もな。……執事は戻れ。希望通り、存分にお仕置きだ。」
「はい、ありがたき幸せ!」
執事が答える前に鷹は消えていた。
「あの……ここに長居して色々教えてくださったせいで、キルケー様からお仕置きを受けるんですか?」
「そうですよ。あなたの協力で、その望みが叶いました。」
「協力、望み……。お力になれて良かったです。」
「では私はこれで。」
執事は直立二足歩行のまま、足取りも軽く、カートを押してドアを出て行った。
「レウス様を起こす。唇にキス。兄弟愛でもいい。……よし!」
ベッドに横たわるレウスは目を閉じたまま。顔色は悪くなく、頬に確かな温もりを感じた。
「意識なし、呼吸よし、脈拍よし、気道確保よし! では、行きます!」
そしてイオはレウスの両頬に手を当て唇にキスし……ようとしたが、鼻が当たってしまい、考え直す。
――鼻があたらないためには、どうすれば……。横からすればいいか。でもバッテンになって、当たるところが少なくなっちゃう。唇と唇でキスと言うからには、同じ形が合わさらないといけないと思うし……。ああ、そうか。
イオはレウスの頭の側に座り込んだ。そして気を取り直してもう一度取り掛かる。
「意識なし、呼吸よし、脈拍よし、気道確保よし! では、行きます!」
イオは顎を上げたレウスの唇に、頭の側から逆さまにキスをした。そしてそのまま話しかける。
「えうふふぁあ〜」