13 妹と秘薬と情夫
「……へぇ、そうか。私の島で、男からものをもらったんだ? 私のハーレムを邪魔したらただじゃおかないと言ったはずだよ?」
用向きを話したイオとレウスに、ガウンを羽織ったキルケーがベッドに腰掛けて、含みのある笑みを浮かべながら足を組む。
「姉上、違います。イオがもらったのではなく、使いを頼まれただけです。」
「ふん。その娘はいつまでも前世を思い出さないからそんなにボンヤリなんだろ? いっそスッキリ思い出すかスッキリ忘れればいいのさ。そうすれば、チーレムな楽園島でこうやって楽しく過ごすか、この世界の人間として普通に過ごすか選べるじゃないか。」
「それは……そうですが。イオだってそう簡単には……」
「まあ、その前に仕置きを受けてもらわないとな。散々ここのものを飲み食いしてきたんだ。今更魔女の秘薬はいらないだろう。さあ、私の目を見ろイオポッサ。お前はきれいな紫の仔馬になるんだよ。」
「姉上!」
レウスの静止も聞かずにキルケーが指を鳴らすと、パッと部屋が白い光で溢れた。
「イオ〜!!」
「はい。」
「あ」
「よかった! やっぱりイオには無効化の魔力があったのか。」
唖然とするキルケーと歓喜するレウスの顔を交互に見ながら、イオはおずおずと申し出た。
「あの……多分違います。私は魔法を使ってないと思います。」
「うむ……。ではなぜ私の魔法が効かないんだ?」
キルケーは立ち上がり、気だるげにソファへと歩きながらイオに尋ねた。
「ヘルメスさんがくれた、食べれば変身が解けるおつまみを、私ももらって食べたので……」
イオがそう言うやいなや、それまで彫像のように黙って寝そべっていたオデュッセウスが、凄い速さでイオの手からモリーユを奪い取った。
「やめろ!!」
振り返ったキルケーが奪い返した時には、オデュッセウスはいくつか口に入れた後だった。そのままものも言わず、半裸で窓から外に出たオデュッセウスは、動物に変身することなく走り去って行った。
イオとレウスに背を向けて、少しの間、窓の方を見ていたキルケーが、バッと振り返りざまレウスとの距離を詰める。
「おのれイオポッサ! お前に魔法が効かぬなら、愛する男の前で嘆き悲しめ!」
そう言ってキルケーはレウスの胸ぐらを掴んで目を合わせると叫ぶ。
「ロバになれ、アイギアレウス!!」
同時に指を鳴らして閃光を走らせた。
「レウス様?」
レウスはゆっくりと前屈みになり、両手を床に付けた。目からは知性の光が消え、イオの問いにも答えない。
「レウス様? ふざけてるんですか? 何をしてるんです?」
泣き叫ぶでもなく、訝しげにレウスに問い掛けるイオを、キルケーは腕組みをしながら観察していた。
「やはりな……。イオポッサ、お前の目にはアイギアレウスはどう見えている?」
「四つん這いになっているように見えます。」
「ロバには見えないのだろ?」
「はい。人のままです。」
探るような目を向けながらベッドに座り直したキルケーがイオに問う。
「……お前、変身の魔法について、何か知っているのか?」
「メデイア様は、対象を本当に動物に変えるのではなく、動物に変身したと、本人も含めて見ている人間に思わせるのだと……。でもキルケー様は本当に変身させることができると、触った感じも動物だったとおっしゃっていました。」
「ふうん。それで?」
「私はその時……目も騙せるなら手も騙せるんじゃないかなと思いました。」
「……ククククク……ア〜ハッハッハ!! こんなボンヤリに見破られるとはね。……そうだ。幻覚と暗示で思い込ませてるだけだよ。あんなきのこ、本当なら何の効き目もないけどさ、お前が魔法に掛からなかったのを目の当たりにしたオデュッセウスにとっては、暗示を解く秘薬となったのさ。」
大笑いして涙を流すキルケーに一歩近寄り、イオは頭を下げる。
「旦那様を逃げさせてしまい、申し訳ありませんでした。」
「いいのさ、あんなの。神話をなぞるためだけに来たんだろうさ。ちゃんと子種も仕込んでくれたし、長い間イイ思いをさせてもらったからね。潮時さ。」
「そうですか……」
「他の男たちはね、好きでここにいるんだよ。その執事だって、きのこを食べようとはしないだろ? ちゃんとそういうMっ気のやつを選んでここに置いてるんだ。」
「女王様ですか?」
「そうさ。……ふん。一ついいことを教えてやろう。お前の前世は古代ギリシャ人ではない。」
「え? どうして分かるんですか?」
「Mっ気と聞いて女王様と言う古代ギリシャ人がいるかよ。」
「そうなんですか……。では前世もイオポッサだったということはないんですね。」
「そうだ。」
「あの、キルケー様……。レウス様にもこの会話聞こえてますよね?」
「聞こえてるだろうね。」
「どうして元に戻らないのでしょうか?」
「さてね。元々暗示に掛かりやすかったか、目を開けて寝てるんじゃないか?」
「そうですか……」
「さて。私は今から、さっきの続きをその執事とするつもりだ。見学しないならコテージに戻れよ。」
「はい。……ちょっとお待ちを。」
イオはレウスの手を取り、二足歩行に戻した。目には光が戻らないが、イオは残ったきのこのおつまみを持って、レウスの手を引き部屋を出た。
「レウス様、眠いのですか? きのこを一つ食べてください。」
なんとかレウスの口にきのこのおつまみを入れ、噛ませて飲み込ませたが様子は変わらなかった。それならばとベッドへ横たえて、目を閉じさせる。
――最近のレウス様は眠そうだったし、キルケー様が言うとおり、目を開けて寝ているのかもしれないな。
そのままイオも隣に潜り込み、まだ早い時間だったが一緒に眠った。
次の日の早朝、目覚めたイオはレウスの様子をうかがった。眠ったまま変わりはない。額をつけてみても、頬をつけてみても、レウスは何の反応も示さない。
昼になってもまだ目を覚まさないレウスに、イオはついに泣き出した。
「レウス様! レウス様!」
イオはレウスに縋り付いて涙を流す。
――いつも親切にしてくれたレオス様。お兄様だと知った時には嬉しくて悲しくて、胸が苦しくなったけど……。
――お兄様だからこそ、こうやって同じ部屋にいても、カルオキペー様の言いつけを破ったことにはならずに済む。いつも温もりをくれて、満ち足りた幸せの日々……。
「私がきのこをもらったせいで……。レウス様! お兄様! 目を覚ましてください!」
その時ドアを叩く音がした。
イオがドアを開けると、羊ではない執事がカートを押していた。
「昼食でございます。」
泣いているイオをものともせずに室内に入ると、カートを置いて出ていこうとする。
「あの!」
「なんでしょうか。」
「レウス様が目覚めないのです。何かいい方法をご存知ないでしょうか?」
「……王子様を目覚めさせるのは、やはりお姫様のキスなのではないでしょうか。では、失礼します。」
そう言うと執事はドアから出て行った。最後まで直立した二足歩行だった。
「お姫様のキス……」