11 妹と魔女と羊
「この船はアリエス号にしよう!」
オールで船を漕ぎながら、レウスは明るく提案した。
「……あの、レウス様。今更ながら、私のせいでこのようなことに巻き込んでしまい、申し訳ございません。」
「気にしないでよ。俺は今わくわくしてるよ。島での平穏な生活も幸せだったけどさ、オトコノコとしてはこういう冒険は、一度はやってみたいものだよ。それにどうせなら俺は姫を助ける王子をやりたかったしさ。」
レウスは本当に気にしていない様子で、むしろ生き生きと船を漕いでいた。
「……レウス様はいつも楽しそうですね。」
「あ、ごめん! イオは怖くて嫌な思いをしたっていうのに……」
「いえ、違うんです! 私いつも、何も考えていないか、もの凄く悩んでいるかのどっちかなので……。レウス様みたいに楽しそうに出来れば、一緒にいる人を嫌な思いにさせないのかなって思って……」
「俺は今、イオといるから楽しいんだよ。館に一人でいる時なんて、自分じゃ見えないけどきっと無表情だよ。」
「そう、なんですね……」
「俺の笑顔を保たせてくれるのは、紫の女神であるイオだからね。」
――紫の女神……。そうだった。ペルセースから逃げても、問題はまだあったんだ。
「あの……レウス様は、女神アテナをご存知ですか?」
「アテナさ、ま? あー……戦いの女神のこと? アテナイの守護神じゃなかったかな。そういえば、アルゴー船も加護を受けてたよね? イアソンはイオルコス出身なのに、アテナの守護をもらえたのか? ……それとも、船を作ったアルゴスの修業先がアテナイとか?」
「いえ、確かテーバイだったかと……」
「そっか。不思議だね。帰ったらもうちょっと調べてみてもいいかもしれないな。……ああ、イオ。そろそろ着くよ。大丈夫だとは思うけど、一応用心しておいて。」
上陸すると、レウスは程よい砂浜に船を着け、高潮でもさらわれないようにロープで引いて木に縛り付ける。
「アリエス、待っててな。」
「あの、どうして船がアリエスなんですか?」
「うん。やっぱ牡羊座はアリエスでしょ。」
「そうなんですね。」
そんな話をしていると、海岸にも関わらず羊が群れで現れた。少し先の岩場には山羊もいる。草原には豚もいるようだった。
「聞いていたより増えてるな……」
「動物ですか?」
「あー、うん。そうだね。……ここは姉であるキルケーの住む島なんだ。メデイアから聞いたことないかな? 側妃と姉も魔女だって。」
「ああ。では動物は……」
その時、鷹がイオの頭をかすめるように滑空してきた。思わずしゃがみこんだイオに、レウスが駆け寄り鷹に怒鳴る。
「姉上! アイギアレウスです! 攻撃するのは止めてください! 彼女は私の婚約者です。姉上のハーレムを脅かしたりはしませんから!」
その言葉を聞いた時、イオの胸がギュッと締め付けられた。レウスのこの優しさが、婚約者に対する種類のものならば、自分たちが兄弟であることを早く告げねばならない。
しかしここでその間は与えられなかった。レウスの肩に止まった鷹がしゃべったからだ。
「そういうことなら上陸を許そう、弟よ。その羊についてこい。羊の執事だ。」
どこから見ても四足の羊だったが、イオはふと、着ぐるみを着た執事の様子を想像していた。そして彼は言うのだ、「お帰りなさいませ、お嬢様」と。
「ふふっ! 羊の執事……」
「あれ? イオは動物が好きなのかな? 確かにコルキス島の館じゃあんまり飼ってないけど……そいつらを触るのは……」
「そうですね。執事さんなんですものね。触ったりしたら失礼ですね。案内をよろしくお願いします。」
触ろうとしていた手を引っ込めて、イオは羊に頭を下げた。
「……アイギアレウス。その女は頭の中がお花畑なヒロインなのか?」
「いいえ、姉上。記憶が不安定なだけで、純粋無垢なんですよ。」
「ふん。」
言葉を発し終えると鷹は消えてしまった。
羊について館まで坂を登ると、そこには不思議な館が建っていた。
コルキス島でも王の館以外は木造がほとんどだ。だから木造が珍しいわけではない。どことは言えないが、イオから見ると非常に違和感を覚える館だった。
引き戸ではなく、両開きの戸をレウスが開けると、羊の執事が中へ入っていく。
「土足なんですね。」
「羊だからね。」
「それもそうですね。」
そもそもコルキス島の館も土足だった。なぜ自分が靴を脱ぐべきだと考えたのか、イオはまた怖くなった。
モヤモヤしだす頭を一つ振って、イオがエントランスの奥に進むと、羊たちがずらりと並んだ。
「メェ〜〜」
羊が鳴くと、階段の上から一人の女性が降りてきた。栗色の髪に金の瞳。メデイアと同じ目だ。30代くらいの妖艶な女性だが、いかにも魔女という風情ではない。
彼女が最後の一段を降り終えた瞬間、羊たちが立ち上がり執事になった。二足で直立した、人型の男性になった。
「獣人?」
「違うよ、お嬢ちゃん。……ていうほど若くないな。記憶が不安定だと言動も子供じみるのかな。」
「……キルケー姉上、ご無沙汰しております。少しの間、この館への滞在をお許しいただけませんか?」
「まあ、母上からも言われてるからさ……。別にいいけど安全は保証しないし、私のハーレムを邪魔したらただじゃおかないよ。」
「ええ……気を付けますが、お手柔らかに。」
「ああ、滞在はここじゃなくて隣のコテージにしろ。初心な娘にはここでの生活は刺激的すぎるだろうしな。」
「俺にだって刺激的すぎますよ。……ではご厚意ありがたく頂戴して、あちらに滞在させていただきます。」
「ああ、そっちはそっちで存分にやっちゃいな。駆け落ちだろ? 神話でもやっちゃったもん勝ちだったはずだろ。」
「メデイアとイアソンの話ですか? あの二人はもうとっくにでしょう。金羊毛のくだりはカットになりました。」
「あの女のことは興味ない。……じゃあイアソンはこの島に来ないのか? 兄弟殺しの禊を頼みにさ。」
「恐らくは。……兄弟殺しも回避できたでしょうし。」
「イケメンを拝めないのか。つまらん! ……お前らももう行け。」
「はい、じゃあ失礼します。」
キルケーに指差された執事が、レウスとイオを先導して歩き出す。
ドアを出て一歩外に踏み出した途端、その執事はまた前屈みになって両手を地に付き、4足歩行で歩き出した。
だがイオには、さっきと同じようには羊に見えずに困惑した。思わずキルケーを振り返ると、ニンマリとした笑みを浮かべてじっとイオのことを見つめていた。
「イオ、こっち。」
レウスが手を引き、イオを促す。視線を執事に戻すと、そこには白のふかふかの羊が立ち止まり、イオを見ていた。
「えっ?」
「ほら、早く!」
今度はキルケーを振り向く間もないまま、レウスに肩を押されて歩き出した。
案内されたコテージはこじんまりとしていて、ベッドは一つしかなかった。
「メェ〜〜メ、メェ〜」
羊が何か説明しているようでもあったが、全く意味が伝わらない。しばらく部屋をウロウロ歩いてメェメェ鳴くと、ドアから出て行った。
「執事さんは、自分が羊になっていることに気が付いてないんでしょうか。」
「いや……気が付いているし、メェと言っても伝わらないことは分かっているけど、自分の職務を全うしてるんだと思うよ。尊敬しちゃうね。」
「そうですか……。あの、さっき館のドアから出た瞬間に……」
「ああ、羊になったよね。あれは、キルケーと同じ部屋にいる時だけ人間に戻れる、っていう魔法だからだと思う。」
「ドアから出てすぐに羊に?」
「ポンとなったよね。本当に恐ろしい魔法だ。」
「そう、ですね……」
「あー……あのさ。俺がさっき婚約者って言ったのはさ、キルケーは凄く独占欲が強いから、男を奪われると思われたら動物に変えられちゃうかもしれなかったからなんだ。あの……勝手にごめんね。」
「いえ。そうだったんですね……。大丈夫です。」
つまり結婚相手として、親切にしてくれている訳ではないということだ。イオはホッとすると同時に胸の痛みを感じた。
「ベッド、一つしかないけど、また一緒でいいかな?」
兄弟だと分かっているから、一緒の布団で寝ても平気だということなのだろう。
「はい……そういうことなら。大丈夫です。」
昨日の温もりの安心感を思うと、思わず笑顔になるイオだったが、一方のレウスは赤くなった顔を片手で覆っていた。
「はぁ〜。俺もう30過ぎなんだけどな……」