10 侍女と涙と海の船
【 とある転生者の手記 】
森の魔法と治癒魔法は似ていると思う。細胞分裂を促進させて木々を成長させたり、傷口を修復する。これは時間の早送りでも巻き戻しでもないのだろう。
細胞器官を急がせる。私にはそんなイメージが浮かぶ。過度に急がせすぎれば恐らく壊れる。魔法も万能ではないと考えている。
一方で、病を治すことはできるのだろうか。ガンは取り除けるかもしれない。ウイルスや細菌も取り除けるかもしれない。臓器の病変を切除して修復すれば治る類の疾病も治せるかもしれない。機能不全は……治療のビジョンが浮かばない。
それでもその力が前世にあれば……。いや、だとしたら私は死なず、ここにはいないわけで、その事実も力も知り得なかった。ありえないことだった。
少し感傷的になっていたようだ。私は今の生をありがたく享受していればいい。多くを望んではバチが当たりそうだ。
* * * * *
目を閉じることもできないイオは、にじむ視界の隅に揺れる髪の色だけを見つめていた。
その時、馬のいななきが聞こえ、馬車が急停止する。その拍子に、ペルセースもイオも、座面から落ちた。
「イオ! イオ!!」
馬車のドアを開いたのはレウスだった。イオは有無をいわせず馬車から引きずり出され、抱え上げられる。
「俺は間に合った? イオごめん! もっと早く気付いていれば、泣かせたりなんてしなかったのにっ!」
イオは声も出せなかった。ただただ泣いていた。胸が張り裂けそうで、辛い気持ちは声にならなかった。
「行こう!」
「待て! アイギアレウス! 貴様、こんな真似をして! ただで済むと思うなよ!」
イオを抱えて馬に乗り、港へと引き返したレウスは、馬車の中から聞こえるペルセースの怒鳴り声にも耳を貸さなかった。
港には、出航を待つばかりのアルゴー船が待機していた。
「待たせた! 出してくれ!」
馬を離したレウスが、イオを抱えて舷梯を上ってテセウスに言った。
「間に合ったか?」
「ああ……多分。知らせに感謝する。」
「俺の部屋を使え。行き先はアイアイエ島でいいんだな?」
「ああ、恩に着る。……だが男はあの島に降りない方がいい。」
「……噂は聞いている。お前らは平気なのか?」
「一応身内だからな。大丈夫だと思いたい。」
「まあ、そういうことなら……。着いたら報せるから、のんびりしててくれ。」
「ああ、ありがとう。」
テセウスの指示で、乗組員がレウスとイオを船室に案内した。
「イオ。大丈夫? メデイアと師匠には事情を話したけど、王にはアイアイエ島に遊びに行くとだけ伝えてもらったから。もう心配することは何もないよ。……さっきは怖かったろう? ごめんな。」
イオを抱えたままベッドに座ったレウスは、イオの背をゆっくりさすった。先程とは違う、安心するレウスの匂い。カサカサしない、乱暴ではない手で、レウスが頬の涙を拭った。
「……いいえ。……レウス様が謝ることでは、ありません……」
「二人だから様はいらないよ。……俺に何かできることはある?」
「来てくださっただけで……助けてくださっただけで充分です。」
レウスの悲しい顔を見ていたくなかったイオは、なんとか微笑みレウスの瞳を見つめて言った。
「そうか。……じゃあ、折角だから船旅を楽しもう。船に乗るのは初めてかい?」
「……記憶にある中では初めてです。」
「じゃあ後で甲板に出てみよう。でも今はちょっと眠る? その前に……」
そう言って膝の上でレウスに抱きしめられると、全身に何かが走り抜けたような感じがした。
「俺たちもベッドも浄化したよ。これでもう大丈夫。」
「……俺?」
「ああ……。普段は王子様だからさ。お上品にしゃべるように気を付けてるんだ。でも、こっちの方が地かな。」
「そう、なんですね……」
「ずっと……平穏だけど、取り澄ました生活を送ってたからさ。地の自分が出せる時なんてなかったな。」
「今は、違うんですか?」
「島から出たし、イオと一緒だからかな。……少し眠りなよ。俺は部屋を出てるからさ。」
レウスはそういってイオを抱えたまま立ち上がると、布団をめくってイオをベッドに横たえた。
「いい夢を。」
レウスはイオのおでこにキスをして、部屋を出て行った。
一人になって、イオはまた泣いた。先程のことは酷く不快だったが、レウスが間に合った。
イオにとっての今の問題は、自分がコルキス王の娘らしいということだった。
パーシパエは言った、「赤い髪の女に産ませた」と。ペルセースは言った、「兄の子」と。メデイアは言った、「赤と青を混ぜると紫になる」と。……コルキス王は海のような青い髪だった。
つまりイオは、カルオキペーとアイギアレウスとメデイア、そしてアプシュルトスと兄弟だということだ。ただ、アプシュルトスは転移者なので、役なのだろうが。
――兄弟に愛されてて羨ましかった妹たち……。まさか私が本当に誰かの妹だったなんて……。
カルオキペーは言おうとした、「神話のとおりにイオポッサがプリクソスと不倫すると思った」と。神話からしてイオポッサという名の存在が側にいたということだ。
神話の世界から転移してきたアプシュルトス役の彼の、元のコルキスでの妹もイオポッサ。ということは恐らく、アプシュルトスも、プリクソスと同じ様に、本人が本人役をしているということだ。
――メデイアの後に生まれた女児だからイオポッサと名付けられたの?
いや、王は誰かから色々聴き込んで、赤い髪の女を探してわざわざ産ませたのだ。
――女神アテナの父になるために? アテナは……紫の髪なの?
だが古代ギリシャ人に、そもそも地球に紫の髪はありえない。その理由から、イオは転移者ではないとされていたはずだ。
王は一体誰に何を吹き込まれたのだろうか。ゼウスとアテナに執心していた王。……憧れの女神アテナ?
――あの手記は王が書いたもの? 王は転生者なの? 私のお母さんは誰? 本当に亡くなったの?
イオはもう頭がパンクしそうだった。そして泣きながら眠った。
次にイオが目を開けた時、辺りは暗かった。月明かりが差し込む椅子に、座ったまま眠るレウスがいた。
10は年上のレウスの寝顔。昼寝の時の、あどけなさをも感じる顔とは違う、影のある大人の寝顔。
「アイギアレウス……お兄様……」
「ん? ……イオ、起きた? お腹空いてない? 果物があるよ。」
「……いいえ。大丈夫です。レウス様、ベッドで眠ってください。」
そう言ってイオは起き上がった。
「いいよ、そのまま寝てなよ。」
「そういうわけには……」
――レウス様は、私が王の娘だということ、知ってるのかしら?
「では一緒に眠りましょう。」
「え! ……でも、いや、さすがに……」
「でしたら私が椅子で寝ます。」
「……分かった。じゃあ一緒に寝よう。」
レウスが布団に入ってくると、ベッドはとても狭かった。
「うわ……ドキドキする。イオはもう寝なさい。」
「レウス様は?」
「ドキドキが収まったら寝るよ。」
――レウス様は私たちが兄弟だってことは知らないのかもしれない。
「……はい。お休みなさい。」
翌朝、イオが目を覚ました時、レウスはもう起きていた。
「おはよう。気分はどう?」
「おはようございます。気分は……いいみたいです。」
人の温もりに包まれて眠った記憶は、今までイオにはなかった。だがとても安心して眠ることができた。
「何か食べるものをもらってくるよ。この部屋から出ないでね。」
レウスにぎゅっと抱きしめられると、昨日のように何かが体を走った。これが魔力のなのだろう。イオをベッドに残し、レウスは部屋を出て行った。
果物と薄いワインで朝食を済ませ、身支度を整え甲板へ出る。
そこは海だった。イオは幼い時は母親と別の島に住んでいたはずだ。……それも定かではなくなってきたが、この潮の香りには覚えがあるようだった。
「ほら見てごらん?」
レウスのマントに頭から包まれながら、促されて船尾を見ると、そこには牽引された金羊の船首像の小舟があった。
「プリクソス様の船?」
「そうだよ。ちょっと拝借しちゃったんだ。ほとぼりが冷めたらこれで帰ろう。」
「はい。」
島に着いてもアルゴー船は接岸しない。金羊の船首像の小舟に、レウスとイオが乗って上陸する手はずだ。
「達者でな! また会おう!」
イオを気遣ってか、甲板に人気はない。一人見送るテセウスに、イオは黙って頭を下げた。
行く先を見ると、霧に包まれたアイアイエ島が薄っすらと見えていた。