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第7話



 瞳を開くと、夢の世界と現実の世界との差に気づいた。

 体を起こそうとすると、それが出来ずにベッドに再び体を預ける。そうか、と昨日の自

らに起こった出来事を反芻した。福岡結愛を助けるために廃墟ビルへと向かい、大瀧護を

相手にこれでもかと殴られ続け、病院で治療を受けた。

 その日のうちに帰ることができたが、体中の痛みや顔を中心にできた傷はまだまだ刺激

を伝えている。それと引き換えというわけではないが、結愛の過去にまつわる大きな事柄

を知ることも出来た。結愛と大瀧、2人は昔にお互いを必要として結びついていた。

 正直、今の彼女と大瀧を直接結びつけるのは難しいところだ。ただ、彼女が昔は不良だ

ったとすれば思いつくし、不良の結愛が大瀧とつるんでいたとすれば思いつくところだっ

た。

 でも、今の彼女は大瀧を必要とはしていない。もうあの男とは縁を切り、まっとうな道

を進もうと志している。

 助けてやりたい、結愛のその志を。


「隼人、傷は痛む? 痛むよね、昨日の今日なんだから。

 本当にごめん、関係のない隼人をこんなふうに巻き込んじゃって。私が本来ならボコボ

コにされてたはずなのに。

 分かってたんだよ、大瀧に言葉で言ったところで逆上するだけだってのは。それでもそ

うしようと決めたんだ。無理やり何とかするんじゃあ大瀧と変わらないし、昔の自分に戻

るだけだし。

 だから、ダメと分かってても真正面から行こうと思った。あいつだって淋しいだけの孤

独者なんだから、何度か言えば分かってくれるさ。私には分かるんだ、だから今回のこと

は任せて欲しい。

 私は大瀧に自分の気持ちを分かってもらえるまで何度でも言う。

 大丈夫、信じて。

 じゃあ、治るまで安静にしてて」


 早朝に届いていた福岡結愛からのメールだった。

 彼女は大瀧のところに今後も何度と向かうようだ。あれだけの事をされて、まだ危険を

顧みずに行くなんて危ないに決まっている。次は昨日以上の暴力を振るわれるかもしれな

い、なのにどうして。

 彼女は「私には分かる」と、大瀧のことを言っている。一度は分かり合った関係だ、相

手の考えてることや性格は知っているのだろう。その彼女がそう言っているのなら、確か

にそうなのかもしれない。

 今回の件は彼女に任せる方がいいのかもしれない。下手に第三者が割って入るより、そ

っちの方が事は円滑に進むのかもしれない。

 それでも、昨日の大瀧護を見てしまった隼人には彼女の身の危険の方が先に来てしまう。

いくら大丈夫といえども、あの大瀧が素直に彼女の言う事を聞き入れる可能性の方が少な

いのではないだろうか。

 どちらにしても、隼人の中から不安が消えることはなかった。


          ☆


「心配だなぁ、結愛」

 大きな溜め息とともに秋井佳穂は言った。

 駅から近いコーヒーショップで待ち合わせると、約束の18時には2人ともそこへ着い

た。彼女はココア、啓史はミルクティーを飲んでいる。佳穂はスーツ姿ながらアフター5

の気の緩みからか、シャツのボタンは1つ多めに開けていた。啓史は大学の帰りで、彼女

に比べれば気の張ってないラフな格好だった。

「ねぇ、隼人くんはどう?」

「あぁ、日常生活に支障はないけど、今日は大学を休んでたよ」

 そうなんだ、と佳穂はまた溜め息をつく。

 大瀧の姿を瞳にはしなかったが、2人もあの廃墟ビルでの忌まわしい光景を見てしまっ

た。それは彼らの常識を超えるもので、その状況は俄かに信じがたいものだった。隼人と

結愛をあれだけ痛めた大瀧は許せないが、まともに向かっていける相手ではないのは分か

る。

「結愛ちゃんはどうするつもりなの?」

「また大瀧のところに行くつもりみたい。絶対危険だからって言ったんだけど、それじゃ

あ何も進展しないからって」

「ねぇ、どうしてあいつのところに行かなきゃいけないの?」

「行かなきゃ、向こうが結愛のところに来るだけだから。どうにかして説得させないと、

また昨日みたいなことが続いちゃうだけだもん」

 次に結愛が大瀧のところに行く時には佳穂も同行する事になっていた。一人で行きたい

と彼女は言ったが、そんなことはさせられないと押し切った。現に彼女も大瀧に暴力を振

るわれてる、なのにそんなみすみすと痛めつけられに行かすわけにはいかない。

「それなら、俺や海斗も一緒に行った方がいいんじゃない?」

「いや、あんまり大勢で行くのはよくないと思う。力でなんとかしようってことじゃなく、

説得に行くんだから大勢になるのはかえって大瀧を刺激しちゃう気がする。それに、一緒

に行くんならあいつのことを知ってる私が行った方がいいだろうし」

 確かに、力で対抗しようとするには無理がある。ただ、大瀧は女でも手を上げるような

血も涙もない人間だ。結愛と佳穂の2人で行かせるのも心配になるのが正直なところだっ

た。



 音楽もない和室、音楽がないというより無音という音楽が流れてるようだ。照明も程よ

い明るさで、夜口の雰囲気を仄かに引き立たせている。日本家屋の良さが出ており、今は

それが写実的には出にくい頃合になっているのを僅かばかし悔やんだ。

 夏場にこそ日本家屋は映えると思う、縁側に風鈴でも掛ければ言う事はない。前のよう

な大型ホテルやら高級レストランといった厳格的な考えはいらず、個室なので他の客の視

線も気にしなくてよく居心地はいいといえる。

「海斗さん、どうしました?」

 安佐華恵の言葉で意識が現実に戻る。

 現実の世界では海斗は家族と何度か訪れたことのある料亭にいた。華恵との2回目のデ

ートということで、ここを訪れたのだ。ここは料理も美味しく、接客も温かみのある店で

気に入っている。それを伝えると、華恵はそういうところに連れてってもらえるのは嬉し

いと喜んでくれた。

 出会ってから5日目、お互いの頭にはもう結婚という言葉も浮かんでいる。この関係に

ついて迷いはない、ただそれ以外のところでの迷いがあった。

「別にどうもしてないですよ」

「そうかなぁ、なんかボ〜ッとしてるんですよね」

 言いながら、華恵は首を傾げた。華恵の考えは当たっている。海斗も隼人と結愛のこと

を考えていた。2人は精神的に日に日に距離を狭めている、本人に聞かずともそれは分か

る。

 伊崎隼人という人間を見てきて、彼がそう簡単に他人に媚びないのは知っていた。まし

て女性に対してなら尚更だ、経歴や色仕掛けなんかでは堕ちたりはしない。その隼人が心

を寄せようとしている、そんな相手は初めて瞳にした。だから、あの2人、そして啓史や

佳穂にはうまくいってもらいたい。大瀧という男に近づくのは危険だが、そうしないと仕

方がないということも理解している。なんとか何事もなく終わって欲しい、そう願うばか

りだった。

「私といるの、楽しくないですか?」

 言われた瞬間、まずいと思った。

 華恵は淋しがっている、目の前に自分がいるのに海斗の気が余所にいってるため。華恵

はもう海斗に大きく心を許している、それは海斗も同じだ。3回しか会ってない相手を家

族と同じぐらいの存在としており、両親に厳かにされてきた海斗にはそれを越える存在に

もなり得ていたのかもしれない。

「そんなことない、楽しいよ」

 笑みを見せる海斗だが、華恵は慎重にその様子を窺っている。本当の気持ちですか、そ

う言いたげに。

「私は海斗さんと結婚する気でいます」

 いいですか、と彼女は言った。緊張した面持ちでジッと見つめる華恵をかわいいなと思

った。

「いいよ、いくらでも思ってくれて」

 本心で言った、紛れる余計な感情は何もない。

「それ・・・・・・本気で信じますよ」

 海斗が無言で頷くと、彼女は安心したように顔を綻ばせた。食べましょう、と卓に並ぶ

料理を見て華恵は言った。



 視線を窓外に向ける、空はすっかり夜のものになっていた。音は少なく、心は静まり、

体の痛みだけは眠る前と何ら変わりがない。

 隼人は部屋で眠っていた。朝から続いた眠りは途中で何度か途切れた。どうせ起きてい

ても痛いだけだからと強制的に自分を眠らせようとし、夜に至った。

 結愛はどうしただろうか、と頭にふとよぎった。まさか、今日大瀧のところに行ってや

しないだろうか。

 おそらく、それはないだろう。秋井佳穂からのメールで「次に行く時には私が同行する

事になったから、もし行く時は連絡するんで安心して休んでて」と書かれていたから。

 あれから佳穂からの連絡はない、なら今日は行かなかったのだろう。

 コンコン、部屋の扉をこつく音が鳴った。静まった空間において、その音は中々に響い

ていた。母親の悦子が来たのかと思ったが、その声で違いに気づく。隼人お兄ちゃん、そ

の言葉で誰の声なのかに気づく。

 入っていいよ、と言うと扉はゆっくりと開いた。進士真奈美は隼人の姿を瞳にするなり、

駆け寄った。

「お兄ちゃん・・・・・・」

 真奈美は相当心配そうな顔色を浮かべていた。事故でもっと酷い怪我を負った事はある

が、その時ぐらいのものだ。当時とは関係性も違い、人為的な怪我ということもあって感

情も強くなっている。

「どうして・・・・・・どうして、お兄ちゃんがこんな目に遭わないといけないの」

 真奈美は泣きそうな顔で隼人を見ていた。

 家族や進士家や今回の一件に関わりのない人間には、隼人の怪我は夜道を歩いてる時に

突発的に襲われたものだと伝えてあった。物盗りでもないことから、ムシャクシャしたか

らといった理由による犯行だろうとした。警察に届け出ようと言われたが、それは何とか

隼人が宥めた。警察に言ったところで犯人が逮捕されはしない、犯人は架空の人物にすぎ

ないのだから。

「大丈夫だよ、なんてことないから」

 そう真奈美の肩らへんを摩ってあげると、それが腺を切るきっかけになったように瞳か

ら涙が落ちた。グッと堪えてるけれど、何度か雫は落ちていった。

 しまった、と隼人は自分を悔いる。自分が自ら負いにいった傷といえど、それによって

涙まで流してくれる人がいる。いつかの時もそうだった、隼人が交通事故に遭って病院に

運ばれた時も真奈美はこんなふうに泣いていた。その時も今と同じように心にチクリと刺

さるものがあった。こんなふうに誰かを悲しませるようなことはやめよう、そう決めたは

ずだったのに。

「怖いの」

 真奈美が言った。何の事を指して言ったのかが分からなかった。

「怖い?」

 真奈美はコクッと頷いた。

「答えを聞くのが怖いの・・・・・・だから、今まで逃げてきたの」

 物事を考えるとき、肯定的な面と否定的な面が浮かんでくる。それが重要であるほど、

否定的な方が領地を広げてくる。物事の可能性を上回る範囲を蝕み、自分自身もいつのま

にか蝕まれてしまう。

「・・・・・・好きなの・・・・・・」

 隼人は真奈美を見ていた。今にも次の雫が落ちそうに、不安が身体を締めつけてるよう

だった。

「・・・・・・大好きなの・・・・・・」

 何かに怯えてるような瞳にすら見えた。どうして言ってしまったんだろう、そんなふう

に思ってるのかもしれない。これでもしも「嫌い」だなんて言われたら、そう否定的に。

その不安を取り除いてあげないといけない、それが出来るのは自分だ。

 真奈美の身体を引き寄せて、柔に抱きしめる。

「ありがとう」

 そう隼人は真奈美の頭を撫でてあげる。気分が高揚した時の真奈美の宥め方、最も特効

性のある方法。

「嬉しいよ」

 そう言うと、真奈美は体重を隼人に預けた。背中に腕を回して、大好きな相手の温もり

にこれ以上ない幸福を感じていた。

 ごめんね、と真奈美は言った。

 どうしたの、と隼人は言う。

 分かんない、と真奈美は言った。

 ごめんね、と真奈美はもう一度言った。


          ☆


 翌々日、携帯が鳴ったのはちょうどタイミングのいい頃合だった。母親も買物で出払っ

ていて、家の中にいるのは自分一人だった。

「今から行ってくるから」

 一行だけの淡白なメール、それがかえって意味合いを持たせている。佳穂のような楽観

的な人間がこういう簡潔な文章を送ることの意味合い。

 これから彼女は結愛と大瀧のところへ行く。そんなときにお遊びのような文章はいらな

い、そんなことをする余裕もないだろう。

 隼人は迷う、自分は行くべきか、行かないべきか。結愛が言ったように、今回の件に自

分は関係を持っていない。それなのに、出しゃばるように二度も入り込むことは逆効果で

はないだろうか。詳しく知りもしない人間がいることで展開も捩れてしまうのではないだ

ろうか。

 力関係も完全に負けている、大瀧からすれば自分は雑魚同然と見られているだろう。そ

んな人間の加勢が結愛に何の得があるだろう、そう考える。

 溜め息とともに真奈美の顔が浮かんだ。一昨日に見た、悲しそうな顔だった。ここで行

くことで、また真奈美を悲しませてしまう。それと引き換えにする価値のある行動だろう

か。

 冷静になろうと気を落ち着ける、大きく隼人は息をつく。自分は真奈美と一緒になる未

来がある、伊崎の会社を支えていく未来がある。結愛との2週間ばかりの出来事を振り返

る、胸を揺らす何かがあった。2週間、人生22年のたった2週間の人間にそれだけの感

情を抱いている。

 揺れている、直感的な自分と客観的な自分がせめぎあう。どうすれば正解かなんて分か

らない、答えのない問題だった。どうする、どうする・・・・・・何度と心内に問い掛け

ていく。



 街並みから外れた埃にまみれた廃墟ビルから眼下に街の景観を見渡す。市街地から外れ

た静観さは心を落ち着けるものであり、同時にこれからの緊張を促すようにも感じれた。

「いい?」

 佳穂からの言葉に結愛は頷く。

「本当に2人だけでいいんだよね」

「あぁ、他の人を巻き添えになんか出来ないよ」

 結愛はフッと笑みを見せる、そこに彼女なりの決意が見られた。まだ顔にある傷は癒え

ておらず、女の子の顔としては痛々しいものだった。

「タダじゃ帰れないかもしれない、それでも行くんだよね」

「うん、私は行かなきゃいけないんだ」

 これまで何かを諦めて生きてきた自分へのさよなら、そのために。

 伊崎隼人の顔が浮かぶ。自分のために、彼のために決心できた。今の自分じゃあ隼人に

は似合わない、心を濁らせてしまった自分のままでは。変わらないといけない、そうしな

いと彼と同じ道を歩けない。

「強いね、結愛は」

 頼もしい親友の顔を瞳にし、佳穂は笑みをこぼす。自分だってそうだ、過去を引きずっ

たような日々を過ごしてるだけだ。社会に出たって、自分の中で革新的に変わる何かがあ

ったわけじゃない。だけど、水下啓史に出会ってからは変わりゆくものがあった。変われ

るかもしれない、結愛と同じように彼女も思っていた。


「分かった、行くよ」

「うん」

 2人は廃れた階段を上っていく、上がったところには大瀧護の姿があった。2人の足音

で据わっていた大瀧の瞳がこちらに向く。何かを犯してしまった男の瞳、くすんだ眼光は

こんな夜にこそ映える気がした。

 結愛と佳穂の方から近づいていく、大瀧は動く気配はない。数年ぶりに顔をあわせた佳

穂にも何の感情も抱いてないように見える。大瀧に見えているのは実質結愛だけで、それ

以外の人間は邪魔者であるように。

 数mの距離を残して歩を止めると、ようやく大瀧は体をこちらに向けた。

 でっ、と息を一つついて大瀧が言った。

「聞かせてもらおうか」

 結愛の答え、また昔と同じような大瀧との関係に戻るのかどうか。

「充分に時間は与えたはずだ」

 大瀧はこれでもかと落ち着いている、怖いぐらいに。その静けさがふとした瞬間に爆発

する、溜めていた分だけ威力は大きなものとなり。もう次はない、ここが全ての結論を出

すところだ。

「私はアンタと一緒にいられない」

 言葉は直球で大瀧に投げた。回りくどい演説のような言い方に意味は為さない。福岡結

愛はこれから大瀧護といるつもりはない、それだけだ。

 あの頃、自分の存在する意味を考えようともしなかった頃とは違う。今は考えるように

なった、まだまだその悩みからは解放されはしないけれど。

 立つ舞台の違う大瀧とはいられない、私は・・・・・・隼人と同じところがいい。

「そうか」

 大瀧は納得したようだった。それが何を意味するかも分かっていた。

 ジリジリとこちらに近づいてくる、満ちた怒りはその体から零れ落ちてるようだった。

「待ちなさい」

 そう言うと、佳穂は結愛の前に一歩出る。

「結愛をやるなら、私をやんなさい!」

 強い瞳でそう言い放つ、相手の強さも充分に分かってる。こうなる事は容易に想像が出

来た、そうなったら自分が盾になろうと決めていた。「ダメだよ、佳穂」と言う結愛へ「大

丈夫だから」と言った。

「どけよ」

 標的はお前じゃない、そう言いたげに言う。大瀧は完全に気が触れている、その場面を

何度と見てきた2人はよく分かった。

「やれるもんならやってみなさいよ」

 そう佳穂が言うと、大瀧は彼女を殴りつけた。そのパンチは予想以上の威力があった。

殴られた頬の痛みが体に沁みていく、ただそんなことは気にしていられない。

 すぐに立ち上がると、体ごと大瀧にぶつかっていく。簡単に振り払われ、逆に拳が飛ん

でくる。その繰り返しが続く、数発で佳穂は立ち上がることを諦めた。

 力の差は歴然で、大瀧は手加減も左程しなかった。眼中にない人間に用はない、さっさ

と沈んでくれ、と拳に込められたように。

「次はお前だ」

 そう呟くと、大瀧は結愛にも一発くれた。

「素直に一緒にいればいいのによ」

 その大瀧の言葉に、結愛は反論した。

「素直だよ、私は」

 ううん、とかぶりを振る。

「やっと素直になれたんだよ」

 結愛は立ち上がり、少し笑った。

「今までどこか捻くれて過ごしてたけど、最近は毎日が楽しいんだ」

 なぁ、と結愛は言う。

「変われるんだよ、私たちだって」

 その一言は大瀧に強く入った。それでも、それを振り払おうとして大瀧は気が高まる。

「くそったれが」

 高揚した大瀧の手と足が何度と結愛を痛めつける。

 手は出さなかった、最初からそう決めていた。もう過去には戻らない、あの過去の続き

じゃない未来を生きたい。

 足元がふらつき、もう思うように立てなくなっていた。呼吸は乱れていき、意識が飛び

そうになっていく。

 隼人、ねぇ隼人・・・・・・ハヤト、どこにいるの、ねぇ。


 雑居ビルの階段を上がると、そこには妙な空気が漂っていた。いやに静かであるのに、

ただならない熱気を感じられる。嵐の後の静けさ、表現するならそういうことだろう。

 立っていたのは大瀧だけで、結愛と佳穂は地面に倒れていた。隼人と海斗と啓史がそこ

に来た時には、すでに事が終わっていた。佳穂は重々しく上半身を起こし、3人の姿を瞳

にすると声にならない声を発していた。結愛の方は反応がない、かなりやられてしまって

いるようだ。

 啓史は佳穂のところへ、海斗は結愛のところへ駆け寄る。海斗が隼人を見てコクッと頷

く、どうやら堕ちているだけのようだ。

 隼人は一歩も動くことなく前を見ていた。視線の先には大瀧が立っており、彼も隼人を

ジッと見ていた。

「言うこと聞かねぇからお仕置きしてやった」

 ピクリとも笑わない、怒りがおさまらないといった様子だ。

「一度やられてんのに、どうして懲りねぇんだろうな」

「変われるだとか言いやがって、笑わせんな。心が染まっちまった奴はな、もう元には返

れないんだよ」

 違う、と体の中で発して口にも出した。

「違う」

「変わったんだよ、この2人はもう。変わりたいと思って、ここに来た時点でもう変われ

てるんだよ。こうやって地べた這ってでも、ボコボコにされてでも、それでも変わろうと

したんだ。変わろうともしてない奴には分かんないだろうけどな、めちゃくちゃ凄ぇ事な

んだぞ」

 隼人の瞳が潤む、結愛と佳穂の痛々しい姿の分だけ感情が湧き上がる。自分を変えよう

と、ここまでした2人の勇気が身に沁みた。

「ふざけんな!」

 大瀧の怒号が響き渡る。

「どいつもこいつも裏切りやがってよ。あの頃に過ごした時間は全部無駄だったのかよ、

なめやがって」

 大瀧はこれでもかと瞳を見開き、言い捨てる。

「それも違う」

「無駄な時間なんてない、過去は今を作る上で必要不可欠なものだ。過去がなければ今は

ない、だから無駄な過去なんて存在しない。問題は、それをどう未来に繋げていくかなん

だ」

 そう、結愛と佳穂はそこに気づけたんだ。気づけたから変わろうとした、ここまでの事

をされてでも。

「テメェに何が分かんだよ!」

「テメェが俺の何を知ってんだ。分かったような口たたくんじゃねぇ。善人ぶりやがって、

綺麗事ばっか並べてんじゃねぇぞ」

 大瀧は隼人に向かっていき、思いきりの一発を与える。倒れた隼人に馬乗りになると、

何発もパンチをくらわせた。まだ前回の痛みが残っている隼人の体は思うように動かず、

為されるがままのサンドバッグ状態だった。

 やがて感覚は遠のいて、いたる機能は弱まっていく。大瀧の攻撃が終わった頃には、体

を返すだけでも大きな痛みが生じていた。

 それからの瞳に映る光景は止めようにも今の隼人には無理なことだった。隼人がやられ、

その後には海斗や啓史も大瀧にやられていった。その過程を見ていることしかできないの

は居た堪れないものだった。結愛や佳穂もこうしてやられたのかと思うと、無念さは倍に

なった。

 どうして・・・・・・どうして、こんな事にならないといけないんだ。

「何だ、しぶとい奴だな」

 そう言う大瀧の前には、かろうじて体をその場に立たせた隼人がいた。このまま、大瀧

の為すがままで終わらせるわけにはいかない。

「分かったよ、とどめを刺してやる」

 そう大瀧が取り出したのはダガーナイフだった。鞘を抜くと、鋭利な刃が隼人の方へと

向けられる。

「謝るなら今のうちだ。泣き喚いて頭を下げるなら、考え直してもいいぜ」

 こうでもすれば、この男はすぐにでも頭を地面につけるだろう。そう考えた、今までも

同じような場面で相手はそうしてきたから。

「誰がそんな事するかよ」

 そう隼人は言い捨てる。

「俺は何も間違ってなんかいない。だから、お前の言うようにはやれない。ここで謝った

ら、ここにいる奴らまで間違ってることになっちまう」

 そう、せっかく自らを変えようとした結愛や佳穂の気持ちまで。そんな事させない、彼

女たちの決心を無かったことになんかさせない。

「なら、お前は死ぬかもしれない。いいんだな?」

「悪いけど、俺は死なないよ」

「どういうことだ」

「お前が俺を殺さないからだよ」

 隼人の言葉は完全に大瀧の感情の線に触れた。大瀧は走りつけてくると、隼人の体へ一

線にナイフを突き出す。


 遠くから一連の光景を倒れ込みながら見ていた海斗と啓史と佳穂は心臓が止まるように

なった。バカ、挑発するな、止めろ、そう隼人の行動を瞳にしていた時間は一瞬ピタリと

止まった。

 大瀧の背を見られる角度にいた3人には最悪の事態が起こったと思った。呼吸が戻って

も、ハァハァと定まらない脈が流れていく。

 テメェ、と第一声を発したのは大瀧だった。

「どうして・・・・・・どうして、避けない」

 大瀧の突き出したナイフは、隼人の体に5cmほど刺されていた。それでも、初めて刃

が体の中に入った感触は何とも言えぬものだった。

 隼人は向かってくる大瀧から避けることをせず、刃を迎え入れた。

「避けねぇよ、お前は俺を殺さないからな」

 隼人は大瀧が怒気の頂点に達したとしても人を殺せないと悟った。

 自分の両親に対しても、大瀧はそれをしなかったから。しなかった、というより出来な

かったのだろう。生粋の悪だとしても、人間を殺める気を大瀧は持っていなかった。だか

ら、結愛も大瀧に分かってもらえると思ったのだろう。

 大瀧も変わりたいと思っている人間の一人だった。底辺といえる日常からの脱却、深海

でもがき苦しんで足掻いていたんだ。

「ふざけんな・・・・・・ふざけんなよ」

 言っただけの大瀧の言葉だった。

 もう大瀧は負けている、ナイフを通した2人の間では明らかになっていた。

 隼人は大瀧の両腕を掴み、力を込める。

「結愛は俺のものだ」

「お前みたいな半端者、あいつの近くにいる資格はない。さっさと消えろ」

 そう言うと、隼人は掴んだ大瀧の腕を奥へ引いた。刃が体から抜けると、血が左胸を外

れたところから流れていく。

「消えろ、今すぐ消えろ」

 襲い掛かる痛みに瞳を見開き、声は荒がっていた。歯を軋ませながら睨みつけると、大

瀧はあらゆる感情を押し殺してその場を去っていった。

 張り詰めた糸が途切れると、隼人は膝からそこに崩れる。

「隼人っ!」

 海斗と啓史と佳穂が自分を呼ぶ声が聞こえる、その声は次第に薄くなっていく。声量が

落ちてるのではなく、自分の意識が朦朧としてきてる事は分かった。呼吸は乱れていき、

意識が飛びそうになっていく。

 結愛、なぁ結愛・・・・・・結愛、どこにいるんだ、なぁ。


          ☆


 記憶にしがみつくようにいると、スライドしていく世界の先に君がいた。

 ハヤト、ねぇハヤト、そう僕を呼んでいる。

「・・・・・・ミツキ・・・・・・」

 僕は大怪我を負っていた。まだ幼い僕から見ても酷いものであるのは一目で分かる。

 美月は傷口をさする、痛くはならないよう柔に触れる。

 ごめんね、ごめんねハヤト、そう君は言った。

「・・・・・・私のせいでごめんね・・・・・・」

 違うよ、君のせいなんかじゃない。これは僕がこうなる事を選択したんだ。だから、君

が責任を感じることなんかない。

 笑って、僕の好きな顔をもっと見せて欲しい。

 もういいんだよ、こんなところに閉じ込められなくても。20年間も君はここに独りき

りでいたんだ。そろそろ、外に出よう。

「・・・・・・さぁ・・・・・・」

 僕が手を伸ばすと、君は少し戸惑った顔をした。

 いいの、本当にいいの、そう問い掛けてくるように。

 いいんだ、本当にいいんだよ、そう答えてあげる。

 すると、君はにっこりと微笑んで手を差し出した。

「・・・・・・ありがとう、ハヤト・・・・・・」

 行こう、一緒に行こう、元の場所に戻ろう。ねぇ、美月・・・・・・いや、結愛。

 こんなに長い間、迎えに来てあげられなくてごめんよ。僕の傷なんかより、ずっと君の

ことを痛めてしまった。

 君は笑顔でかぶりを振る、それで僕も笑顔になれた。



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