第6話
瞳を開くと、夢の世界が続いているような不思議な感覚があった。果てなく続いている
緑々とした草原、空に広がる真っ白な雲の列。その中に君はいて、僕は小さな体で近づい
ていった。
けれど、いつもの夢とは違った。僕が美月と呼び掛けると、君は首を傾けていた。君は
美月のはずなのに、それを否定するようにしていた。そんなことは今までになく、隼人は
瞳が覚めてからも動けずにいた。
あれはどういうことだったんだろうか、あの行動は何を示してたんだろうか。まるで、
自分の名前が分からないかのように君は首を傾げた。こっちをからかってるとは思えない、
それが余計に隼人の頭を濁らせる。自分の心が福岡結愛へ移ろいでる事、進士真奈美との
政略結婚が進んでる事への嫉妬か。この世界のどこかにいるはずの君が遠隔操作で僕にそ
れを送りつけているのか。
私はここにいるの、何を他の女に心を許してるの、と。
結局、隼人は思うような解答を導き出せずに起床した。あくまで夢の中のことだ、そう
諦めを自分に押しつけて。
瞳を開くと、夢の世界が続いているような不思議な感覚があった。果てなく続いている
緑々とした草原、空に広がる真っ白な雲の列。その中に私は小さな体でいて、あの男の子
は近づいてきた。
男の子はミツキって私に言って、私はそれに首を傾けた。私は福岡結愛だ、この子は誰
かと人違いをしてるんだと。
そして2人は手を繋ぐ、今もこの手に残ってるような温かさだった。なのに、男の子か
らは懐かしさに似た感情を伝え得ていた。
あれはどういうことだったんだろうか、あれは何を示してたんだろうか。もしかして、
私の記憶の無い部分の断片を映したものなんだろうか。
結愛の最初の記憶は施設で意味も分からずに毎日を過ごしていた事だ。あの頃は施設を
自分の家と思い、多くの人間の中で孤独と闘っていた。自分には両親がいない、それは彼
女の身体で最も多くを占めていた感情だった。世の中にはこんなに大人がいるのに、どう
して私に親はいないんだろう。
そんな日々を過ごすうち、結愛には家族が出来た。福岡宗一郎と福岡節子、爺ちゃんと
婆ちゃんが彼女を家族として迎えてくれることになった。
「今日から私たちは家族で、ここがアンタの家だからね」
節子が言ってくれた言葉が嬉しかった。この人たちは家族で、ここは私の家なんだと彼
女は心に決めた。
そして、2人は彼女に「結愛」という名前を付けてくれた。結ぶ愛、「たくさんの人たち
と愛情をもって結ばれるように」と。両親からの愛情を受けずに施設で育てられた自分の
ために、と考えてくれた。
2人は結愛を実の娘、もしくは孫のように育てた。2人は結愛が好きで、彼女も爺ちゃ
ん婆ちゃんが好きだった。
中学生になると、秋井佳穂という親友も出来た。表裏がなく素直な彼女に自分にないも
のを感じたし、そんな2人なのに妙に馬が合った。この頃になると、学年でも不良と位置
付けされるグループに入るようになる。良い子してるような同級生とは気が合わなかった。
グレてる尖った奴らといる方が両親のいない結愛には居心地がよかった。タバコも吸った
し、酒も飲んだし、バレないようになら軽い犯罪行為もした。刺激的で楽しければよかっ
た、それで何かを紛らわせたかった。
言葉遣いも見てくれも変わった結愛を宗一郎と節子は邪険にはしなかった。それも自己
主張の一つ、性格が曲がらなければいいだろうと理解してくれた。
結愛もそんな2人の気持ちを裏切らなかった。中学を卒業すると、そのまま結愛は青果
店で働くことにした。本物の子供がいない爺ちゃん婆ちゃんのため、自分が店を引き継ぐ
ことに決めた。
それからはスカジャンにジーンズという普段着で威勢のいい声を店で張った。小さい頃
から店に遊びに行くことはしょっちゅうだったので、常連や市場の人たちとは既に気心は
知れていたし、飲み込みは早かった。
働き出してからも不良グループとの交流は続けていたが、仕事に穴は開けなかった。宗
一郎と節子も意見は言わず、そこに自分の居所を見つけていた結愛を見守ってきた。
一回りしてきた映像は再び元の場所に戻る、男の子はまだ笑っていた。あなた誰、そう
訊きたかったけれど夢の世界にいる男の子に現実の自分が問い掛けることは出来なかった。
ジリリリリ、設定していた時計のアラームが2回目の信号を奏で出す。結愛はそれを止
め、思うような解答を導き出せずに起床した。あくまで夢の中のことだ、そう諦めを自分
に押しつけて。
☆
シャワーで汗を流してから、リビングに行くと母親の悦子の姿があった。父親の一之介
も会社に行く支度をしている、早く行ってくれと隼人は思った。真奈美との話が出てから、
少し家の中の空気は悪くなった気がする。隼人の心内に起こる葛藤から勝手にそう感じて
いるだけなのかもしれない。
両親はこれまでの通りに接してるようで、結婚話がまとまるまではと隼人の気を壊さな
いようにしてるようだった。兄の時もこんな感じだった、もしかしたら父親の時もこうだ
ったのかもしれない。自分の時に祖父がこうしたから、それを息子の時にも実行している
のかもしれない。
「おはよう、隼人」
「あぁ、おはよう」
「朝食、食べるでしょ?」
「うん、よろしく」
悦子は食器の片付けを止め、隼人の分の朝食の用意を始める。
オーブントースターのぜんまいばねの戻る音、電気ケトルを沸かす音がする間に朝刊に
目を通す。朝刊に並ぶ記事を流し読む、どれも他人事だ。
「おい、隼人」
一之介から呼ばれ、隼人は後ろを振り向く。
「どうなんだ、真奈美ちゃんの方は」
聞かれるだろう、と思っていた。だから、早く会社に行ってほしかった。
「どう、って事はないけど」
そうか、と一之介は言う。隼人の考えに任せる、とは言っていても彼の中できちんと進
行は決まってるのだろう。一之介の考えでは、まず間違いなく隼人は真奈美と結婚するこ
とになっている。
ただ、一之介が思っているほど事はスムーズには運んでいない。父親の知らないところ
で、息子は様々な感情に動かされていた。幼い頃に築いた美月との想いを今も抱えていて、
10日ほど前に出会った結愛への想いも日に日に重くなっていっている。
どうすることが世間一般的に正しいのかは分かってる、会社へ出掛ける父親の姿を瞳に
しながら隼人は思っていた。
「今日は何がいいのかね?」
「今日はね、さつまいもと柿がいいよ」
「じゃあ、それを貰おうかね」
了解っ、と彼女は敬礼のポーズをして動き出す。
品物を袋につめる間も世間話をしては隼人には見せない満面の笑顔を見せる。常連の客
や市場のメンツや佳穂には見せるが、隼人には見せられない。なんだか、隼人の前にいる
と強がってしまう自分がいて・・・・・・というより、からかわれるのが恥ずかしいだけ
だろう。
「今日もありがとうね、結愛ちゃん」
「ううん、また来てね」
店を後にする常連のお婆ちゃんへ手を振って見送る。
少し口元が痛んだ、大した傷にはなってないが昨日殴られた記憶がその度に蘇る。最初
から分かりきってた事だったけれど、やはりこうなってしまった。あいつが出所した話は
佳穂に聞かされたのに、あの時間帯に港にいるなんて迂闊だった。
隼人にあの場面を見られなかったのは最悪の中では良かったといえる。出来れば、隼人
には知られたくない。この事は、自分だけでけりを付けたい。
そう、過去と決別することで次に行くんだ。結愛は決意を固める、和らいだ眼差しは瞬
間強いものになっていた。
☆
この日、大学は1限目から6限目まで授業が割りに詰まっていた。ラストの6限目にも
なると、講義堂の大半の学生はやる気をなくしている。頭は回らなくなってるし、授業が
終わったらどうしようかと心ここにあらずだ。
隼人と海斗と啓史の3人も例外でなく、授業は耳に入れているだけの状態だった。
なぁ、と口を開いたのは海斗だった。
「お前ら、どうなの? その後の展開」
言わんとしてることは伝わった。隼人には福岡結愛、啓史には秋井佳穂、5人で会った
時からの進展の具合はということだろう。
「展開って、別に何もねぇだろうに」
啓史が言った。隼人は特に何も言わなかった。
「何だよ、お前ら、さっさと行けよ。行くとこ行っとかないと、勝手に見合いとかさせら
れんぞ」
海斗は自分を引き合いに言い、隼人はそれに真奈美を浮かべる。啓史だって例外ではな
く、近い将来にあり得ることかもしれないと感じる。
「何か、お前が見合いさせられたみたいな言い方だな」
「あぁ、したよ」
海斗はあまりにあっさりと返答した。隼人と啓史は驚く、嘘みたいに流れるようについ
た真に。
「ちょっと待て、そんなこと聞いてないぞ」
「そりゃな、初めて言ったし」
「いつ、いつしたんだよ」
「3日前」
海斗の返答は全てが統一して真夏の小川のように濁りのない透き通ったものだった。悩
んだり迷ったりしている様子は一切見られない。
「相手は?」
「ウチの会社が今度進展させようとしてる業種に強いところのお嬢さん」
要は政略結婚、そういうことだった。
少し間が空く、隼人にとっては現在進行形、啓史にとっても他人事ではない話だ。
「お前ずいぶん簡単に言ってっけどさ、それでいいのかよ」
「何が?」
「何が、じゃねぇよ。親の言いなりの結婚なんかしていいのかよ」
言ってしまえば、会社から下りる最初の辞令のように。
「いいんじゃないかな、悪い事ではないわけだし」
「だって、おい・・・・・・」
早まるな、そう説得しようとしていた啓史の先を読んで海斗が切り出す。
「いいんだ、俺はもう納得してるから。良い子なんだよ、その相手の子っていうのが。一
般的な礼儀があって才もあって、とかいうんじゃなくて。俺らみたいに世の中に対して卑
屈になってるんだ、抜け出せられない未来に嫌気を持っている。あの子は俺の気持ちを分
かってくれる、どうにもならない刹那の感情でも。なんていうか、俺は普通にあの子に恋
をしてるんだ。だから、俺の中では政略結婚であると同時に恋愛結婚にもなる」
海斗の言葉に、隼人と啓史も納得させられる。隼人にとっての結愛、啓史にとっての佳
穂、その関係とはまた違ったけれど。
結愛や佳穂とは住む環境が違う、だから彼女たちは隼人や啓史を違った世界へ連れ出し
てくれる。
海斗と安佐華恵は同じ環境に住む、だけど海斗は彼女を選んだ。お互いが持つ周囲への
傷みを共有し、歩んでいく未来を選んだ。
海斗の選択は隼人や啓史にも分かることだった。それは隼人にとっての真奈美に似てい
たから。隼人が普通に生活を送っていたのなら、おそらくは真奈美との道を選んでいただ
ろう。彼女よりも前に美月と出会ってなければ、彼女より後に結愛と出会ってなければ。
隼人は海斗よりも複雑な環境に潜り込んでしまっていた。そして、今も答えを出すこと
が出来ず平行線を漂っているだけだった。
6限目が終わり、大学を出る頃には暗い空に月が浮かんでいた。微妙に欠けた月の様は
隼人の心の形を表してるように思えた。
足取りもそんなようになる、一つ一つの足跡はコンクリートに減り込むようだ。
そうそう長く伸ばすことが出来ないのも分かってる、答えを出さないとならない時は近
づいてきている。
ねぇっ、と3人の背中に掛けられた言葉は聞き覚えのある声だった。
「よかった、見つけたっ!」
秋井佳穂だった。走って来たようで、額には汗が滲み、息が切れている。黒のスーツ姿
だったのは新鮮に映る、仕事終わりということなのだろう。どうしたんだろうか、こんな
に急いで大学まで来るなんて。
「何、どうしたんだよ」
啓史がそう近寄ると、両腕を掴んで佳穂は嘆願した。
「結愛が・・・・・・結愛が危ないの」
何事か分かりかねたが、まずい展開であることはすぐに分かった。
街並みからは外れた古くさった4階建てのビルはただ建っているだけのものだった。い
つから人が入らなくなったのかは分からないが、数年間は誰もここに金を払ってはいない。
取り壊しもされず、関心もされずに無視されているだけのいじめられっ子のようで変に愛
おしさを感じたりもする。
数年前、結愛はこのビルによく出入りをしていた。ここは結愛や佳穂もいた不良グルー
プの溜まり場として使われていた。掃除などするはずもなく、埃にまみれた廃墟ビルだっ
たが結愛はここを気に入っていた。
窓際から眼下に見渡す街の景観は中々のもので、市街地から外れていたこともあって静
かな場所だったのもよかった。屋上に上がれば、涼しい夜風や広がる夜空を直に感じるこ
とができた。ここにいた頃は楽しかった、今でもそう思える。
ただ、ここはもう自分の今の居場所じゃなかった。あいつと離れてからは来ることもな
くなり、それは他のメンツも同じだった。中心角のあいつに裏切られたことで、このグル
ープは終わったんだ。
そう、これは自分の中で終わらせるべきことなんだ。だから、最後のケリをつけないと
いけない。それで全てが終わる。
久しぶりに訪れた廃墟ビルは何も変わっていなかった。汚くて、ボロくて、懐かしかっ
た。
ビルの中へ足を踏み入れると、一つ一つ慎重に歩を進ませていく。緊張で胸が高鳴る、
独りきりで暗い廃墟を行くのは心細い。でも仕方ない、これは私がつけないといけない踏
ん切りだ。自分のケジメは自分でつける、そう心内に叫んだ。
「おい」
大瀧護は3階の長テーブルの上に座り込んで窓外を見ていた。結愛の言葉に、大瀧はこ
ちらを振り向く。
「よぉ」
黒のタンクトップに革ジャン、あの頃と変わらないウルフのような金髪。
昔はそれが自分を守ってくれる頼もしさだったが、今は自分を傷つけるかもしれない恐
ろしさになっている。
「来ると思ったよ」
そう言うと、大瀧はテーブルから降りてこちらへ歩き出す。
「まぁ来なくても、こっちから行ってただろうけどな」
一歩一歩近づいてくる、視線は外さなかったけれど怖さはもちろんあった。
結愛の数m手前で大瀧は止まる、その瞳はスッとした静けさを持っている。数々の悪事
をしてきた男の瞳、それは常に爆発する寸前のような妙な静寂を保っていた。
「昨日の話の続きだ。答えを聞かせてもらおうか」
昨日、港で2人は会っていた。
会おうとしたわけではなく、嫌な鉢合わせをしてしまった。会うつもりなんかなかった、
こいつは皆を裏切ったんだから。
結愛たちのいた不良グループは、今にも警察のお世話になりそうな奴らの集まりだった。
下手すれば、監獄行きになりそうな奴らも数人はいた。
それでも結愛や佳穂はそこに居続けた、ここは彼女たちにとって楽しい場所だったから。
どうにもならない連中の集まりではあったけれど、なんか面白い奴らだった。
その中で結愛は大瀧護と親密になる、佳穂にもグループの中に相手がいた。爆弾を抱え
た静寂者、陰を背負った大瀧に結愛は自分と重なるものを感じていた。あまり言葉多くは
語らない、奇異な男女関係とはいえたが2人の中では成立していた。肌が触れ合ったり、
体を重ねたり、そういった上辺な繋がりじゃない。何も言わずとも心で触れられる、そう
いった内面の繋がりだった。自分が側にいれば、大瀧の爆弾は不用意に威力を発揮するこ
とはないはずだった。
なのに事件は起こってしまった、取り返しのつかない事件だった。大瀧は不仲だった両
親から将来について問い質され、それまで張り詰めていたものが壊れた。ブチ切れし、父
親の腹に包丁を刺し、母親にも暴行をはたらいた。命に別状はなく、それによって大瀧の
罪も重いものにはならずにすんだ。
しかし、結愛はそのことで完全に大瀧との関係を切り離した。彼女にとって、手を伸ば
しても手に入らない家族という存在。それを傷つけた大瀧を許せなかった。結愛は大瀧と
の決別を決意し、それに続くように全員がグループを離れていった。
そんな経緯を知らない大瀧は出所しても、自分の居場所はあると思っていた。いや、も
しかしたらとは考えていたが、結愛だけは待っていてくれると信じていた。
そう願って港に行くと、彼女は出所の情報を得ていたかのようにそこにいた。だがそれ
は違っていた、そこにいたのは以前の福岡結愛とは違った。結愛は大瀧との関係の修復を
拒絶し、もう二度と会いたくないと押し付ける。腹を立てた大瀧は彼女に手をあげ、考え
直せと強引に諭した。
無論にそんな力まかせで結愛は揺るがない、彼女の決意は固いものだった。
「悪いけど、アンタとつるむつもりはない」
「・・・・・・どうして?」
大瀧の瞳が変わっていく、返答次第ではという気だ。
「好きな人が出来たんだよ」
「なに?」
大瀧の瞳が据わる、そして結愛の顔を一発殴りつけた。
「ねぇ、大丈夫かな」
もちろん、結愛の身がということで佳穂は言った。
「大丈夫だよ、当たり前だろ」
そう自分に言い聞かせるように啓史は言う。
結愛がいるであろう廃墟ビルへと海斗の車で向かっていた。
「隼人も大丈夫か、相手は結構ヤバイんでしょ」
運転する海斗も心配を込めて言った。
隼人は佳穂の話を聞くなり、自分のバイクを一気に飛ばして行ってしまった。
結愛の過去の話、大瀧護との親密な関係を佳穂は3人に伝えた。大瀧の起こした事件、
刑期を終えて出所した事、そしてその手が結愛に伸びようとしている事。
「どうしよう、2人にもしもの事があったら・・・・・・」
佳穂は後部席で身を屈める。啓史は彼女の肩を抱え、大丈夫だからと諭す。その様子を
ミラーで見ていた海斗はアクセルを踏む強さを増す。
「どういうことだ、好きな奴ってのは」
大瀧は結愛の髪を掴みあげ、強い瞳でもって訊く。
「そのまんまだよ」
血の滲む口元でフッと笑みを見せると、痛みも同時に訪れた。
「俺らは何だったんだ、俺らは・・・・・・好きとか嫌いよりももっと深いところで繋が
ってたんじゃねぇのかよ」
今にも感情を噴き出しそうに大瀧は言う。
「お前は私たちを裏切ったんだ。だから、私とお前はもう終わったんだよ」
大瀧に負けないぐらいの強い瞳で結愛は言った。
「ふざけんなよ」
そう言い、大瀧は結愛の胸倉をつかんで拳に力を込める。結愛はグッと唇を噛む、こう
なる覚悟はしていたから。
ガッコン、そのとき大きな物音が廃墟ビルに響いた。音の源の方へ振り向く、いるはず
のない人間がそこにいた。
「・・・・・・なんで・・・・・・」
結愛の視線の先には隼人がいた。
嫌だ、こんなところ見られたくない。前の男とのケリをつける、こんな汚い場面なんか
見られたくない。
どうして隼人が、と思ったが答えは簡単だった。佳穂が言ったんだろう、彼女だけには
事前に伝えておいたから。
「何だ、テメェは」
大瀧は結愛を離し、隼人に体を向ける。
そして、一歩ずつ近づいていく。その威圧感といったら、隼人が感じたことのない類の
ものだった。
近くに来ると一致した、昨日の港から出て来た男だ。
「テメェか、こいつの男ってのは」
隼人にはよく意味が分からなかった。こいつ、は間違いなく結愛のことだ。こいつの男、
と大瀧が自分に言っている。浮ついた点になんとか線を繋ぐ、言わんとしていることは理
解することが出来た。
「勝手な事をしてくれたな、兄ちゃん」
気づくと体が飛ばされていた。大瀧の強く素早い拳は防御をすることも出来ず、隼人の
体を殴り飛ばした。
体を起き上がらせる、すると福岡結愛の姿が前にあった。
「どけ」
大瀧は結愛に言う、その瞳は完全に怒気に満ちていた。
「こいつは関係ねぇだろ、これは私とお前の問題だ」
そう言った結愛に大瀧は手を上げた。
地面に叩きつけられた結愛のこめかみから血が流れていく。その光景は許せるものでは
なかった。隼人は完全に大瀧護を敵と判断した。
「何だよ、その瞳は」
隼人の瞳は強く大瀧を睨みつける。それが気に食わず、大瀧はまた隼人を殴りつけた。
口元に血の味がする、ただそんなことは全く今の隼人には気に掛かりもしなかった。
「こいつの男はな、強くなきゃいけねぇんだよ」
まだ起き上がれていない隼人を見下すように大瀧は上から言った。
「確かに・・・・・・そうかもしれない」
大瀧の言葉を容認するような隼人の言葉に結愛は理解に苦しむ。
隼人には隼人なりの理解があった。結愛のような孤独を抱えて生きてきた女性には確か
に強い男性が必要かもしれない、と。
ただ、大瀧の言葉の意味と隼人の思いは違っていた。
「そうかもしれないけど、それは違う。腕っ節がいいとか、力任せとか、そんな強さじゃ
守れない。結愛はもっと精神的な強さで守ってあげないといけないんだ」
そう、両親のいない結愛にはそれにも勝るような愛情を与えてやるべきだ。信じていた
彼女を裏切った大瀧にその資格はない。
「・・・・・・ふざけんじゃねぇぞ」
虚仮にされたように陥った大瀧は震え上がる衝動を抑えきれずに向かっていく。目の前
の隼人に何発とパンチを食らわし、倒れこむ体を無理に起こしてまた殴りつけていく。結
愛も何度と止めに入ったが、大瀧の力には遠く及ばず地面に叩きつけられるだけだった。
「おらぁっ」
最後の一発は力いっぱいに殴った。
もう、隼人に起き上がる余力はなかった。結愛は何も出来ない自分への失望感に打ちひ
しがられる。
息の上がっている大瀧が結愛の方へ近づいてくる。結愛は失望を込めた瞳をしている。
大瀧は熱気の治まらないように瞳を見開いている。
「これが最後だ」
そう前置きをし、大瀧は忠告を始める。
「もしも次に望む答えが返って来なかったら、こんなもんじゃ済まさねぇ」
分かったな、と釘を刺した。
去っていく大瀧には瞳もくれず、結愛は隼人のもとに駆け寄る。
「隼人、隼人っ!」
強めに体を揺すると反応があった。意識はあり、体の節々の痛みは重そうだった。顔中
が傷だらけになり、体中は埃まみれになっている。自分のせいで、そう思うと居た堪れな
い気持ちになった。
「なんで・・・・・・何で、こんなところに来たんだよ」
結愛が手を包み込むと、隼人も握り返した。分からない、と隼人は言った。
「分からないけど、分かる分からないは関係なくバイクを飛ばしてた」
その言葉に、結愛はなお強く手に力を込める。
出来るなら隼人には気づかれることなく事を静めたかった。隼人に出会う前の事だ、彼
には関係のない事だから関わらせたくなかった。でも、心のどこかで待っていたのも事実
だった。自分一人だけで大瀧を説得できる気はしてなかったし、佳穂にそうすると伝えた
時点で彼女がそれを隼人に言うことも予測できた。
ただ、その甘えで隼人をこんな目にあわせてしまった。彼の善良な気持ちを利用してし
まったようで心苦しい。
「ごめん・・・・・・ごめん、隼人」
瞳から流れた涙は顎から落ち、隼人の右手にはねた。これまで人前で流すまいと堪えて
きたのに目の前で傷だらけになった隼人には素直に涙は流れた。
恋心、隼人への思いをそう確認した。
「泣くなよ、このぐらいで」
隼人は強がりで言った。本当は転げたいぐらいに痛かったけれど、目の前で泣いてる結
愛を宥めたかった。
手を伸ばし、彼女の頭をゆっくりさすってあげる。
「泣くなよ・・・・・・もう」
撫でられると、不思議なくらいに心が落ち着けた。魔法でもかけられてるように、不安
だった心はスッと和らいだ。懐かしさに惹かれ、遠く淡い記憶に辿り着けそうな感覚だっ
た。
海斗と啓史と佳穂が廃墟ビルに着いた頃には事は落ち着いていた。
「結愛っ、大丈夫!?」
一直線で駆けつけた佳穂に、結愛は大丈夫と伝える。
「私はいいから、隼人の方を助けて」
隼人は結愛より酷くやられていた。
「隼人、隼人っ!」
海斗と啓史の呼び掛けに多少の反応があった。最悪の事態にはならなかった。喜べはし
ないが、3人は一先ず安堵した。
救急車で病院へ運ばれると、その車内で隼人は堕ちた。
☆
その時の夢はいつもと違うものだった。
隼人は草原の中に倒れ込んでいる、苦しそうにしている。美月は彼の体を抱え、心配そ
うな眼差しをしている。
空いっぱいの快晴、風は温もりと涼しさの両方を兼ね備えていて、この世界にある全て
のものが良化されている。
その中において、隼人だけが全部の悪を一手に引き受けたようにしていた。
「・・・・・・ハヤト・・・・・・」
美月は悲しそうな顔をしている。自分のせいでそうさせている、それが隼人を悲しくさ
せる。
一心同体、そう表したくなるぐらい2人は1人のような関係だった。一方の感情はもう
片方の感情であり、2人もそうあることを望んでいた。
「・・・・・・ハヤト・・・・・・」
だから、目の前で苦しむ隼人を見ているのが美月は辛かった。何とかしてあげたい、そ
の一心で彼の体をギュッと抱き寄せる。ハヤト、なおって、ハヤト、わたしのげんきをあ
げるから、ハヤト・・・・・・。
体の中から何かが抜けていく感覚が起こり、それは一つ一つと続いていく。どんどん体
が軽くなっていく、安らいでいく。数分のうちに痛みが引いていってしまった。
「・・・・・・ミツキ・・・・・・」
ありがとう、と隼人は言う。
よかった、と美月は笑顔で言った。
一心同体、そう表したくなるぐらい2人は1人のような関係だった。




